第1話 灰色の世界
最後のところで、指の動きが止まる。
描き出しは悪くない。輪郭も配置も崩れていない。けれど、仕上げに入ろうとすると、急にどこかが噛み合わなくなる。さっきまでつながって見えていた線が、少し目を凝らしただけで不自然に浮いて見えた。
大きく失敗しているわけじゃない。色も濁っていない。それでも、私の見たかった夕焼けにはならない。
ほんの少しだけ何かが足りない。
それだけで、キャンバスへ向かう手が動かなくなる。
手を入れるほど、最初は気にならなかった違和感ばかりが大きくなっていく。何が違うのかはうまく言えないのに、これではないという感覚だけが残る。
足りないのは、たぶん言葉以外の何かだ。 私は筆を下ろし、描きかけのキャンバスを見つめる。
目指していたのは、文字文香という人の絵だった。 景色をそのまま描いているだけなのに、見ているうちにそこにないはずのものまで浮かんでくる。言葉で説明されなくても、見た人の中に何かが確実に残る。私はあの人の描く絵が好きだった。
文香は画家であり、言語学者でもあった。絵だけでは届かないものを、別の形でも残そうとしていたのだと思う。数年前に急にいなくなったと聞いた。事故なのか、自分で姿を消したのかも分からないまま、今も戻っていない。
それでも、私はあの人の絵を何度も見た。 私も、あんなふうに何かを残したかった。
不意に、部屋を満たしている機械の規則的な音が耳に入る。 ここは病室だ。消毒液の匂いが薄く漂い、白い壁、白い天井、白いシーツが視界を埋めている。無機質で、余計なものが何もない空間。ベッドの横には、無理を言って少しだけ空けてもらったスペースにキャンバスを立てている。
動ける時間は限られていた。だから、少しでも長く筆を持っていたかった。 これを描き終えたら、もう次はない気がしている。医者がはっきりそう言ったわけではない。ただ、家族が話す声のトーンや、看護師がこちらを見るときの伏せがちな目を見れば、嫌でも分かってしまう。
最後なら、ちゃんと自分の納得いく形にしたかった。
もう一度キャンバスへ向かおうとして、ふと視線が机の上で止まる。 そこに、一本のガラスペンが置かれていた。
こんなもの、前からここにあっただろうか。
透明な軸の中で、かすかに薄い色が揺れている。病室に持ち込んだ覚えはない。誰かの見舞い品だろうか。それとも、看護師の忘れ物だろうか。そうやって無理に理由を探そうとするのに、なぜかずっと前から自分のものだったような、妙な引力があった。
私は無意識に手を伸ばしていた。 キャンバスにガラスペンを使うなんて、おかしな話だ。それでも、試しになぞってみるだけだと自分に言い聞かせて、ペンを握る。
そのまま、キャンバスに線を引いた。
さっきまで止まっていたところが、するりとつながった気がした。 思わず、もう一度なぞる。途切れない。いつもよりずっと滑らかに描ける。これなら、まだ描けるかもしれない。
そう思った瞬間、ペンを握る指からすっと力が抜けた。
手からガラスペンが滑り落ちる。おかしいと思ったときには、もう視界が大きく傾いていた。足に力が入らず、身体が崩れ落ちる。
床に倒れ込んだとき、頬を打ったリノリウムの冷たさだけが、異様にはっきりとしていた。規則的だった機械の音が、まるで水の中にいるように遠のいていく。
ナースコールを押さなきゃ。 そう思って腕を伸ばそうとしたけれど、距離感がまったく合わない。指先が少し動いただけで、呼吸が浅くなり、空気が肺に入ってこない。
動けない。
薄れゆく意識の中で、視界の先に落ちたガラスペンが白く光っているのが見えた。強い光が、少しずつ広がっていく。
もう戻れないのだと、直感で分かった。 不思議と怖さはなかった。ただ、胸の奥にひとつだけ強い思いが残る。
最後まで、描きたかった。
白い光がすべてを覆い尽くし、そこで私の意識は途切れた。




