第1話 村まで灰色だった
近づきすぎたくはなかった。けれど、離れすぎるのも嫌だった。
あの人の近くで起きたことを思い出すたび、足取りが重くなる。灰色の何かが彼の肩に触れたと思ったら、そこから先が崩れるように消えていった。手を上げたわけでもない。何かを振ったわけでもない。ただ、あの人はそこにいただけだ。
助けてくれたのだと思う。たぶん、そうだ。
けれど、すぐにはうなずけない。私に向かってきたものが消えたのは確かだ。でも、あの人が何をしたのかは分からない。分からないものの背中を追って歩いている。そう思うと、右手のガラスペンを握る指に自然と力が入る。
不安になって手元へ視線を落とすと、透明なペン先の奥には、もう薄い色しか残っていない。最初に見たときのようなにじむ感じは弱く、少し振ってみても灰色の中に散ってすぐ見えなくなってしまう。使えば減るのかもしれない。そう思って、むやみに振るのをやめた。
前を歩く人影は振り返らない。歩幅は大きすぎないのに、気を抜くとすぐ距離が開く。足元では灰色の草を踏むたびに乾いた音が響く。草というより、色の抜けた細い繊維を踏んでいるみたいだ。土がむき出しのところもあり、小さな石が足の裏に容赦なく当たる。裸足で歩く道ではない。
痛い。
そう思って、私はようやく自分が靴を履いていないことをはっきりと自覚する。さっきまでも足の裏は痛んでいたはずなのに、逃げることと、後ろから何かが来るかもしれない恐怖ばかりで、そこまで頭が回っていなかった。
足を上げるたび、皮膚の薄いところがひりひりする。小石を踏んだ場所はじんじんして、土のざらつきが傷に入り込むみたいで嫌だった。歩き方を変えてみても、痛む場所が少しずれるだけで、すぐに別のところが痛みだす。
前の人に声をかけるか迷う。待ってください、と言えば止まるだろうか。止まってくれたとして、私は何を言うつもりなのか。足が痛いから休みたい。ここがどこなのか教えてほしい。あなたは何者なのか。聞きたいことはいくつもあるのに、いざ声に出そうとすると何も出てこない。
空はずっと同じ明るさのままだ。朝なのか昼なのかも分からない。雲があるのかどうかもはっきりしない。空全体に薄い布を一枚かぶせたようで、見上げていると距離感がおかしくなる。
しばらく歩くうちに、前を行く人影が少しだけ向きを変えた。私は反射的に足を止めかけるが、すぐに踏みとどまる。大丈夫だと言われたばかりだけれど、足元の灰色の草が揺れたときの嫌な記憶がまだ残っている。立ち止まったら、また下から何かが出てくるかもしれない。そう思うと、痛くても歩くしかなかった。
ふと、視界の先に何かの輪郭が見えてくる。最初は地面が盛り上がっているのかと思った。灰色の中に別の灰色が重なっているだけに見えて、形がはっきりしない。けれど、歩くにつれて少しずつ何かの輪郭だとわかってくる。低い屋根。傾いた壁。細い柱のようなもの。
建物だ。そう気づいた途端、痛みを忘れて足が前へ出ている。
人がいる場所かもしれない。それだけで、少しだけ希望が戻る。元の場所に戻れたわけではないけれど、建物があるなら誰かが暮らしているかもしれない。水があるかもしれない。食べ物があるかもしれない。
私は前を歩く人影を見る。その人は何も言わず、同じ速さで進んでいく。行き先を知っている歩き方だった。迷いがない。灰色の地面も、空も、さっきのあれも、この人にとっては初めてではないのだと思うと、少しだけ息がつける気がした。
近づくほど、その様子がわかってくる。家のようなものがいくつも並び、その隙間を縫うように細い道が通っている。遠くからは灰色の塊にしか見えなかったのに、屋根が崩れていたり、壁に細い板が打ちつけられていたり、軒先に布のようなものを干しているのが分かる。
村、なのだと思う。けれど、そう思ったのに、どこか引っかかる。
屋根の色。土の色。木の色。干された布の色。煙の色。人が暮らしている場所なら、生活感のようなものがありそうだった。
なのに、目の前の光景はほとんど全部が灰色だ。屋根も、壁も、道も、軒先の布も、遠くにのぼる煙も。同じ灰色の中で明るさが少し違うだけで、どれも灰色をしている。汚れているからではない。煤をかぶっているからでもない。不自然なくらい、すべてが灰色だった。
私はこの不自然な村を目の当たりにして、進むのを少しためらう。前を歩いていた人影は、わずかにこちらを向いたが、そのまま歩き続ける。ついてこいと言われた気がして、無理に一歩足を踏み出した。
村の入口らしい場所には門はなく、道の両側に背の低い杭が何本か立っているだけだ。杭には細い紐が渡され、布切れのようなものが結ばれている。風が吹くと布が揺れる。それもやっぱり灰色だ。白に近い灰色と、黒に近い灰色。そのくらいの違いしかない。
村へ入ると、漂ってくる空気が変わった。乾いた草の匂いに、湿った木の匂いとかすかな煙の匂いが混じる。人が住んでいる気配がする。どこかで何かを煮ているような匂いも漂い、そこで初めて自分がひどく空腹だったことに気づいた。
そう思った途端、喉の渇きまで戻ってくる。最後に水を飲んだのがいつなのかも曖昧だった。病室の水差しとベッド脇の小さな机が一瞬浮かんだけれど、すぐ目の前の灰色に塗りつぶされる。
家の影から、誰かがこちらを見ていた。思わず足が止まる。
人だった。背の低い、年配の女の人に見える。腰を少し曲げて、片手で戸口の柱をつかんでいる。服は粗末で、袖口が擦り切れていた。けれど、服はほとんど目に入らない。
顔が灰色だった。薄暗いからではない。影のせいでもない。頬も、額も、手の甲も、すべてが灰色をしている。血の気がないという程度ではない。生きている人の肌にあるはずの赤みがなく、石みたいな色で、ただ目だけがこちらを向いている。
その目も黒ではない。濃い灰色だった。
女の人は私ではなく、前を歩くあの人を見ている。見つけてすぐ声をかけるわけでも、近づいてくるわけでもない。柱をつかむ手に、少し力が入ったように見えた。
別の家の戸口からも、人が顔を出した。子どもが一人、壁の陰から半分だけ身体を出している。その子も灰色だった。髪も、頬も、手も、着ている服も。目は大きいのに、色がないせいで表情が読みにくい。
人まで。声には出さなかった。
村の中では、あちこちから音がしている。どこかで桶が当たる音がして、木の戸がきしみ、遠くで誰かが咳をする。風にあおられた布がこすれる音も聞こえる。生きて、動いている。それなのに、見えるものは全部灰色だった。
私は自分の手を見た。右手にはガラスペンがある。その手の甲は、普通の肌色に見えた。さっきまで何も考えずに見ていた自分の手が、この村の中ではひどく浮いて見える。
その手が急に目立つ気がして、私は手を胸のあたりに引く。
見られている。村の人たちは声を出さない。ただ、こちらを見ている。とくに、前を歩くあの人を見ている。それから私を見る。強い視線ではない。けれど、近づいていい相手かどうか測っているような、不気味なものを見るような目だった。
前の人が、ようやく足を止めた。私も数歩後ろで止まる。
その背中の向こう、道の先から男が一人出てきた。髪も肌も服も灰色だから、若いのか年を取っているのか判断しづらい。頬がこけ、手には木の杖のようなものを持っている。
男は私たちの前で足を止める。しばらく、誰も何も言わない。軒先の布が揺れる。煙が細く伸びて、途中で空へ消える。
やがて、男が口を開いた。
「……外で何かあったのか」
低く乾いた声だった。誰に向けた言葉か一瞬分からなかったが、視線は前の人に向いている。
前の人は少し間を置いて答える。
「村の外れの先で見た。ここから近い」
男は顔をしかめた。
「数は分かるか」
「いや。何度か遭ったが、はっきりしない」
男の目のまわりがわずかに動く。嫌な知らせを聞いたのだと分かった。そこで初めて、男の視線が私へ移った。
何か聞かれると思った。誰だとか、どこから来たとか。そう聞かれても答えようがない。私の方が聞きたい。ここがどこなのか。どうしてみんな灰色なのか。
男はすぐには口を開かない。その短い沈黙のあいだに、周りからの視線が増えていく。戸口。窓の隙間。のれんみたいな布の向こう。灰色の顔がいくつもこちらを見ている。歓迎されているわけではない。異質なものを警戒し、遠巻きに見定めているような目だった。
「その子は」男が言う。
前の人は振り返らないまま答える。
「森で見つけた」
私は思わず顔を上げる。見つけた、という言い方に引っかかる。物じゃない。私は人だ。そう言い返したかったのに、声が出ない。
男は私を見たまま、すぐには何も言わない。視線が、顔から手元へ移る。右手のガラスペンで止まり、もう一度、私の顔へ戻った。
さっきまでとは、明らかに目つきが違った。ただ知らないものを見る目ではない。自分たちとは違う、得体の知れないものに対する恐怖と警戒が混じっていた。
私はとっさにガラスペンを後ろへ隠そうとする。けれど遅かった。男の目が細くなり、周りにいた人たちのあいだからもヒソヒソとしたざわめきが起きる。
前の人が遮るように、私と村人の間に立った。それを見て、男は視線を戻し、何か言いかけたが、口を閉じる。
「水を分けてほしい」
前の人が言った。
男は私を見て、それから前の人を見た。
「……ああ」
「食べるものも欲しい」
「多くはない。少しなら渡せる」
「それでいい」
そこでようやく、私はこの人が水と食べ物を頼んでくれているのだとわかる。男は道の奥を見やった。「こっちだ。休む場所ならある」
歓迎の色は欠片もない。早く立ち去ってほしいという空気が肌を刺すように伝わってくる。
前の人はうなずきもしないまま歩き出す。私は一拍遅れて、そのあとを追った。
村の中を進むと、建物、人、道具が次々に目に入る。それらは全て灰色だ。家の壁にかかった紐。干された小さな布。木の桶。割れた皿を直した跡。軒下に積まれた薪。どれも人が使っているものだ。暮らしの気配がある。だからこそ、色がないことが気味悪い。
最初から灰色の世界なら、まだ納得できるのかもしれない。布を干すための長い竿が、家と家のあいだに何本も渡されている。家の横には浅い水路があり、場所によっては今も少しだけ水が流れていた。灰色の水が細く流れている。石には古い染みのような跡が残っている。何の色だったのかは分からないけれども、ここにも色があったのではないかと思ってしまう。
ここは、前から灰色だったわけじゃないのかも。
わたしはあらためて村全体を見渡す。村は灰色だった。家も、道も、布も、煙も。でも、それだけじゃない。
人まで、灰色だった。




