第5話 ついていくしかない
あの人が歩き出した。 急ぐ様子もなく、かといってこちらを待つわけでもなく、ただ前へ進んでいく。
私は慌てて顔を上げた。このまま置いていくつもりなのだろうか。それとも、ただ私の存在を気にしていないだけなのか。どちらにせよ、何も教えてはくれない。振り返ることも、声をかけることもなく、背中が少しずつ遠ざかっていく。
立ち上がろうとしたが、足先が痺れたように感覚が薄く、まるで自分の足ではないみたいだった。力が入らず、一度地面に手をつき直してしまう。
「行くの……?」
そこまで言いかけて、私は慌てて口を閉じた。
少し離れた場所で、カサリと乾いた音がした。灰色の草が不自然に揺れている。
ここに一人で残されるなんて、絶対に嫌だ。けれど、正体のわからないあの人の後を追うのも同じくらい怖かった。 それでも、立ち止まっている余裕なんてない。ここに留まれば、またあの灰色のあれが出てくるかもしれない。正体のわからない存在についていく恐怖よりも、あれに呑まれて自分が崩れてしまう恐怖の方が、ずっと勝っていた。
私は必死に足に力を込め、立ち上がる。
前を行く背中は、一度もこちらを振り返らない。 私は、その背中をじっと見つめながら歩き出す。
風が吹き、足元で草が擦れる。後ろから何かが追ってきているような気がして、何度も振り返りそうになる。けれど、そのたびに踏みとどまった。振り返ったところで、そこにはただ灰色の景色が広がっているだけだ。さっきまで自分が倒れていた場所すら、もうどこなのかわからない。 灰色の地面はどこまでも平坦に続き、見上げても、空は同じ色に塗りつぶされている。進むうちに、方向感覚がなくなっていく。
もし、この人の背中を見失ってしまったら、私はどこへ向かえばいいのかわからなくなる。その考えが頭をよぎった瞬間、私は足を速めた。とにかくこの背中を見失わないよう、必死で足を動かす。
そのとき、すぐ背後で、再び草の揺れる嫌な音がした。
ざわ、と空気が擦れるような不快な気配。
私は足がすくみ、思わず立ちすくんでしまう。また来る。そう思って息を呑んだ瞬間だった。
前を歩いていたあの人が、振り返りもせずに、短く言った。
「大丈夫だ」
それだけだった。
後ろで何が起きているのか見もしないのに、ただ言い切って、そのまま同じ速さで歩き続ける。
私は思わず眉を寄せる。
言い返したい気持ちはあった。何も説明してくれないくせに。ここがどこなのかも、さっきのものが何なのかも、ひとつも分からないままだ。
気配に気づいているのに、どうしてそんなに平然としていられるのか。
それでも、私は口を閉じる。
あの人はもう歩き出している。信じたわけじゃない。けれど、この世界で生き残るには、あの背中についていくしかなかった。
私は無言のまま、足を前に出す。
風の音が通り抜けていく。この人がどこへ向かっているのか、この先に何があるのか、私には何ひとつわからない。 ただ、目の前の背中を見失わないように。それだけを考えて、私は必死に歩き続けた。




