第5話 旅の母娘
エリンフォードを離れてから、ロアは一度も休もうとしなかった。
左腕と肩口の出血はかなり治まってきていたが、それでも黒い服には乾きかけた血の跡が残っている。歩き続けたせいか、左腕の傷口からまた血がにじみ始めていた。
「ロア、少し休んだ方がいいよ」
「町まではこのまま行く」
「でも、また血が出てる」
「ここは危険だ。はやく離れた方がいい」
ロアの言うことは分かる。
振り返っても、エリンフォードの建物はもう見えない。槍の男も弓の女も追ってきてはいない。でも、このまま諦めるとも思えない。
私たちがセレンの家へ戻ると分かっていて、あの二人は家の近くで待ち伏せていた。
「ロアの言う通りだね」
セレンも歩みを止めない。
「手当てはレインアに着いてからにしよう」
「あの二人、また来ますかね」
「分からない。でも、家がばれている以上もう戻れないし、少しでもエリンフォードから離れた方がいい」
セレンはいつもの調子で話している。
自分の家に戻れなくなって、何とも思っていないはずはないだろう。
私も何を言えばいいのか分からず、遅れないよう歩き続けた。
◇
レインアへ着いたのは、その日のうちだった。
思っていたより近かった。
エリンフォードほど大きな町ではないようだが、町へ入ると馬車の数が一気に増えた。荷を降ろす人の横を荷馬車が通り、馬を引いて宿へ向かう旅人もいる。入口から続く通りには、旅人向けの宿や店が並んでいた。
これだけ人の出入りが多い町なら、私たち三人が入っても目立つことはなさそうだ。
セレンは通り沿いにある大きめの宿を選んだ。
「ここにしよう」
「泊まったことがあるんですか?」
「前に一度だけね。特別いい宿だった覚えはないけど、ここを利用するのは王都やエリンフォードから来る人ばかりじゃないし、人の出入りが多ければ私たちも目立ちにくい」
宿の横には、馬をつないでおける広い場所があった。何頭かの馬と、大きな馬車が一台停まっている。
その馬車を見た瞬間、私は思わず身構えた。
黄色い。
木の車体も幌も鮮やかな黄で覆われていた。
「……あれ」
ロアも馬車を見た。
セレンも入口へ向かいかけた足を止める。
この世界では色があるもの自体、珍しい。
しかも黄色だ。
少し前まで戦っていた槍と弓と同じ色だ。
しかし馬車のそばには荷物や旅道具が置かれているだけで、武器らしいものは見当たらない。
あの二人とは関係なさそうだったので、宿へ向かおうとした。
「ちょっと、そこの兄さん」
後ろから声をかけられ、ロアが止まる。
馬車の脇に、一人の女性が立っていた。
背中まである長い髪が、大きく波打っている。私よりかなり背が高く、服装も町で暮らす人というより、旅をしている人のように見える。
女性の視線は、ロアの左腕に向いていた。
「その腕、どうしたんだい?」
「ちょっと怪我をしただけだ」
「ちょっとって感じじゃなさそうだけどね」
女性がこちらへ歩いてくる。
ロアのところまで来る前に、私の前で少し動きが止まった。
「……あんた」
「はい?」
女性は私の顔を見て、何か言いかけたけれど、その視線はすぐにロアの左腕へ移る。
「いや、先にこっちだ」
女性は馬車の後ろへ回り、荷台から小さな箱を持って戻ってきた。
「兄さん、腕を見せて」
「この程度なら平気だ」
「まだ血が出てるよ」
ロアは左腕を確かめる。
さっきより染みが広がっていた。
「お願いしてもいい?」
セレンが女性に声をかけた。
「私も手当てくらいならできるんだけど、薬も包帯もほとんど家に置いてきてしまって」
「そういうことなら任せて」
女性は馬車の横に置かれていた木箱を指さした。
「そこに座って」
ロアは私とセレンを一度見てから、諦めたように木箱へ腰を下ろした。
女性が裂けた袖をめくる。
その途中で手が止まった。
「……あんたもか」
「何がだ」
女性は答えず、私の方を見る。
さっき私を見たときも、こんな顔をしていた。
ようやく、女性が何に驚いているのか気づいた。
肌の色だ。
この世界の人たちとは違う、私の肌。そして、ロアも同じだ。
「私たちみたいなのは、やっぱり珍しいですか?」
「そりゃね」
女性は私とロアを見比べた。
「一人ならまだしも、二人も揃って歩いてるとなれば、なおさらだよ」
けれどそれ以上は聞いてこない。
すぐにロアの治療へ戻る。
「これは矢傷?」
「ああ」
「肩も?」
「そっちはかすっただけだがな」
「分かった。じゃあちょっと染みるからね」
水をかけられた途端、ロアの眉間にしわが寄った。
戦っているときには、矢が当たってもほとんど表情を変えなかったのに。
私は少し笑ってしまった。
「何だ」
「何でもありません」
「今、笑っただろ」
「笑ってません」
ロアがこちらを振り返ろうとする。
「動かないで。包帯が巻けないから」
女性に腕を押さえられ、ロアは仕方なく前を向く。
少し離れたところで、セレンが口元に手を当てている。
「セレンも笑ってるだろ」
「私は何も言ってないよ」
「顔が笑ってる」
傷そのものは深くなかったようだ。
左腕は矢がかすめて皮膚を切っており、肩も同じように表面が削られている。
女性は慣れた手つきで肩と腕を処置し、最後に包帯を巻いた。
「これでいい。今日はなるべく左腕を使わないこと。また傷が開くかもしれないからね」
「ああ。助かった」
「どういたしまして」
「手当てに慣れてるんだね」
セレンが言った。
「昔、商隊にいたんだ。旅をしてれば、怪我人なんて珍しくないからね」
「じゃあ、今も商隊で旅を?」
「今は違うよ。娘と二人で旅してるだけ」
「娘さんも一緒なんだ」
女性は馬車の方を振り返った。
「エマ。もう出てきていいよ」
しばらくすると、馬車の陰から小さな顔がのぞいた。
女の子だった。
九つか十歳くらいだろうか。
女性から許可がでるまで、隠れていたらしい。
母親のそばまで来たところで立ち止まり、私たち三人を眺める。
「お母さん、この人たち悪い人?」
「うーん」
女性が私たちを見回した。
「そうは見えないね」
女の子は私を見る。
次にセレン。
最後にロアをじっと見つめる。
「この人は、ちょっと怖い」
「俺か?」
「うん」
ロアが黙る。
今度は我慢できずに笑った。
「笑うな。おまえら」
「だって……」
「ほら。そういう顔してるから怖がられるんだよ」
女性も笑いながら言う。
「私はカレン。この子は娘のエマ」
「ユイナです」
「ロアだ」
「セレンよ。助かったよ、カレン」
「旅先じゃお互い様だから気にしないで」
カレンは治療箱を持って馬車へ戻った。
荷台へ箱をしまう間に、私はもう一度車体を見る。
やっぱり黄色い。
光の加減でそう見えているわけでもなさそうだった。
さっき私たちを襲った二人の武器と同じ黄色だ。
どうして黄色いのか、聞こうか迷ったが、出会ったばかりの相手だ。
やめておくことにした。
それに今は、ロアの傷を手当てしてもらったばかりだ。
私たちが宿へ入ろうとすると、エマが私のそばへ寄ってくる。
「ユイナ」
「うん?」
初対面なのに、もう名前を呼び捨てにされた。
エマは私の髪をしばらく見たあと、腰のガラスペンに気づいた。
「きれいね」
「これ?」
少し持ち上げて見せると、エマが頷く。
「何に使うもの?」
「これは……」
どう答えるか迷った。
色をロアから引き出して使うための道具だと言っても、どこまで伝わるか分からない。
「絵を描くときに使うかな」
「絵、描けるの?」
エマの顔が急に明るくなった。
「描けるよ」
転生前は一応画家だ。
こっちに来てからは一度も描いていないけれど、たぶん大丈夫だろう。
「上手?」
「自分で上手って言うのは、ちょっとね」
エマは何も言わず、いきなり馬車へ走っていった。
「エマ?」
カレンが呼ぶ。
けれどエマはもう荷台へ上がり、何かを抱えて戻ってきていた。
両手には何枚かの紙を持っている。
「これ、見て」
一番上の紙に描かれていたのは馬だった。
胴体はかなり大きく、そこから細い脚が四本伸びている。首は少し長い。
脚の位置や身体の傾きから、走っているところを描きたかったのは伝わった。
「エマが描いたの?」
「うん」
紙を受け取る。
「走ってる馬?」
「そう!」
わかってくれたのが嬉しかったらしく、エマがすぐ次の紙を差し出してきた。
「これは?」
「ちょっと待って。ちゃんと見るから」
カレンが困ったように笑った。
「その子、絵の話になると長いよ」
「いいですよ。私も好きですから」
「だったら相手してやって。私だと全部『上手だね』で終わっちゃうから」
「お母さんも、ちゃんと見てくれてるよ」
「でも、絵はよく分からないんだって」
エマは少し不満そうだったが、すぐにまた紙を広げた。
馬車、家、その横には、二人の人が並んでいる。
「これは?」
「私とお母さん」
一人は小さく、もう一人は大きく波打つ髪が描かれている。
「あ、こっちがお母さんだね」
「分かる?」
「うん。髪がそっくり」
エマが嬉しそうに笑った。
ついさっきまで、私たちは槍と矢を向けられていた。
セレンの家には戻れない。
誰が、何で私たちを狙っているのか分からない。
ロアは戦闘で負傷している。
そんな状態なのに、今は知らない町の宿の前で、知らない女の子が描いた絵を見て笑っている。さっきまでとはあまりにも違う時間だった。
「ほかにもあるよ」
エマが次の紙を見せる。
「うん。見せて」
受け取ると、エマは腰のガラスペンを見る。
「ねえ」
「何?」
「ユイナの絵も、見せて」
私はガラスペンを握り直した。




