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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第10章 黄の王
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第6話 青の軌跡

エマは何枚かの絵を抱えたまま、私の返事を待っている。


「じゃあ、一枚だけね」

「ほんと?」


エマの顔がぱっと明るくなった。

さっき見せてもらった絵を返し、新しい紙を一枚と炭筆を借りた。


さて、何を描こうか。


馬留めには四頭の馬がいる。そのうちの一頭が首を振り、隣の馬を鼻先で押している。押された方の馬は迷惑そうに身体を動かす。


「あの子、描いていい?」

「ブラム? いいよ。でも、じっとしてないよ」


「大丈夫。止まってる馬をそのまま写すより、動いてる方が描きやすいってこともあるから」

「そうなの?」


「うん。どんなふうに身体を動かすのか分かるからだよ」


エマは納得していないようだった。

私は近くの木箱を借りて、その上に紙を置く。


ブラムがもう一度首を振った。

頭から首、前脚を描いていく。


身体の形を最初から全部整えるのではなく、さっきの動きを思い出しながら炭筆を走らせた。横からのぞいていたエマが、いつの間にか黙ってしまった。


「……本物の馬みたい」

「まだ途中だよ」


「私が描いたのとは全然違う」

「エマの絵も、走ってる感じはちゃんと出てたよ」


「でも私のは足がおかしい」


自分でも気づいていたらしい。


「最初から脚を一本ずつきれいに描こうとしなくていいの」


私は紙の端に、簡単な線でもう一頭描いてみせた。

まず体の形をざっくり描き、そのあとから脚をつけていく。


「ほら。最初はこのくらいでいいよ。あとから少しずつ形を整えればいいから」


エマは自分の絵と見比べた。


「最初は、ちゃんとした脚じゃなくてもいいの?」

「うん。動いてる感じが分かれば大丈夫。細かいところはあとで直せるから」


「もう一回描いてみる」


エマが待ちきれないように手を伸ばしてきたので、私は炭筆を返した。

さっそく新しい紙に線を引き始める。


さっきまでとは違い、今度はいきなり脚から描くのをやめたようだ。

しばらくして、エマが炭筆を止めた。


「でも、さっきの透明なペンでは描かないの?」


ガラスペンのことだ。


「これはちょっと特別なんだ。普通に絵を描くなら、今の炭筆の方が使いやすいよ」

「でも、絵を描くときに使うって言ったよね」


「ああ……そうね」


ちゃんと覚えていた。


「絵にも使えるよ。でも、いつでも好きなだけ使えるわけじゃないの」

「見てみたい」


予想通りの返事が返って来た。

今、確実に選べるのは赤だけだ。ただ、色を選ばずに引けば、次に出てくるのは青だと分かっている。


ガラスペンを持ち上げたところで、少し離れた場所にいたロアが気づいた。


「使うのか?」

「一回だけ。紙に線を一本引くくらい」


ロアは止めなかった。

私はガラスペンを握り直し、色を選ばず、ごく少量だけロアから引き出す。


透明な軸へ青が入ってきた。


「なに、それ」


エマがすぐ隣まで寄ってくる。


「見てて」


紙に描いた馬の上へ、細く色を置く。灰色の紙に青い線が浮かび、炭だけで描いた馬が、ほんの一瞬だけ色を帯びた。


「きれい……」


さっきまで賑やかだったエマの声が小さくなった。

青は少しずつ薄くなり、やがて紙の上から消えた。あとには炭で描いた馬だけが残った。


挿絵(By みてみん)


「消えちゃったね」

「うん」


「今のは、何?」

「青っていう色だよ」


「あお……」


エマが確かめるように繰り返す。

この世界では、子供が普通に知っている言葉ではない。


エマは青が消えた場所を指でなぞったあと、すぐ私を見た。


「もう一回」

「今日はこれで終わり」


「なんで?」

「使える量に限りがあります」


「じゃあ、明日は?」

「明日も見せられるかは分からないよ」


「そっか……」


エマは少し考えていたが、すぐにカレンを呼んだ。


「お母さん」

「嫌な予感がするね」


「私、この人たちと一緒に行きたい」

「やっぱりか」


カレンが額に手を当てた。


「さっき会ったばかりだろ」

「でも、ユイナに絵を教えてもらえるし」


「まだ教えるとは言ってないよ」


私が言うと、エマはすぐこちらを向いた。


「教えてくれる?」

「うーん。一緒にいるなら……時間があるときはね」


「ほら!」

「ほら、じゃないよ」


カレンはため息交じりに返した。

そのやり取りを聞いていたセレンが、そこで口を挟んだ。


「カレン。私からも頼みたいことがあるんだけど」

「何だい。まさかあんたまで同じこと言うんじゃないだろうね」


「うん。カレンにも来てもらえないかと思って」


今度はカレンが黙った。

冗談だと思っているようには見えない。


「私たちは、この先もしばらく旅を続けることになる」


セレンが話を続ける。


「私たち三人だけだと、荷物は持って歩くしかないし、宿や必要な物の手配にも慣れていない。でもカレンは元商隊で旅慣れてるし、馬車も扱えて、傷の手当てもできる」


「ずいぶん買ってくれるじゃないか」

「本気で頼んでるからね」


セレンも笑わない。


「旅にかかるお金は全部こっちで出すよ。カレンとエマの宿代も食費も、馬の餌代も。馬車の修理が必要になったときの修繕費もね。それとは別に、同行してもらう分の報酬もちゃんと払う」


「ちょっと待ちな」


カレンが少し驚いたように目を見開いた。


「そこまでするのかい?」

「足りない?」


「逆だよ。条件が良すぎる。そんな話をされたら、何をさせるつもりなのか心配になるね」

「それもちゃんと話すよ」


セレンは包帯を巻いたロアの腕を指した。


「さっきみたいな相手に、また襲われるかもしれない。これから行く先が、安全な場所だけとも約束できない」


カレンの表情が変わる。


「……そういう大事な話は、金の話より先にしてほしいね」


カレンは少し考えてから、今度は真面目な声で聞いた。


「何か悪いことをして、王国から追われてるわけじゃないんだろうね」

「私たちは王国に何かした覚えはないよ」


セレンの声から軽さが消えた。


「ただ、今日いきなり『王国に仇なす者』だと言われて襲われた。理由は私たちにも分からない」


ロアの腕には、カレンが巻いた包帯がある。セレンの左腕が石のように変わっていることも、私とロアの肌がこの世界の人たちとは違うことも、もう気づいている。


「そう。普通の旅人じゃないとは思ってたけど、予想以上に面倒そうだ」

「普通の旅じゃないのは確かですね」


私が言うと、カレンが少し笑った。


「そこは否定しないんだね」

「さっき襲われたばかりですから」


エマがカレンの服を引いた。


「お母さん、だめ?」

「簡単に決められる話じゃないの」


「でも私、ユイナにもっと絵を教えてもらいたい」

「絵を教えてもらえても、それだけで危ない旅についていくって決めるのは無理だよ」


さっきまでの軽い調子とは違った。

エマも言い返さず、母親の返事を待っている。


カレンはしばらく黙っていた。


「私一人なら、仕事の条件だけで決められるんだけどね」


やがて、カレンが口を開いた。


「でも私はエマを連れてる。金がいいからって、この子を危ない旅へ連れていくわけにはいかない」

「それは当然だよ」


セレンもすぐに答える。


「エマを一番に考えてくれていいし、危ないと思ったらすぐ仲間を抜けてもらっても構わない。その上で来てもらえるなら助かる」


カレンはエマを見る。

エマは何も言わず、母親を見上げていた。


そのあとカレンは、自分たちの大きな馬車と四頭の馬を確かめるように眺めた。

しばらくして、こちらへ向いた。


「……分かった」

「お母さん!」


「まだ喜ぶのは早いよ」


エマを止めてから、カレンは私たち三人へ言った。


「ただし、知っていることは全部話すこと。嘘はつかない、隠し事もしない。それだけは約束して。あとから『実はこうでした』はなしね」

「約束するよ」


セレンが答えた。

カレンはそれで話を終えた。


エマはすぐ私のところまで来る。


「じゃあ、明日から一緒?」

「そうなるみたいだね」


「絵、教えてね」

「まずは今日の馬を描き直すところからだよ」


「うん!」


追手から逃げてレインアまで来たときには、ここで新しい仲間が増えるなんて考えてもいなかった。これからはカレンとエマ、それにあの大きな黄色の馬車も一緒に旅をすることになる。


危険があると分かっていて、それでもカレンがついてきてくれる本当の理由は分からない。私たちには話していない何かがあるのかもしれない。


でも、その前に決めなければならないことがある。

私たちは追われる身で、このままレインアに隠れていても何も変わらない。


エマの紙に一瞬だけ浮かんだ青を思い出しながら、私はガラスペンをしまった。

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