第2話 灰色の水
男に案内されて入った家は、外から見た印象よりも狭く感じられた。
戸口をくぐるとき、無意識に肩をすぼめる。梁が低いわけではない。中へ入った途端、湿った土と古い布が混ざったような匂いが鼻をついた。
部屋の中は薄暗い。窓の隙間から外の光は入っているが、それは白い光ではなく、外の灰色の明るさが少しだけ流れ込んでいるだけだった。光が床に落ちても、そこに色は生まれない。濃い灰色と薄い灰色の境目が、ぼんやりと浮かび上がるだけだ。
壁際には小さなランプが置かれている。器の中で、炎のようなものが揺れていた。けれど、それも橙色や黄色ではなく、ただの灰色の火だった。
こんな色の火があるのだろうか。 私は恐る恐る顔を近づけてみる。色は不自然な灰色なのに、頬にわずかな熱を感じた。触れれば火傷をする。間違いなく火としての性質を持っているのだと分かる。ただ、火そのものに色が乗っていないからか、周囲を暖かく染めることはなく、置いてある道具の輪郭をうっすらと照らしているだけだった。
私は入り口の近くで立ち止まる。 前を歩いていたあの人は、部屋の奥までは進まず、戸口のすぐ脇で足を止めていた。腰を下ろすつもりはないらしい。壁に寄りかかるでもなく、威圧感を出しているわけでもなく、ただ静かに外の様子をうかがっている。男もそれ以上、中へ入るようには促さなかった。座れとも言わない。 嫌っているというよりは、お互いに見えない境界線を引いているように見える。必要だから家の中には通すけれど、それ以上は踏み込ませない。双方がその距離感を当然のものとして受け入れていた。
「座れるなら、そこに」 やがて、男が短く言った。
示された先には、壁際に低い台のようなものがある。椅子ではなく、木の板を組んだだけの簡素な作りで、表面は削れてささくれていた。私は少し迷ってから、ゆっくりと腰を下ろす。膝を曲げた瞬間、足の裏の痛みが遅れて押し寄せてきて、思わず顔をしかめた。
「足か」
男が気づいて声をかける。何か返事をしようとしたが、うまく声が出ない。ただうなずくと、男は床の隅に置いてあった小さな桶を引き寄せた。中には布切れと、丸めた紐のようなものが入っている。どちらもやはり灰色をしていた。
「あとで巻いておくといい。歩くなら、そのままじゃ持たない」
歩くなら。 その言葉が、耳の奥に引っかかる。ここには置いてはもらえないのだ。少し休ませてもらい、水と食べ物を分けてもらえば、また外の灰色の世界へ放り出される。あの人について、どこへ行くのかも分からないまま、痛む足で歩き続けなければならない。そう思うと、座ったばかりなのに体が鉛のように重くなった。
部屋の奥から、別の人が姿を見せた。 年配の女性だった。さっき家の外からこちらを見ていた人かもしれない。顔も髪も手も、着ている衣服もすべてが灰色で、最初は壁の影と重なっていて気が付かなかった。女性は私を見て、それからあの人に視線を移し、最後に男を見る。
「水を」
男が言うと、女性は小さくうなずいた。
女性は部屋の奥にある大きな壺へ近づき、木の柄杓で中身をすくう。器に水が注がれる音がした。水だとわかり、無意識に唾を飲み込む。
けれど、差し出された器を見て、私は手を止めた。 中身が灰色だった。
水面は揺れているし、器の縁に当たったときの音も間違いなく水のものだ。泥や灰が混じって濁っているわけでもない。水そのものが灰色をしている。
これ、飲んで大丈夫なのだろうか。 そう考えた瞬間、器を持つ手に力が入る。病院で出された水や、家で飲んでいた水を思い出す。透明なコップの中で、光を通していた無色の水。それに比べて、目の前の灰色の液体は、口に入れることを本能的に拒絶したくなるような異質さがあった。
女性は何も言わない。男も、あの人も私を見ている。視線が集まっているのを感じ、飲まないまま返すわけにはいかないと悟る。 なにより、喉がカラカラに乾いていた。
私はゆっくりと器を顔に近づける。匂いを嗅いでみたが、かすかに土の匂いがするくらいで、腐っているような不快な匂いはない。おそるおそる、水面に唇をつけた。冷たくはない。少しぬるい。けれど、唇を濡らした感触は間違いなく水だった。
思い切って、少しだけ口に含む。 味はほとんどしなかった。
灰色だからといって、灰の味がするわけではない。泥のようでもない。ただの、味のない水だ。喉を通ると、乾いた喉が潤っていくのがはっきりと分かった。
飲める。




