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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第8章 緑の侵食
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第9話 フォリア

最後の記録を読み終えても、文香さんがこのあとどこへ向かったのかは分からなかった。休憩所の机には、数日分の調査記録が広げてある。


世界樹の北側、川沿い、南西の林。文香さんは場所を変えながら緑を観測し、色譜盤で反応を確かめていた。その結果として残されていたのが、「緑には赤が通る」という記録だった。


セレンは紙を日付順に並べ直していたが、途中で手を止めた。


「……待って」

「どうしたんですか?」


「エルディンの言っていたことと、この記録は少し合わないね」


セレンは二枚の紙を私の前へ置いた。


「あいつは、『文香は、君たちが立ち入れないところに行った』と言った。私が世界樹へ行ったのかと聞いても否定しなかったし、あいつ自身も世界樹と同じ方向へ歩いていった」


私も覚えている。

あの言葉を聞いて、私たちは文香さんが世界樹へ向かったのだと思った。


「でも、この記録を見る限り、文香は世界樹の周辺を何日も調べてる。世界樹そのものを調べた記録は一つもない」

「じゃあ、エルディンは嘘を言ったのか?」


ロアが聞いた。


「そこまでは断言できない。この記録を書いたあとで、文香が世界樹へ向かった可能性もあるからね」


セレンは紙を一枚取り上げた。


「ただ、今後文香を探すなら、あいつの言葉をそのまま信じて行動するのはやめた方がいいかな。私たちが世界樹へ向かうと分かっていて、ああいう言い方をした可能性もある」


森で会ったエルディンを思い出す。

緑に変わった地面を避けることなく歩いていた。


王都では王国宰相を名乗っていたはずなのに、王城ではそんな人物はいないと言われた。セレンも顔も名前も思い出せなかった一方で、港にはエルディンの乗船記録は残っていた。


左手首には、三本の黒い線と円弧のような文様もあった。


「私たちを世界樹へ向かわせたかったんでしょうか」

「分からない。文香がどこにいるのか、あいつがどこまで知ってるのか。それも分からない」


セレンはそれ以上、エルディンについて話さなかった。

ロアが机の上の記録を見る。


「結局、文香の行き先は分からないままか」

「ああ。この記録だけじゃね。まだ森のどこかに別の記録を残してるかもしれないけど、当てもなく探すには森は広すぎる」


セレンは私とロアを見た。


「君たちも疲れてるだろ。一度ミレヴァへ戻ろう」


世界樹まで行き、緑の始原に襲われて逃げてきた。そのあとも、文香さんの痕跡を探して森を歩き回った。


私も一度、町へ戻って休みたかった。

外に出ていたリリカが戻ってきた。


「どうするか決まった?」

「一度、ミレヴァへ戻ることにする」


「分かった」


リリカはすぐに頷いた。


「ロアが作った道も、そのまま残ってるだろうし。行きみたいに道を確保しながら進まなくていい分、帰りは楽になると思う」


ロアが緑を奪ったのは、私たちが通ってきた道のうち、侵食されて進めなくなっていた場所だ。


その道をそのまま戻ればいい。

私は文香さんの記録をまとめ、鞄へしまった。


     ◇


帰りはリリカが先頭に立った。

道標や休憩所を確かめながら南へ進み、緑に塞がれていたところでは、行きにロアが切り開いた道を通った。


世界樹から離れるにつれて、森の様子も少しずつ変わっていく。

世界樹の近くでは道の両側まで緑に覆われていたが、何日か歩くうちに、灰色の地面や木々がそのまま残っている場所が増えてきた。


ある日の休憩中、リリカが地図を広げて言った。


「行くときは通れる道を探すのに必死だったけど、戻ってくるとよく分かるね」

「何が?」


「世界樹に近いほど、森の侵食はひどかった」


リリカは地図の上で、世界樹のある方角からミレヴァまで指を動かした。


「ミレヴァの近くじゃ、普通に通れる道の方が多い。でも奥へ行くほど、前に使えてた道も通れなくなっていた」


リリカは以前から、この森でガイドをしている。


「今までは世界樹の近くまで行ったことがなかったから、どこから侵食が広がってるのかまでは分からなかった」


指が地図の中心で止まる。


「今回、世界樹の近くまで行って、侵食があそこから外へ広がってるんじゃないかって、初めて思った」


セレンも地図を見る。


「町には報告した方がよさそうだね」

「うん。世界樹のことも全部報告するよ」


リリカは地図を畳んだ。


「このまま侵食が森の外へ広がるなら、ミレヴァにも関係するからね」


休憩を終え、再び南へ向かった。


     ◇


二週間以上かけて森を抜け、ようやくミレヴァの北門をくぐった。

町の中は、出発したときとほとんど変わっていない。


人が通りを行き来し、店の前には荷車が止まっている。森の奥で見てきた緑も、まだここまでは届いていなかった。

リリカは宿へ向かわず、そのまま町の中へ進んだ。


「先に町長のところへ行く」

「今からですか?」


「うん。世界樹と緑の侵食のことを一刻も早く伝えたい」


森のガイドをしているリリカにとって、放っておける話ではない。

私たちも一緒に町長のもとへ向かった。


町長のもとへ着くと、リリカは森で見てきたことを順に話した。

以前は通れた道が緑に覆われ、通れなくなっていたこと。


世界樹へ近づくほど緑の侵食が激しくなっていたこと。

そして、世界樹そのものが動いたこと。


「地面から何本も根が出てきて、私たちを襲ってきた。全員、その根から逃げ戻ってきたんだよ。それから世界樹の近くにいると、体がどんどん重くなっていくように感じた」


黙って聞いていた町長が顔を上げた。


「世界樹が……人を襲ったのか?」

「そうだよ。あそこにあのままいたら、戻ってこられなかったと思う」


町長はしばらく何も言わなかった。

やがて、小さく名前を口にする。


「フォリアが……」


挿絵(By みてみん)


「フォリア?」


私が聞くと、町長はこちらを見た。


「世界樹の名前だ。この大陸では、昔からそう呼ばれてる」


フォリア。

私たちは、これまで世界樹としか呼んでいなかった。


「昔から、北の穀倉地帯も南の牧草地も、フォリアの恵みを受けていると言われてきた。この大陸で暮らす者にとっては、ずっとそういう存在だったんだ」


町長は腕を組んだ。


「だから、フォリアが人を襲ったという話は、すぐには信じられない。だが……」


少し考えてから続ける。


「ここ数年、北では穀物の収穫が落ちてる。最初は天候のせいだと思われていた。だが、翌年になっても収穫は戻っていない。南も牧草の育ちが悪くなってる」

「森で通れない場所が増え始めたのも、その頃からだよ」


リリカが言う。

町長の表情が険しくなる。


「全部、同じ頃から始まったのか……」


話を聞いていた町の者たちも黙っていた。


「私は、森を侵食しているのは世界樹だと思う。近づくほど、侵食が明らかにひどくなってたからね」

「それなら……この町もいずれ同じようになるのか?」


町の者の一人が聞いた。


「森の侵食は徐々に外へ広がっていた。いつミレヴァまで届くかは分からないよ。ミレヴァだけ避けてくれるとは思えないし」


しばらく誰も口を開かなかった。

やがてリリカが、私たちの方を向く。


「ユイナたち。何とかできない?」

「え……」


「あなたたちは世界樹まで行って、戻ってくることができた。ロアがいれば、緑に塞がれた場所も進める。それに、世界樹がどうやって人を襲うのかを一度見てる」


私はすぐには答えられなかった。

町長も私たちを見る。


「私たちじゃ、世界樹のところまで行くことさえ難しい。だが、このまま侵食が広がってくるなら、何もしないわけにもいかない。無茶を言ってるのは分かってるが」


町長はまっすぐこちらを見ていた。


「この侵食を止められる可能性があるなら、力を貸してほしい」


近くにいた町の人たちも、私たちを見ている。

私はセレンとロアを見た。


二人とも、すぐには返事をしなかった。

私たちは文香さんの記録から、緑には赤が通ることを知ったばかりだ。


けれど、どうすれば赤を使えるようになるのかは分かっていない。


「……今ここでは答えられません」


私は町長に言った。


「少し、考えさせてください」


町長はしばらく私を見てから、頷いた。


「ああ」


     ◇


宿へ戻ってからも、町長への返事は決まらなかった。

部屋の机に、文香さんの記録をもう一度広げる。


ロアが一枚を見ながら言った。


「緑には赤が通る」

「はい」


ザロスから奪った赤がロアの中に残っていることは、フィリナへ向かう前にセレンが確認している。問題は、その赤をどうやって使うかだ。


「世界樹にガラスペンを向けたときは、青が出ましたよね」

「ああ」


セレンが頷く。


「アルディナの図書館で試したときも、ザロスと戦ったときも青だった」

「俺は何を出すか選んではいない」


ロアが言う。


「出そうと考えるだけだ」


私は腰のガラスペンを見る。

世界樹へ向けたときも、赤を出そうとしたわけではない。ロアから出てきた色を、そのままガラスペンへ引き寄せただけだ。


「じゃあ、どうすれば赤を出せるんでしょうか」

「それは、分からない」


セレンは文香さんの記録を見る。


「前にロアの中を調べたとき、青と赤が残っていることは分かった。あのときは、赤の解析は途中で止めてる」


セレンの右手が、左腕の袖に触れた。


「赤の解析を続ければ、どうすれば赤を出せるのか、何か手掛かりが見つかるかもしれない」


私はセレンの左腕を見る。


「でも、解析したら石化が進みますよね」

「ああ」


以前、ロアの中を調べたときにも、左腕の石化は少し進んだ。


「今まで何度か試した感じだと、石化の進み方は毎回同じじゃない。解析する量か時間か、対象がどれくらい複雑かで変わるんじゃないかと思ってる」


セレンは左腕を見た。


「だから、赤を最後まで解析したら石化がどこまで進むのかは、やってみないと私にも分からない」


ロアがセレンを見る。


「町長に返事をする前に、赤の解析をするかどうかを決めないとな」

「そうだね」


セレンは、すぐに解析を始めようとはしなかった。

文香さんは、緑には赤が通るという調査結果を残してくれた。


その赤は、今もロアの中に残っている。

けれど、どうすれば使えるのかはまだ分からない。


赤を使う方法を探るために解析をするなら、セレンにその負担を負ってもらうことになる。町を助けるためだからといって、セレンに解析の続きを頼んでいいのか。私には決められなかった。


その夜、町長に何と返事をするのか、私たちは決められないままでいた。


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