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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第1章 灰色の村
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第3話 ミオリ村

そのことに少しだけ安心して、両手で器を持ち直し、もう一口飲んだ。ゆっくり飲まなければと思うのに、乾ききった体が水を欲しがり、一気に流し込んでしまう。三口飲んでようやく息をつき、器の中を見た。灰色の水面が小さく揺れている。


「……ありがとうございます」


かすれた声が出た。誰に向けたのか自分でも分からない。女性は表情ひとつ変えなかったが、器から少し視線を外した。男は私ではなく、戸口に立つあの人を見ている。


「食えるか」 男が言った。


私は反射的にうなずきかけて、少し躊躇する。何が出てくるのか分からない。それでも、お腹は空っぽだった。うなずくと、女性は奥の棚から小さな皿を取り出してくる。そこには、薄く切られた何かと、硬そうな塊が一つ乗っていた。

それらも、灰色だ。

野菜なのか、肉なのか、パンのようなものなのか、見た目では見当もつかない。私は指で一つをつまむ。表面は乾いていてざらざらしている。恐る恐る口に入れると、硬かった。


噛む。

少し遅れて、穀物のような味がした。味は薄いが、間違いなく食べ物だ。驚いて、もう一度噛む。灰色なのに、味がある。水もそうだった。色が抜け落ちているだけで、すべてが失われているわけではないらしい。

けれど、それがかえって気持ち悪かった。

見た目では何を食べているのか分からないのに、舌と歯だけがそれを食べ物だと理解し、体が受け入れていく。視覚だけが置いていかれるような感覚。口の中のものを飲み込むまで、皿から目を離せなかった。


「まずいか」 男が聞いた。


私は首を横に振る。


「いえ……味は、あります」


口にしてから、おかしな答えを返してしまったと気づいた。まずいかと聞かれているのに、味がある、と返すのは不自然だ。でも、ほかに言いようがない。男は少しだけ目を細めた。笑ったわけでも、呆れたわけでもない。ただ私の言葉の意味を測っているようだった。


「当たり前だ」 男は言った。


私は皿を持つ手を止める。当たり前。この人たちにとって、灰色の水を飲み、灰色の食べ物を口にすることは日常なのだ。私だけがそれに驚き、戸惑っている。そう気づくと、急に自分が場違いに思えた。


「ここは……」 声が出た。


自分でも聞くつもりだったのか分からない。けれど、一度出てしまうと止められなかった。


「ここは、どこなんですか」


男はすぐには答えない。家の中の空気がわずかに揺らいだ気がした。女性は奥の壺のそばに立ったまま、こちらを見ている。あの人は戸口の脇に立ち、外へ視線を向けたまま動かない。


「ミオリ」 男が言った。

「村だ」


ミオリ。聞いたことのない名前だった。そんな場所を知らないのは当然だと頭では分かっているのに、その事実がうまく飲み込めない。日本の地名ではない。病院の近くでもない。頭の中で地図を思い描いてみても、どこにもつながらない。

もしかしたら、海外の僻地か、言葉の違うどこかの国かもしれない。そうやって無理やり自分を納得させようとして、口を開く。


「日本……では、ないですよね」


言ってから、少し後悔した。

男の眉がかすかに動く。女性も、聞きなれない言葉に怪訝な顔をしている。


「ニホン?」


男が不思議そうに繰り返した。やはり通じていない。あの人だけは全く反応しなかった。私は器を持つ手に力を込めた。元の世界の常識が一切通じない、まったく別の場所にいる。その現実が強制的に突きつけられる。


「……いえ。なんでもないです」


どう説明すればいいのか分からない。国の名前を出しても通じないなら、病院も、キャンバスも、ここでは意味を成さない。私は一度口を閉じ、灰色の水面に目を落とした。まずは、生きるために必要なことを聞かなければいけない。


「どうして、全部こんな風なんですか 」


言葉にした途端、家の中が静まり返った。外では風が吹き、布がこすれる音がする。遠くで誰かが咳をした。それなのに、家の中だけ時間が止まったように感じられる。

男は私をじっと見ていた。


「……こんな風とは、何のことだ 」

「分かりません。目が覚めたら、外にいて……空も、地面も、全部灰色で。最初はただの夢だと思いました。でも、夢じゃないみたいで」


言葉を重ねるほど、自分の声が頼りなくなっていくのが分かる。けれど、ありのままを話すしかなかった。男はあの人を見た。


「本当に拾っただけか」


あの人は、外へ顔を向けたまま短く答える。


「ああ」

「どこで」

「草地だ。(うろ)に追われていた」


その言葉が出た瞬間、私は顔を上げた。 さっきのもの。地面の下から跳ねた、灰色の何か。形がよく見えないまま近づいてきたあれを、この人たちはそう呼ぶのだ。


「虚って、さっきの……灰色の、よく見えないものですか」

男は私を見る。

「そうだ。村の近くにたまに出る」


腕をかすめた感触が戻ってくる。冷たくて、ざらついていて、触れられた場所の嫌な感覚がはっきりと蘇る。


「虚は……人を襲うんですか」

「襲う」 間を置かず、男は答えた。

「触れられたところから、崩れていく」


崩れていく。言葉の意味は分かる。私を襲った虚が、あの人に触れた途端に不自然に削り取られていった光景を思い出す。


「崩れると、どうなるんですか」

聞いた瞬間、男の目が少しだけ険しくなった。

「全て崩れてしまったら、死ぬ」


死ぬ。 その言葉だけが、頭の中でひび割れるように響いた。さっき虚にかすった左腕の浅い傷が、急に熱を持ったように痛みだす。もしあれがもう少し深く触れていたら。もし私がもっとあの塊に呑み込まれていたら、私は死んでいたのだ。存在そのものが消えていた。 そう実感した途端、さっと血の気が引いた。

私は自分の手を見た。色のある手。この村の中で浮いて見える自分の体。


「人まで灰色なのは……」


男は眉をひそめた。


「ハイ色?」


何を言っているのか分からない、という顔だった。


「体の色のことです」私が言うと、男は私を見る。

「お前たちは、俺たちと違うみたいだが」そこで言葉を切り、肩をわずかに動かした。

「俺は、生まれたときからこうだ。昔のことは知らん」


私はそれ以上聞くのをやめた。女性が視線を落とし、灰色の指を重ねている。顔も髪も服も同じ色なのに、ちゃんと人がそこにいる。皿に残った食べ物を見る。食べ物も、水も、人も、みんな同じ色をしている。おかしいのに、ここではそれが当たり前なのだ。


「この村は、水と布の村だったそうだが、今は畑を耕して暮らしている」


男は少し間を置いてから言った。

「大したことはできんが、休んでいくといい」


私は器を置き、膝の上で手を重ねる。右手にはガラスペンがある。隠したつもりでも、細い軸は指の隙間から見えてしまう。男の目がまたそこへ向きそうになったので、私は手を少し引いた。

戸口の横に立つ人を見る。 名前を知らないことに、今さら気づいた。何度も助けられているのに、私はこの人のことを何も知らない。少し迷ってから、戸口の方へ声を向けた。


「……名前を、聞いてもいいですか」


返事はすぐにはなかった。外で風が吹き、戸口の布が揺れる。灰色の布が、その人の肩の近くで小さく動く。聞こえていないはずはない距離だ。それでも、その人は外を見たまま動かない。

答えたのは、男だった。


「ロアだ」


初めて名前が出た。ロア。私は心の中で繰り返す。助けてくれたのかもしれない人。けれど、何を考えているのかわからない、見えない境界線の向こう側にいる人。


「ロアさんは……この村の人なんですか」


男は首を横に振った。

「違う」

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