第3話 通じないもの
風の音で目が覚めた。
空気が生ぬるい。
目を開けると、また灰色の空が広がっていた。
ゆっくり身体を起こしてみる。さっきのような息苦しさはない。腕も脚も動く。ただ、左の二の腕のあたりに違和感があった。
服の上からそっと触れると、かすかに布が張り付いていて、じわりとした熱と鋭い痛みが指先に伝わってくる。
夢ならいいのに、と思った。病室のベッドから落ちて、気を失っているだけなのだと。けれど、頬を撫でる生ぬるい風も、この腕の痛みも、嫌になるほど生々しい現実としてそこにあった。
ふと右手を見ると、ガラスペンを握ったままだった。気を失うときも、無意識に手放さなかったらしい。
透明な軸の奥で、何色とは言えない、ぼんやりとした薄い色が揺れている。周りがすべて灰色だからこそ、その色だけが異様にはっきりと浮いて見えた。
その色を見た瞬間、途切れていた記憶が急に頭の中へ流れ込んでくる。
人ではないものに追われたこと。避けきれずに腕を裂かれたこと。そして、最後に見えた人影のこと。
私は弾かれたように顔を上げた。
少し先の灰色の草の中に、その人はまだぽつんと立っていた。
私やガラスペンと同じように、その人には色がある。完全に色を失った灰色の景色の中で、その姿は周囲から切り離されたように際立っていた。
立ったまま、こちらを見ているのかどうかも分からない。距離はそれほど離れていない。けれど、何者かも分からない相手に、自分から不用意に近づく気にはなれなかった。
それでも、ここがどこなのか、あれが何だったのかを知りたかった。
「……ここは、どこですか」
声を出してみたが、返事はない。
風が吹いて、足元の乾いた草がカサカサと音を立てる。その人は動かない。
私はもう一度、口を開いた。
「あなたは……」
聞きたいことはいくつもあるのに、言葉が続かない。
黙ったままその人を見つめていると、わずかに肩が動いたのが見えた。
聞こえてはいる。
けれど、何も返してくれない。
無視されているというよりは、そもそも私の言葉が通じているのかどうかも分からない。
そう思って一歩だけ近づくと、
その人がわずかに顔をこちらへ向けた。
表情は読めない。怒っているのか、警戒しているのか、ただ様子を見ているのか。
「あの……」
何を言えば通じるのか探ろうとした、そのときだった。
遠くの方で、別の音がした。
私はそちらへ視線を向ける。
灰色の草の向こうを、何かがかき分けて進んでくる音だった。 風の音ではない。生き物が動いている。その気配が、少しずつこちらへ近づいてくる。
その人に知らせようとして口を開きかける。けれど、声を出さなくても、その人はすでに音に気づいていた。 私から視線を外し、音がする方へと静かに身体を向ける。
灰色の草の向こうで、大きな影がまた動いた。
私は後ずさりしながら、右手のガラスペンを強く握り直す。
今はこれしか、すがるものがなかった。




