第1話 赤の輪郭
翌朝になっても、文香さんの記録は昨夜のまま机の上に広げられていた。
宿の一階では朝食が始まっているらしく、ときどき食器の触れ合う音が聞こえてくる。
町長にどう返事をするかは、まだ決まっていない。
「私は絶対に反対です」
セレンが顔を上げた。
「町長には断りましょう。赤を使えるようにするために、セレンがそこまで危険を冒す必要はありません」
森から緑が広がり続ければ、いつかミレヴァまで届くかもしれない。昨日、町長たちに頼まれたとき、そのことは理解できた。
でも、町を助けるためにセレンが犠牲になるのは違うと思う。
ロアは壁際の椅子に座ったまま、私たちの話を聞いている。
セレンがロアを見る。
「ロアはどう思う?」
「セレンの体のことだ。セレンが決めればいい。解析するなら俺も手伝うし、しないなら、町長の頼みは断ればいい」
セレンは何も言わず、机に広げられた記録を一枚手に取った。
最後の方には、こう書かれている。
緑には赤が通る。
「文香は、私が解析を続けることにずっと反対していた」
「私が何度止められても解析をやめなかったから、文香は石化の原因を一刻も早く突き止めようとしてくれた。それから出ていって、一年近く帰ってこない。こんなところにまで来て、まだ私のために調べ続けていたんだよ」
「だからって、セレンが能力を使う必要はありません」
「そうだね」
あっさり認められて、次の言葉が出てこなかった。
「文香に頼まれたわけでもない。町長の頼みを引き受ける義理もない。でも、私は解析する」
セレンは続けた。
「文香は、石化の原因を調べに行ってくれている。なのに私が勝手に解析を続けたら、あいつに怒られると思う。でも、やめられない。必要なときにはこれからも使う。だけど、無茶はしないって約束する。……文香が戻ってくるまでは、それくらい守らないとね」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
「これは私の身体だ。私に決めさせて」
賛成はできない。
それでも、セレン自身が決めたことを私が止めることもできなかった。
ロアが椅子を机の前まで動かした。
「途中でやめたくなったら、いつでもやめていいぞ」
「分かってる」
セレンは姿勢を整えた。
「ロア、じっとしていて」
「ああ」
私は鞄からガラスペンを取り出し、机の上に置いた。
しばらく、セレンはロアの中の赤に集中した。
袖口から見える左手の表面が、少しずつ変わっていく。
「セレン」
「まだ続けられる」
私はセレンの左腕を見ていた。
「もう――」
「終わった」
「赤は?」
ロアが聞いた。
「最後まで解析できた」
セレンは左手を何度か握ったり開いたりした。
「ユイナ、試してみて」
私はガラスペンを握った。
ザロスから奪った赤――文香さんが緑に通ると書き残した色を思い浮かべる。
ロアから色を引き出すと、ガラスペンに入ってきたのは青だった。
私は色を引き出すのをやめた。
「あれ?ちょっとペンを見せて」
ガラスペンを渡すと、セレンは透明な軸をしばらく眺めた。
「解析しただけじゃ、ユイナが赤を選べるようにはならないみたいだね」
「まだ何か足りないのか?」
ロアが聞く。
「分からない。ロアの中に、解析した赤そのものはちゃんと見えてるんだけど……」
セレンはガラスペンを私へ返した。
受け取って、何気なくロアを見る。
そのとき、ロアの胸元から赤がほんの少しだけ引き出された。
「……え?」
赤は私の手元へ流れ、ガラスペンを通って消えた。
「今の、私がやったんですか?」
「たぶん。でも、今までとは違うね」
セレンが私の手元を見る。
「ユイナ。もう一回やってみて」
「さっきと同じでいいんですね」
「うん。今度は、赤を意識して」
ロアの中の赤へ意識を向ける。
すると今度は、ロアから赤がはっきりと引き出された。
私はすぐに止めた。
「……やっぱり赤だ」
セレンは少し考えてから、私の持つガラスペンを見た。
「さっきまで選べなかったのに……何が違う?」
「セレンがペンを調べたあとからですよね」
「……私?」
セレンは眉を寄せた。
「触っただけなんだけどね」
私はセレンの左腕を見た。
赤は選べるようになった。でも、素直には喜べない。
「町長の頼みを引き受けて、フォリアのところへ向かうかどうかは、まだ決まったわけじゃないですからね」
「ああ、赤を使う準備はできた。どうするか決めよう」




