第9話 黄の加護
エリンフォードの家並みが幌の外から見えなくなるまで、カレンは馬車を止めなかった。四頭の馬は街道へ出ても速度を落とさず、車輪が乾いた道を一定の間隔で鳴らしている。セレンの家から持ち出した本や医療道具は荷台の奥へ積まれ、私とロアは向かいの長椅子に座った。セレンは御者台でカレンの隣にいる。
「で、家にいたのは昨日の槍の男だったんだね?」
前を向いたまま、カレンが聞いた。
「はい。今日は一人でした」
「昨日は『王国に仇なす者』で、今日は何て言われたの?」
「私たちがルミナ王を狙っていると聞いている、って」
「誰から聞いたのか言ってた?」
「話さなかったよ」
セレンの声が御者台から返ってくる。
「王都へ行かせたくないことだけは、かなりはっきりしてた。説得できそうな様子でもなかったしね」
「妙な話だね。昨日聞いた限りじゃ、あんたたちはルミナ王を殺しに行くつもりなんてないんだろ」
「ないよ。むしろ、誰が私たちを王国の敵にしたのか確かめに行きたい」
「その王都へ行こうとしたら、王を狙ってるって理由で止められるわけか」
カレンは手綱を軽く引き、四頭の進む方向を操作する。
エマは私の隣で紙を膝に置いていたが、絵は描いていない。大人たちの話を聞いているらしく、炭筆を指先で転がしている。
「それで、追い返したっていうのは?」
「ユイナが緑を使った」
ロアが答えた。
「昨日は通らなかった赤と違って、緑を当てた場所の黄は崩れた。ただ、少し経つと元に戻った」
「元に?」
「鎧を覆っていた黄も、槍の黄もです。一度なくなったように見えたけど、周りからまた回復していきました」
「うちの馬車の黄と、あの連中の黄は同じものなのかい?」
「見た目は近いです。でも、同じ仕組みかまでは分かりません」
私が答えると、セレンが続けた。
「だから調べたいんだ。昨日、ロアが二人から奪った黄がある。この黄がどういうふうに人や武器を守っているのか分かれば、次は緑をもっと有効に使えるかもしれない」
「また解析する気かい?」
カレンの声が少し低くなった。
昨日、緑を最後まで調べた結果、セレンの左腕は指先から肩まで石になった。今日の戦いでは動かせていたものの、石で無くなったわけではない。
「その腕で?」
「腕は動くよ」
「動くかどうかを聞いてるんじゃないよ」
エマが炭筆を止めた。
「セレン、また石になるの?」
「なるかもしれない」
セレンはごまかさなかった。
「ただ、今回は黄そのものを最後まで解析するわけじゃない。ロアが奪った黄が、どうやってあの二人の身体や武器を守っているのか。そこだけを調べるつもりだよ」
「そこだけなら大丈夫なの?」
「それは分からない」
エマは眉を寄せた。
「そこまで分かってて、どうして続けるんだい?」
「必要だから、だけじゃ納得しない?」
「しないね。あんた、昨日もその解析で腕一本石にしてるんだろ。王都へ行くために必要だっていうだけなら、私には割に合ってるようには思えない」
セレンはすぐには答えなかった。
馬車の揺れに合わせて、御者台の後ろに掛けられた布が小さく揺れている。
「私、昔は医者だったんだよ」
「医者?」
カレンがセレンを見る。
「アルディナでね病院に勤めてたんだ。たぶん、そのまま続けていれば、今頃は普通に医者をやってたと思う」
「それを辞めてまで、文香についていったのかい?」
「ああ」
「どうして?」
セレンが少し笑った。
「文香が綺麗だったからだよ」
思わず、私は御者台の方を見た。
「初めて文香を見たとき、驚いた。肌にも髪にも、私たちにはない色があった。私はそれまで、人は灰色なのが当たり前だと思ってたからね」
「それで?」
「私も、あんなふうになれないかなって思った」
「それで医者を辞めたのかい?」
「そう」
「思い切ったことするね」
「今思えばね。でも、そのときは文香についていけば何か分かると思ったんだ。どうして文香には色があるのか。私が色を持てる方法があるのか」
その話は、前にもセレンから聞いた。文香さんの色に憧れ、自分も同じようになれるかもしれないと思って、医者を辞めて文香さんについていったことも。
けれど、石化がここまで進んだ今も、その気持ちは変わらないのだろうか。
「今もそう思ってるの?」
エマが聞いた。
「思ってるよ」
セレンはあっさり答えた。
「まだ諦めてない」
「でも、解析すると石になるんでしょ?」
「ああ。でも、色を一つ解析するたびに、前よりその色のことが分かるようになる。緑もそうだった。だったら、全部の色を最後まで理解したとき、私自身にも何か起こるんじゃないかって考えてる」
「自分にも色がもらえるの?」
「そうなったらいいね」
エマの顔が少し明るくなる。
カレンは逆に呆れたような声を出した。
「ずいぶん都合のいい話じゃないか」
「私もそう思う。何も根拠はないからね。でも、何も起きないっていう根拠もない」
セレンの声は軽かった。
「それに、文香もこの石化の原因を調べてくれてる。原因が分かれば、止める方法が見つかるかもしれない。それに、うまくいけば全部の色を理解した頃には私にも色が持てて、この石化までなくなってたりしてね」
「そんなにうまくいくかねえ」
「希望くらい持っててもいいだろ?」
カレンは返事をしなかった。
私は、石になったセレンの左腕を思い出していた。
解析するたびに石化が広がる。それを何度も見てきたから、セレンは自分がどうなっても構わないのだと思っていた。
でも、違う。
セレンも戻りたいと思っている。
それだけじゃない。石化が消えて、自分にも色が現れるかもしれないと思っている。
「だからって、無茶していい理由にはならないよ」
カレンが言った。
「分かってる」
「本当に?」
「死ぬために解析してるわけじゃないからね」
「なら、それは覚えておいてね。色を持つ前に石ころになったら、何にもならないよ」
「それは困るな」
「本当に分かってるんだろうね」
そう言うカレンの声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「やるなら、少なくとも馬車を走らせながらは駄目だ。少し先に道幅が広くなってる場所がある。そこで止める」
「分かった」
「何かおかしいと思ったら、その場で言うんだよ。倒れてからじゃ遅い」
「うん」
カレンは手綱を握り直し、馬車を先へ進めた。
しばらく走った先で街道の幅が広くなり、馬車が二台ほどすれ違えそうな場所へ出た。カレンは馬車を端へ寄せ、四頭の馬を止める。
御者台から降りたセレンが荷台へ入ってきた。
エマはカレンと一緒に外へ出る。すぐ近くにいるが、解析の邪魔をしないよう、馬のそばで待つことになった。
セレンはロアの向かいに座った。
「黄は分かるんだな?」
「うん。昨日、君が奪った分は残ってる。今日は槍の男に近づいてないから、増えてはいないよ」
「俺は何をすればいい?」
「そこにいてくれればいい」
ロアが背を長椅子へ預ける。
私はセレンの隣に座った。
左腕は肩まで石のままだ。昨日までは、そこから先へ広がるのではないかとばかり考えていた。
けれど今は、その石化がいつか消えるかもしれないとセレン自身が希望を持っていることを知っている。
「始めるよ」
セレンはロアの中に残る黄へ意識を集中させた。
外では馬が地面を踏み、時々、馬具の金具が鳴っている。少し離れたところから、エマがカレンに何か話しかける声も聞こえた。
最初のうちは、セレンの身体に変化はなかった。
私は石になった左腕だけでなく、顔色や呼吸にも気をつけていた。本人が大丈夫と言っても、気づいていない変化が出るかもしれない。
しばらく経った頃、セレンの左足が床の上で動いた。
座り直しただけかと思ったが、右手が左膝へ伸びる。
「どうしました?」
「左足が少し変だ」
セレンは右手を使って左の靴を脱いだ。
足先の皮膚が、石のように硬くなり始めていた。
左足にも石化が始まっていた。
「……足にも出てます」
「ああ」
セレンは自分の足を確かめた。
ロアも身体を起こした。
「広がるのか?」
「今のところは、ここだけだと思う」
私はセレンの横顔を見た。
「さっき言ったこと、忘れないでくださいね」
「色を持つ前に石ころになるな、って?」
「そっちじゃありません」
思わず言うと、セレンが少し笑った。
「分かってるよ。無理だと思ったら止める」
「自分で気づかなかったら、私が止めます」
「それでいい」
以前なら、石化が広がった時点でやめてほしいと思っていた。
でも、今はセレンが何を思って解析を続けようとしているのか分かっている。
ロアがセレンの左足を見たまま言った。
「これ以上どこかに変化が出たら、すぐに言え」
「分かった」
セレンは再びロアの中にある黄へ集中した。
私はセレンのそばを離れなかった。
石化がこれ以上広がらないかを見るためだけではない。
セレンが本当に色を持てる日が来るのなら、私もそれを信じてみたかったから。




