第4話 削れるもの
そのとき、足元の灰色の草がわずかに揺れた。
考えるより先に身体が強張る。
姿は見えないけれど、何かがそこにいる気配だけははっきりとあった。
ざらざらとした不快な空気が足元近くを掠める。
たまらず飛び退いて右手を振り上げたが、振り下ろす前に止めた。
振っても、どうにかなる気がしない。
そう思っている間にも、別の場所が不気味に揺れた。
一つではない。
助けてほしいなんて思ってもいなかったはずなのに、私の目は勝手にあの人の姿を追っていた。
あの人は、少しだけこちらに顔を向けた。
それだけだった。
次の瞬間にはその姿が目の前から消え、
灰色の草が激しく揺れた先へと音もなく踏み込んでいる。
地面から這い出るようにして、灰色の塊が跳ね上がる。
獣に似てはいるものの、それより大きく、異質なもの。
あの人は避けることすらせず、そのまま、それに触れた。
その瞬間、灰色の身体の表面が崩れた。
欠けたわけでも、ちぎれたわけでもない。
ただ、その部分だけが最初から存在していなかったかのように消えていく。
声が出なかった。
また別の場所で灰色の塊が跳ねたが、あの人は振り向かない。
灰色の腕みたいなものが彼の腕をかすめた瞬間、また同じようにそこが崩れ、
形を保てなくなった塊は泥のように沈んで崩れていった。
ただ見ているだけなのに、左腕の傷がひりひりと痛む。
もしあれに深く触れられたらどうなるのか。考えたくもないのに頭に浮かぶ。
自分の身体も、同じように崩れて消えるのだろうか。
そう思った瞬間、膝からすっと力が抜けた。
地面に両手をついたところまでは覚えているけれど、そこから先の記憶は途切れている。
冷たい風が頬をかすめる。
まぶたを開けるより前に伝わってきたのは、地面の硬い感触だった。背中の下に小さな石が当たって痛い。腕を少し動かすと、砂の擦れる音がした。
息を吸ってみる。少し浅いけれど、ちゃんと吸える。
そこで、途切れていた記憶が戻ってきた。
灰色の空。
地面から飛び出してきた何か。
それは、あの人に触れたところから崩れていった。
まぶたを開くと、そこにはやはり灰色の空が広がっていた。
空も、遠くの景色も、地面さえもが同じ色に沈んでいる。
少し先に、人影があった。あの人だ。
ただ立っているだけで、近くにいるのに、なぜか妙に遠くに見える。
そして、さっき見た光景が生々しく蘇ってくる。
触れたところから、崩れていった。
最初からなかったみたいに崩れていくように見えた。
胸の奥が落ち着かない。あの人が、それをまるで何でもないことみたいにやった姿が思い出されて怖くなる。
腕をついてゆっくりと上半身を起こし、恐る恐る左腕に触れてみる。 ひりひりする。ごく浅い傷だったが、指先でなぞると刃物で切られたような痛みが走る。
もしあれがもう少し深く触れていたらどうなっていたかと思って、背筋が冷たくなる。
私は慌てて腕を引っ込めた。
もう一度同じ場所を押さえてみるが、熱も痛みもちゃんとそこにあって、自分がここに存在していることを自覚させる。
ふと、右手を見る。 ガラスペンの透明な軸の中には、かすかな色が残っている。けれど、よく見ると明らかに弱々しく、最初に見たときのような、内側からにじむような感じがない。少し傾けてみても、ガラスが光を反射するだけで、その色はほとんど動かない。
私は息を止めた。 減っている。 さっき何度も振るたびに、薄い色が広がっては消えていった。そのたびに、何かが少しずつ減っていったのだ。 もしこの色が完全に無くなってしまったら、どうなるのだろうか。さっきの灰色の塊みたいに、私もこの世界に呑まれて崩れてしまうのではないか。
そう気づいた途端、手のひらにじわっと汗がにじむ。私はペン先を見つめたまま、右手を胸の近くまで引き寄せ、硬い軸を強く握りしめた。これだけが、私が私でいるための命綱のように思えた。
顔を上げると、あの人はまだ同じ場所にいた。近寄ってもこないし、声もかけてこない。ただそこに立っているだけで、風が通り抜けても、周りの灰色の草が揺れても、その人の姿だけはぶれない。
私はしばらく、その背中を見ていた。 何をしたのかも、そもそも本当に人なのかどうかもわからない。
喉がひどく乾いてくる。
「……あの」
声を出す。自分でも驚くくらい小さな声だった。
あの人は動かない。
私はもう一度、口を開く。
「さっきの……」
そこから先が、どうしても出ない。口にしてしまった瞬間に、さっき見た異常な光景が全部本当になってしまいそうで怖かった。
風がまた通り過ぎていく。返事はない。
私は肩をこわばらせたまま、その人を見つめた。
聞かなければいけないと思う。けれど、視線をそらした先にある灰色の景色も気になった。またどこかから、あれが出てくるかもしれない。 何もない場所だけれど、もう自分一人でここに残ることなんてできなかった。




