第2話 消える色
顔を上げたまま、しばらく動けない。
まず、地面についた自分の手を見る。右手には、さっき握ったはずのガラスペンがあった。
ついさっきまで、病室のベッドの上にいた。ナースコールに手を伸ばそうとして倒れたはずなのに、今は自分の腕で身体を支えている。
夢だ。病室で倒れて、意識を失っているあいだの夢に違いない。そう自分に言い聞かせながら、胸元へ視線を落とす。病院で着ていた服ではない。薄手の白い服で、簡素なワンピースに近い。誰が着替えさせたのかも、どうしてこんなところにいるのかも分からない。
顔を上げる。
空はある。
けれど、青でも白でもなかった。
どこまで見渡しても、同じ明るさの灰色が続いている。
「……なに、これ」
声に出しても、何も変わらない。
何度瞬きをしても、景色は同じままだった。
私は草の上にしゃがみ込んでいる。けれど、その草まで不自然な灰色をしていて、地面との境目が分かりにくい。 夢の中だから、色が抜け落ちているんだ。 そう思って、確かめるように手を伸ばす。指先に何かが触れた。草だと思ったものは、乾いた細い繊維を撫でているような、カサカサとした不自然な手触りがした。
そこでようやく、右手のガラスペンだけが灰色ではないことに気づく。
「あれ……?」
灰色なのは、周りの景色だけだ。
右手のガラスペンも、それを持つ私の手も、普通の肌色をしている。周りはすべて灰色なのに、自分とペンだけが浮いて見えた。
「なんで……」
思わず、ペンを軽く振ってみる。
その瞬間、足元の地面が一瞬だけ色づいた。
ただの灰色の繊維だと思っていた草の輪郭が、ふっと鮮やかに浮かび上がる。けれど、次の瞬間にはもう元の灰色に戻っていた。
もう一度振る。
また一瞬だけ色が散って、すぐに消えた。
何度か振るうちに、色づく範囲が少しずつ狭くなっていく。
「どういうこと……?」
さっきみたいに色が広がらない。
インクみたいに、中身が減っているのかもしれない。そう気づいて、むやみにペンを振るのをやめた。
顔を上げると、遠くの灰色の中で何かが動いているのが見えた。景色に溶け込むような色をしているが、それがこちらに向かってきているのだけは分かる。
足音は聞こえない。
逃げなきゃ。 そう思って立ち上がろうとしたけれど、膝にうまく力が入らない。立てないまま、地面に手をついて少しでも距離を取ろうと後ずさる。
近づいてきたそれは、人よりずっと大きかった。
見たこともない不気味な形をしている。逃げなければいけないのに、足がすくんで一歩も動けない。
次の瞬間、その影が一気に間合いを詰めてきた。
「――っ!」
避けきれない。何かが右腕をかすめ、皮膚を裂くような鋭い痛みが走った。 痛い。夢じゃない。 その現実が頭を殴りつける。
反射的に顔をかばう。振り上げた右手の先で、ガラスペンが弧を描いた。
その軌道に沿って、空中に一瞬だけ薄い色が走る。
ペン先がそれをかすめると、灰色の身体にほんの一瞬だけ色が乗った。けれど、すぐに薄れて消えてしまう。
それは止まらない。距離がさらに縮まる。
もう駄目だ。
そう思って目を閉じかけた、そのときだった。
すぐ横で、不意に別の影が動く。次の瞬間、私にのしかかろうとしていた灰色の身体が、怯んだように見えた。
はっとしてそちらを見る。
人が立っていた。
剣を振ったわけでも、突き飛ばしたわけでもない。ただ、その人が近づいただけで、灰色の身体の一部がふっと崩れるように消えていったのだ。得体の知れない現象だったけれど、私に向かってきたものが退いたのだけは分かる。
人だ。 助けを呼ぼうとして口を開く。けれど、声にならない。
その人には、色があった。
灰色の景色の中で、私とガラスペンだけが浮いて見えていたはずなのに、そこにもう一つ、灰色ではない存在が立っている。
その人と目が合った。
表情はよく分からない。
何が起きているのか。ここがどこなのかも、この人が誰なのかも分からない。ただ、その姿だけが、無機質な病室で見ていた誰とも決定的に違っていた。
急に身体から力が抜けていく。
視界が大きく傾き、地面が近づいてくる。最後に見えたのは、崩れていく灰色の向こうで、立ったままこちらを見下ろしている、その人の姿だった。




