第2話 灰色の傷
前日の話し合いどおり、翌朝にはセレンの家を出た。
フィリナから戻ったばかりで、荷物をほどいてからまだ一日しか経っていない。それでも、今の私たちにはエリンフォードでやれることはない。
必要なものを鞄へ戻し、私はガラスペンをセレンが買ってくれたケースに収める。ロアも旅装を整え、セレンは自分の荷物をまとめて家を出た。
目指すのは、黄の始原ルミナが治める王都だ。
◇
王都へ着くと、街はちょうど祭りを前にして、普段とは違う賑わいを見せていた。
城へ続く大通りでは、店に次々と荷が運び込まれている。道端では組み上げたばかりの屋台に品物を並べる人がいて、その横を大きな荷を背負った旅人が通り過ぎる。普段の王都を知らない私でも、いつもの一日ではないことは分かった。
「セレンが言ってた大きな祭りって、明日なんですか?」
「ああ。建国祭。この国ができた日を祝う祭りで、明日が本番だよ」
セレンが大通りの先を示す。
灰色の街並みのさらに向こうに王城が見える。
街は、これまで見てきた町と変わらず灰色だ。その中で、王城だけがまるで別の場所にあるかのように黄を帯びている。城壁も、その奥に立つ城も、遠くからはっきり分かるほどまばゆい黄に包まれていた。
「……すごい。お城全部が黄色なんですね」
ルヴェリアで見たエルガ王城を思い出した。
あの城も周囲の灰色から切り離されたように赤く染まっていた。ザロスがいた場所と同じように、ここにも始原の色が集まっている。
「明日は街でもいろいろ催しがあるよ。ルミナ王が王城のテラスから祝辞を述べるのも恒例なんだ」
「王様を見に来る人も多いんですか?」
「多いだろうね。普段は王城に入る事ができない人でも、その日だけはルミナ王の姿を見ることができるんだから」
周囲に旅装の人が多い理由も、それなら分かる。
「じゃあ、ちょうど間に合ったんですね」
「そうだね。運がよかった」
セレンは話しながら通りを見回した。
「先に宿を取ろう。明日はもっと人が増えるし、早めに押さえておいた方がいい」
私たちは大通りから少し外れ、セレンが見つけた宿へ入った。
部屋へ荷物を置いてから、明日は城のどのあたりまで行けるのか、どこからなら王城のテラスが見えるのかセレンから説明を受けた。まずはルミナ王の姿を確認する。それが明日の目的だ。
そのあとも祭りを見に来たらしい客が何組か宿へ入ってきた。
窓から差し込んでいた明かりがなくなるころ、私たちは一階で夕食を済ませた。
部屋へ戻ろうとしたところで、セレンが思い出したように言った。
「そういえば、この近くに大きな共同浴場があるけど、行く?」
「お風呂ですか!?」
思わず身を乗り出した。
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいですよ!こっちに来てから、一度もお湯につかってないんです」
身体を洗うことなら、旅の途中でも何度もしたけれど、湯船に入ったことは一度もない。
この世界に来てから、風呂に入れる場所があるかどうかをわざわざ聞こうとも思わなかったし、旅を続けるうちにそんなことを考える余裕もなくなっていた。
「そこまで喜ぶとは思わなかったな」
「行きます。絶対行きます!」
明日は王城へ行く。
でも今だけは、頭の中が風呂のことでいっぱいになった。
共同浴場は宿から歩いてすぐの場所にあった。
中へ入ると、外とは違う暖かな空気が肌に触れる。浴場へ入ると、広い浴槽から立ち上がった湯気で奥が少し霞んでいる。桶を置く音に混じって、何人もの話し声が聞こえてくる。
私が見慣れていた銭湯とは少し違う。
桶も浴槽も、この世界のものだ。湯気まで私には灰色に見える。
それでも、風呂だ。
それだけで嬉しくなった。
身体を洗い終え、浴槽へ向かおうとしたところで、
「ユイナ」
後ろからセレンに呼び止められた。
「はい?」
「その肩、ちょっと見せて」
セレンが見ているのは、私の左肩だ。
ザロスにつけられた傷。
傷そのものは治療を受け、もう塞がっている。動かしても痛みはない。
けれど傷痕と、その周りの皮膚の色は元に戻らなかった。
左肩は、私の肌とは違う灰色をしている。
服を着ていれば見えないが、鏡で見るたびに、そこだけ自分の肌ではないようで、どうしても気になる。
セレンがそばまで来た。
「触っても大丈夫?」
「はい」
傷痕を、セレンの指先が軽く触れた。
「痛みは?」
「ほとんどありません。強く押したら少し気になるくらいです」
「触ってるのは分かる?」
「分かります。そこも普通の肌と変わらないです」
感覚がなくなっているわけではない。
セレンはしばらく灰色の傷を確かめたあと、手を離した。
「やっぱり、傷のせいで灰色になってるわけじゃなさそうだね」
「傷跡が灰色になってるわけじゃないってことですか?」
「傷痕は残ってるよ。でも、治りきってないから灰色なわけじゃないと思う」
セレンはもう一度、私の肩を確かめる。
「ザロスに傷つけられたとき、肩の色が奪われたんじゃないかな」
左肩へ手を伸ばしてみる。
傷が消えれば、元の肌の色に戻ると思っていた。
「これ、元に戻せますか?」
「……分からない。でも、それが分かれば、私の肌もユイナみたいな色になれるかもしれないね」
セレンの左腕を見る。
解析の代償が何かを知っている今、これ以上調べてほしいとは言えなかった。
「じゃあ、このままでいいです」
「いいの?」
「痛くないし、動かせますから。これを調べるためにセレンの腕がまた悪くなったら、その方が嫌です」
「そこまで深く調べるつもりはないよ。少なくとも、今すぐ調べないと危ない状態には見えないしね」
「なら、なおさら今はいいです」
「分かった。痛んだり、灰色が広がったりしたら、そのときはすぐ教えて」
「はい」
私たちは、浴槽へ向かった。
湯へ足を入れ、そのままゆっくり身体を沈めていく。最後に肩までつかったところで、思わず声が出た。
「ああ……」
温かい。
アズレアでは何日も裸足で歩き、フィリアでは森を抜け、始原とも戦ってきた。
だけどそんなことも忘れるくらい、気持ちがよかった。
「本当に好きなんだね」
すぐ隣からセレンの声が聞こえた。
「好きですよ。普通、異世界に来て、お風呂があるなんて思わないじゃないですか」
「いせかい?」
「あ……」
言ってから気づいた。
「今のは気にしないでください」
セレンは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
私は浴槽に背を預け、もう一度肩まで湯につかる。
左肩の灰色の傷も、そのまま湯の中へ沈んだ。
◇
翌朝。
宿を出ると、昨日とは街の様子が変わっていた。
準備中だった屋台には品物が並び、通りから客を呼び込む声が聞こえる。王城へ向かう人の流れは途切れず、私たちもその中へ入った。
ロアは人とぶつからないよう歩いていたが、しばらく進んだところで周りを見回す。
「昨日よりかなり人がいるな」
「今日が本番だからね。王を見るために来てる人も多い」
セレンは人の流れを見ながら進んでいく。
私は二人から離れないように付いていった。
王城へ近づくにつれ、前を行く人の数はさらに増える。
城壁へ続く通りを進み、ようやく王城の前の広場に着く。
足を止めて見上げる。
高い。
昨日は街の向こうに見えていた城が、今は私の目の前で、頭上まで黄一色にそびえている。近くで見るその黄は、遠くから見たときよりずっと鮮やかだ。
ここまで来ると、それ以上は簡単に前へ進めなくなった。
すでに大勢の人が集まり、王城を見上げている。
「この辺りでいいよ。テラスはここからでも見える」
セレンが人の流れから少し外れた場所で止まった。
正面の高い場所に、大きなテラスがあった。
あそこにルミナ王が出てくる。
文香さんとセレンが以前会った、黄の始原。
王として人々の前に立ち、国を治めている始原がどんな人物なのか、私はまだ知らない。
周りの人たちは楽しそうに話しながら、テラスに王が現れるのを待っていた。
やがて、広場の一角から大きな歓声が上がり、一斉に人々が王城を見上げる。
テラスに男が現れた。
「あれがルミナ王だよ」
セレンが教えてくれた。
遠く離れていて顔まではよく見えない。
それでも、その男が始原だということはすぐに分かった。
全身が黄に覆われている。
歓声がさらに大きくなった。
あの人がルミナ王。
黄の始原。
文香さんが色譜盤で色の相関を調べ、セレンが黄を解析しようとした相手。
私は人々の頭越しにルミナ王を見つめた。
そのとき、王の後ろから別の人影がテラスへ出てきた。
長い髪を後ろで束ねた、細身の男。
遠目でも見間違えなかった。
「……え?」
森で会ったあいつだ。
「ユイナ」
ロアも気づいたようだ。
「エルディンです」
隣を見ると、セレンは何も言わず、その男を見つめている。
まるで、初めて見る相手を確かめるように。
歓声に包まれたテラスで、ルミナ王の隣にいるはずのない男が立っていた。




