第2話 消える色
頬に触れる冷ややかな感触で、目が覚めた。
うっすらと瞼を開けると、すぐ目の前に細い草の葉が揺れている。
病室の固い床ではない。鼻を突いたのは、生々しく湿った土の匂いだった。耳を澄ませても、耳鳴りのような人工呼吸器の音も、規則正しい点滴の音も聞こえない。
両手を地面につき、上体を起こす。
見渡す限りの視界に、見たこともないほど太い樹木が立ち並んでいた。木立はどこまでも深く続いていて、その奥を覗き見ることはできない。頭上を覆う枝葉の隙間からは、わずかに空が覗いていた。
だが、何かが狂っている。
木も、草も、足元の土も、見上げる空すらも――すべてが不気味なほどの灰色に染まっていた。
光の明暗や濃淡はある。幹と地面の境目も識別できる。けれど、どこをどう見回しても「色」というものが存在しなかった。夕焼けの空を愛し、そのグラデーションを追い続けてきた私にとって、それは異様な光景だった。
「かんご……しさん……?」
擦れた声で呼びかけてみるが、返事はない。
ただ、冷たい風に草が擦れ合う微かな音だけが聞こえる。
ふと気づき、私は右手を胸に当てた。
……息が、苦しくない。
ついさっきまで、椅子からベッドへ移動するだけで肺が押し潰されるようだったのに、今はこうして自分の力で上体を保っていられる。左手で地面を押し込むと、押し返すような確かな力が腕に伝わってきた。
足を折り曲げる。膝が、当たり前のように動いた。
身体が治った歓喜よりも先に、自分の肉体ではないものを動かしているような、得体の知れない不安が胸を掠める。
着ている服も変わっていた。
着古した病衣ではなく、薄く粗い白布で縫われた袖のないワンピース。細い肩紐、裾からは素肌の膝が覗いている。靴はなく、足先は裸足のままだ。
肩から零れ落ちていた髪をつまみ上げる。
見慣れない、青緑色の髪だ。手や足の皮膚にも、生々しい肉色が残っている。世界が灰色に染まる中で、私という存在だけが色を失っていなかった。
「夢……なのかな」
つぶやいてみたものの、すぐにその考えを打ち消した。
頬にこびりついた土の生温かさも、裸足の裏に食い込む小石の痛みも、ワンピースの裾を揺らす風の冷たさも、あまりにリアルすぎる。死にかけた病床で見せる幻覚にしては、伝わってくる感覚が細かすぎる。
立ち上がろうと身を起こしたとき、右手に重みを感じた。
ぎゅっと握りしめていたのは、あのガラスペンだった。
病室の台の上で見つけ、未完成のキャンバスへ一筋の線を引いた、あの透明なペン。どういうわけか、この場所へも一緒に連れてきてしまったらしい。
透明な軸の奥を覗き込むと、そこには微かな「色」が残っていた。
赤とも青とも判別のつかない、水の中で様々な絵の具が溶け合い揺らめくような色。見る角度を変えるたび、ゆらゆらと形を変えて輝く。
周囲のすべてが色を失っているからこそ、軸の中の僅かな輝きが鮮明に見えた。
ペンをしっかりと握り直し、ゆっくりと立ち上がる。
足下の草を踏みしめると、まるで乾いた繊維の束を踏んだかのように、ボサボサとした無機質な感触が返ってきた。葉に植物らしいしなやかさや瑞々しさは一切ない。
しゃがみ込んで指先でつまんでみると、枯れ枝のようにあっけなく折れた。
病室でこのペンを振ったとき、絵の具もインクもないのに線が描けた。
……もしかしたら、ここでも同じことが起きるのだろうか。
私は吸い寄せられるようにガラスペンを掲げ、誰もいない空へ向けて、短い線をすっと引いた。
ペン先から、薄い色が流れ出す。
「え……?」
色は空中に留まることなく、足元へ落ちた。
灰色の草地へ落ちた瞬間、波紋のように鮮やかな色彩が広がる。一本一本の草の輪郭が浮き立ち、土の粒や影の濃淡までが色鮮やかに蘇った。
だが、その奇跡はほんの数秒しか持たなかった。
広がった色は端から不自然に褪せていき、瞬く間に元の乾燥した灰色へと飲み込まれていく。
慌ててしゃがみ込み、色を取り戻したはずの草に触れる。しかし指先に残るのは、先ほどと変わらない乾いた感触だけだった。
もう一度、今度はペン先を小さく振ってみる。
やはり色が放たれ、足元を一瞬だけ彩っては、すぐに消えていった。
ふと軸の中に目をやると、薄い色の量が明らかに減っていた。
「……使ったら、なくなっちゃうの?」
ペンの中にあるものがインクと同じなら、使い切ってしまえばそれまでだ。
ここがどこなのかも、このペンの正体もわからない以上、むやみに残りを減らすのは危険だと思った。
ペンを抱え込むようにして立ち上がる。
まずは誰かを探さなければ。
木立の隙間を見渡すが、道らしきものは見当たらない。木の密度が少しでも低い方角へ足を向けようとした、そのときだった。
左前方で、不自然に草が揺れた。
風のせいではない。周りの草は微動だにしていないのに、そこだけが左右に激しく押し倒されている。
「誰か……いるの?」
返事はない。
ただ、樹木の影から、ぬうっと「それ」が姿を現した。
最初は、大きな獣かと思った。
けれど、それは二本の足で立っていた。背丈は大人よりはるかに高く、体を前かがみに折り曲げている。膝の下まで伸びた異様に長い腕の先には、太く鋭い爪のようなものが生えていた。
頭部のようなものはある。だが、そこには目も口もなく、のっぺりとした灰色の皮膚――あるいは体毛のようなものが覆っているだけだった。
人間ではない。
それはその場に立ち止まると、ゆっくりとこちらへ頭を向けた。
私を見ているのではない。私の右手に握られた、ガラスペンを見つめているような気がした。
ずしり、と一歩近づいてくる。
地面を踏みしめているはずなのに、足音は一切響かない。ただ、踏みつけられた草だけが不自然に潰れ、それの跡を残していた。
「来ないで……!」
声を上げると、それは身体をぐっと低く沈めた。
次の瞬間、距離を詰めてくる。
背を向け、なりふり構わず走り出した。
裸足の裏に小石や折れた枝が突き刺さり、鋭い痛みが走る。けれど痛みを気にしている余裕なんてなかった。覆いかぶさる枝を腕で払い除け、木々の間をがむしゃらに縫って逃げる。
背後に、嫌な気配が迫る。
振り返った瞬間、視界のほとんどが灰色の巨体で埋まっていた。
鋭い爪を備えた長い腕が、横から振るわれる。
咄嗟に身をかがめたが、完全には避けきれなかった。引き裂くような音がして、左の二の腕に激痛が走り、赤い線が浮かび上がった。
「痛っ……!」
もつれた足が木の根に引っかかり、私は無ざまに地面へ倒れた。
左腕から、血が溢れてくる。
夢なんかじゃない。
私は本当に、あの病室からこの訳のわからない世界へ投げ出されたのだ。
頭上から、怪物が太い腕を振り上げるのが見えた。
起き上がる隙も、逃げる時間もない。
絶望の中で、私は右手に持っていたガラスペンを振った。
描かれた薄い色が、それの胸元にあたった。
灰色の体の表面にパッと色が広がる。けれど、足元の草に使った時よりも遥かに狭く、薄い。
「嫌……!」
言葉を言い切る前に色は掻き消えた。
それの体には何の変化もない。
当たり前だ。絵具のようなもので倒せると思う方がおかしい。
軸の中に残された色の輝きは、ほんのわずか。次の一振りをすれば、間違いなく使い果たしてしまう。
それの腕が、振り下ろされる。
私は目を背け、右腕で頭をかばった。
――その時、視界の端を何かが掠めた。
灰色で塗りつぶされた世界の中で、圧倒的な存在感を放つ人影。
赤茶色の短い髪に、深く重厚な黒い服。
私と同じように「色」を纏った若い男が、怪物と私の間へ割って入っていた。
男は剣も槍も構えていない。降り下ろされた腕を避ける素振りすら見せなかった。
「危ない……!」
叫びは届かない。男は静かに怪物へ歩み寄る。
ただそれだけで、怪物の振り下ろされた長い腕の先が崩れ落ちた。
切断されたのではない。音もなく、灰色の腕が剥ぎ取られるように消滅していくのだ。
それは苦悶の素振りを見せ、初めて後ずさった。
その体の表面から、灰色のかけらが剥がれ落ち、男の肩や腕の周囲へ吸い寄せられるように集まっていく。男が何をしたのか、私の目には何も見えなかった。
この人は、私を助けに来てくれたのだろうか。
それとも、あれ以上に異質で危険な存在なのだろうか。
男が静かに振り返り、こちらを見下ろした。
灰色ではない、深みのある瞳が、地に伏せる私に目を向ける。
何か声をかけようとした。けれど、唇が強張って言葉にならない。
左腕の痛みが強くなり、地面を支えていた腕から一気に力が抜けていく。身体を起こそうとしても、鉛のように重い。
男の背後で、それの身体が崩壊し続けている。
私は消えかかる意識の中で、ガラスペンを強く握り直した。
手に残る冷たい感触を確かめたのを最後に、視界は漆黒に染まっていった。




