第6話 青の軌跡
エマは何枚かの絵を抱えたまま、私の返事を待っている。
「じゃあ、一枚だけね」
「ほんと?」
エマの顔がぱっと明るくなった。
さっき見せてもらった絵を返し、新しい紙を一枚と炭筆を借りた。
さて、何を描こうか。
馬留めには四頭の馬がいる。そのうちの一頭が首を振り、隣の馬を鼻先で押している。押された方の馬は迷惑そうに身体を動かす。
「あの子、描いていい?」
「ブラム? いいよ。でも、じっとしてないよ」
「大丈夫。止まってる馬をそのまま写すより、動いてる方が描きやすいってこともあるから」
「そうなの?」
「うん。どんなふうに身体を動かすのか分かるからだよ」
エマは納得していないようだった。
私は近くの木箱を借りて、その上に紙を置く。
ブラムがもう一度首を振った。
頭から首、前脚を描いていく。
身体の形を最初から全部整えるのではなく、さっきの動きを思い出しながら炭筆を走らせた。横からのぞいていたエマが、いつの間にか黙ってしまった。
「……本物の馬みたい」
「まだ途中だよ」
「私が描いたのとは全然違う」
「エマの絵も、走ってる感じはちゃんと出てたよ」
「でも私のは足がおかしい」
自分でも気づいていたらしい。
「最初から脚を一本ずつきれいに描こうとしなくていいの」
私は紙の端に、簡単な線でもう一頭描いてみせた。
まず体の形をざっくり描き、そのあとから脚をつけていく。
「ほら。最初はこのくらいでいいよ。あとから少しずつ形を整えればいいから」
エマは自分の絵と見比べた。
「最初は、ちゃんとした脚じゃなくてもいいの?」
「うん。動いてる感じが分かれば大丈夫。細かいところはあとで直せるから」
「もう一回描いてみる」
エマが待ちきれないように手を伸ばしてきたので、私は炭筆を返した。
さっそく新しい紙に線を引き始める。
さっきまでとは違い、今度はいきなり脚から描くのをやめたようだ。
しばらくして、エマが炭筆を止めた。
「でも、さっきの透明なペンでは描かないの?」
ガラスペンのことだ。
「これはちょっと特別なんだ。普通に絵を描くなら、今の炭筆の方が使いやすいよ」
「でも、絵を描くときに使うって言ったよね」
「ああ……そうね」
ちゃんと覚えていた。
「絵にも使えるよ。でも、いつでも好きなだけ使えるわけじゃないの」
「見てみたい」
予想通りの返事が返って来た。
今、確実に選べるのは赤だけだ。ただ、色を選ばずに引けば、次に出てくるのは青だと分かっている。
ガラスペンを持ち上げたところで、少し離れた場所にいたロアが気づいた。
「使うのか?」
「一回だけ。紙に線を一本引くくらい」
ロアは止めなかった。
私はガラスペンを握り直し、色を選ばず、ごく少量だけロアから引き出す。
透明な軸へ青が入ってきた。
「なに、それ」
エマがすぐ隣まで寄ってくる。
「見てて」
紙に描いた馬の上へ、細く色を置く。灰色の紙に青い線が浮かび、炭だけで描いた馬が、ほんの一瞬だけ色を帯びた。
「きれい……」
さっきまで賑やかだったエマの声が小さくなった。
青は少しずつ薄くなり、やがて紙の上から消えた。あとには炭で描いた馬だけが残った。
「消えちゃったね」
「うん」
「今のは、何?」
「青っていう色だよ」
「あお……」
エマが確かめるように繰り返す。
この世界では、子供が普通に知っている言葉ではない。
エマは青が消えた場所を指でなぞったあと、すぐ私を見た。
「もう一回」
「今日はこれで終わり」
「なんで?」
「使える量に限りがあります」
「じゃあ、明日は?」
「明日も見せられるかは分からないよ」
「そっか……」
エマは少し考えていたが、すぐにカレンを呼んだ。
「お母さん」
「嫌な予感がするね」
「私、この人たちと一緒に行きたい」
「やっぱりか」
カレンが額に手を当てた。
「さっき会ったばかりだろ」
「でも、ユイナに絵を教えてもらえるし」
「まだ教えるとは言ってないよ」
私が言うと、エマはすぐこちらを向いた。
「教えてくれる?」
「うーん。一緒にいるなら……時間があるときはね」
「ほら!」
「ほら、じゃないよ」
カレンはため息交じりに返した。
そのやり取りを聞いていたセレンが、そこで口を挟んだ。
「カレン。私からも頼みたいことがあるんだけど」
「何だい。まさかあんたまで同じこと言うんじゃないだろうね」
「うん。カレンにも来てもらえないかと思って」
今度はカレンが黙った。
冗談だと思っているようには見えない。
「私たちは、この先もしばらく旅を続けることになる」
セレンが話を続ける。
「私たち三人だけだと、荷物は持って歩くしかないし、宿や必要な物の手配にも慣れていない。でもカレンは元商隊で旅慣れてるし、馬車も扱えて、傷の手当てもできる」
「ずいぶん買ってくれるじゃないか」
「本気で頼んでるからね」
セレンも笑わない。
「旅にかかるお金は全部こっちで出すよ。カレンとエマの宿代も食費も、馬の餌代も。馬車の修理が必要になったときの修繕費もね。それとは別に、同行してもらう分の報酬もちゃんと払う」
「ちょっと待ちな」
カレンが少し驚いたように目を見開いた。
「そこまでするのかい?」
「足りない?」
「逆だよ。条件が良すぎる。そんな話をされたら、何をさせるつもりなのか心配になるね」
「それもちゃんと話すよ」
セレンは包帯を巻いたロアの腕を指した。
「さっきみたいな相手に、また襲われるかもしれない。これから行く先が、安全な場所だけとも約束できない」
カレンの表情が変わる。
「……そういう大事な話は、金の話より先にしてほしいね」
カレンは少し考えてから、今度は真面目な声で聞いた。
「何か悪いことをして、王国から追われてるわけじゃないんだろうね」
「私たちは王国に何かした覚えはないよ」
セレンの声から軽さが消えた。
「ただ、今日いきなり『王国に仇なす者』だと言われて襲われた。理由は私たちにも分からない」
ロアの腕には、カレンが巻いた包帯がある。セレンの左腕が石のように変わっていることも、私とロアの肌がこの世界の人たちとは違うことも、もう気づいている。
「そう。普通の旅人じゃないとは思ってたけど、予想以上に面倒そうだ」
「普通の旅じゃないのは確かですね」
私が言うと、カレンが少し笑った。
「そこは否定しないんだね」
「さっき襲われたばかりですから」
エマがカレンの服を引いた。
「お母さん、だめ?」
「簡単に決められる話じゃないの」
「でも私、ユイナにもっと絵を教えてもらいたい」
「絵を教えてもらえても、それだけで危ない旅についていくって決めるのは無理だよ」
さっきまでの軽い調子とは違った。
エマも言い返さず、母親の返事を待っている。
カレンはしばらく黙っていた。
「私一人なら、仕事の条件だけで決められるんだけどね」
やがて、カレンが口を開いた。
「でも私はエマを連れてる。金がいいからって、この子を危ない旅へ連れていくわけにはいかない」
「それは当然だよ」
セレンもすぐに答える。
「エマを一番に考えてくれていいし、危ないと思ったらすぐ仲間を抜けてもらっても構わない。その上で来てもらえるなら助かる」
カレンはエマを見る。
エマは何も言わず、母親を見上げていた。
そのあとカレンは、自分たちの大きな馬車と四頭の馬を確かめるように眺めた。
しばらくして、こちらへ向いた。
「……分かった」
「お母さん!」
「まだ喜ぶのは早いよ」
エマを止めてから、カレンは私たち三人へ言った。
「ただし、知っていることは全部話すこと。嘘はつかない、隠し事もしない。それだけは約束して。あとから『実はこうでした』はなしね」
「約束するよ」
セレンが答えた。
カレンはそれで話を終えた。
エマはすぐ私のところまで来る。
「じゃあ、明日から一緒?」
「そうなるみたいだね」
「絵、教えてね」
「まずは今日の馬を描き直すところからだよ」
「うん!」
追手から逃げてレインアまで来たときには、ここで新しい仲間が増えるなんて考えてもいなかった。これからはカレンとエマ、それにあの大きな黄色の馬車も一緒に旅をすることになる。
危険があると分かっていて、それでもカレンがついてきてくれる本当の理由は分からない。私たちには話していない何かがあるのかもしれない。
でも、その前に決めなければならないことがある。
私たちは追われる身で、このままレインアに隠れていても何も変わらない。
エマの紙に一瞬だけ浮かんだ青を思い出しながら、私はガラスペンをしまった。




