第9話 フォリア
最後の記録を読み終えても、文香さんがこのあとどこへ向かったのかは分からなかった。休憩所の机には、数日分の調査記録が広げてある。
世界樹の北側、川沿い、南西の林。文香さんは場所を変えながら緑を観測し、色譜盤で反応を確かめていた。その結果として残されていたのが、「緑には赤が通る」という記録だった。
セレンは紙を日付順に並べ直していたが、途中で手を止めた。
「……待って」
「どうしたんですか?」
「エルディンの言っていたことと、この記録は少し合わないね」
セレンは二枚の紙を私の前へ置いた。
「あいつは、『文香は、君たちが立ち入れないところに行った』と言った。私が世界樹へ行ったのかと聞いても否定しなかったし、あいつ自身も世界樹と同じ方向へ歩いていった」
私も覚えている。
あの言葉を聞いて、私たちは文香さんが世界樹へ向かったのだと思った。
「でも、この記録を見る限り、文香は世界樹の周辺を何日も調べてる。世界樹そのものを調べた記録は一つもない」
「じゃあ、エルディンは嘘を言ったのか?」
ロアが聞いた。
「そこまでは断言できない。この記録を書いたあとで、文香が世界樹へ向かった可能性もあるからね」
セレンは紙を一枚取り上げた。
「ただ、今後文香を探すなら、あいつの言葉をそのまま信じて行動するのはやめた方がいいかな。私たちが世界樹へ向かうと分かっていて、ああいう言い方をした可能性もある」
森で会ったエルディンを思い出す。
緑に変わった地面を避けることなく歩いていた。
王都では王国宰相を名乗っていたはずなのに、王城ではそんな人物はいないと言われた。セレンも顔も名前も思い出せなかった一方で、港にはエルディンの乗船記録は残っていた。
左手首には、三本の黒い線と円弧のような文様もあった。
「私たちを世界樹へ向かわせたかったんでしょうか」
「分からない。文香がどこにいるのか、あいつがどこまで知ってるのか。それも分からない」
セレンはそれ以上、エルディンについて話さなかった。
ロアが机の上の記録を見る。
「結局、文香の行き先は分からないままか」
「ああ。この記録だけじゃね。まだ森のどこかに別の記録を残してるかもしれないけど、当てもなく探すには森は広すぎる」
セレンは私とロアを見た。
「君たちも疲れてるだろ。一度ミレヴァへ戻ろう」
世界樹まで行き、緑の始原に襲われて逃げてきた。そのあとも、文香さんの痕跡を探して森を歩き回った。
私も一度、町へ戻って休みたかった。
外に出ていたリリカが戻ってきた。
「どうするか決まった?」
「一度、ミレヴァへ戻ることにする」
「分かった」
リリカはすぐに頷いた。
「ロアが作った道も、そのまま残ってるだろうし。行きみたいに道を確保しながら進まなくていい分、帰りは楽になると思う」
ロアが緑を奪ったのは、私たちが通ってきた道のうち、侵食されて進めなくなっていた場所だ。
その道をそのまま戻ればいい。
私は文香さんの記録をまとめ、鞄へしまった。
◇
帰りはリリカが先頭に立った。
道標や休憩所を確かめながら南へ進み、緑に塞がれていたところでは、行きにロアが切り開いた道を通った。
世界樹から離れるにつれて、森の様子も少しずつ変わっていく。
世界樹の近くでは道の両側まで緑に覆われていたが、何日か歩くうちに、灰色の地面や木々がそのまま残っている場所が増えてきた。
ある日の休憩中、リリカが地図を広げて言った。
「行くときは通れる道を探すのに必死だったけど、戻ってくるとよく分かるね」
「何が?」
「世界樹に近いほど、森の侵食はひどかった」
リリカは地図の上で、世界樹のある方角からミレヴァまで指を動かした。
「ミレヴァの近くじゃ、普通に通れる道の方が多い。でも奥へ行くほど、前に使えてた道も通れなくなっていた」
リリカは以前から、この森でガイドをしている。
「今までは世界樹の近くまで行ったことがなかったから、どこから侵食が広がってるのかまでは分からなかった」
指が地図の中心で止まる。
「今回、世界樹の近くまで行って、侵食があそこから外へ広がってるんじゃないかって、初めて思った」
セレンも地図を見る。
「町には報告した方がよさそうだね」
「うん。世界樹のことも全部報告するよ」
リリカは地図を畳んだ。
「このまま侵食が森の外へ広がるなら、ミレヴァにも関係するからね」
休憩を終え、再び南へ向かった。
◇
二週間以上かけて森を抜け、ようやくミレヴァの北門をくぐった。
町の中は、出発したときとほとんど変わっていない。
人が通りを行き来し、店の前には荷車が止まっている。森の奥で見てきた緑も、まだここまでは届いていなかった。
リリカは宿へ向かわず、そのまま町の中へ進んだ。
「先に町長のところへ行く」
「今からですか?」
「うん。世界樹と緑の侵食のことを一刻も早く伝えたい」
森のガイドをしているリリカにとって、放っておける話ではない。
私たちも一緒に町長のもとへ向かった。
町長のもとへ着くと、リリカは森で見てきたことを順に話した。
以前は通れた道が緑に覆われ、通れなくなっていたこと。
世界樹へ近づくほど緑の侵食が激しくなっていたこと。
そして、世界樹そのものが動いたこと。
「地面から何本も根が出てきて、私たちを襲ってきた。全員、その根から逃げ戻ってきたんだよ。それから世界樹の近くにいると、体がどんどん重くなっていくように感じた」
黙って聞いていた町長が顔を上げた。
「世界樹が……人を襲ったのか?」
「そうだよ。あそこにあのままいたら、戻ってこられなかったと思う」
町長はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく名前を口にする。
「フォリアが……」
「フォリア?」
私が聞くと、町長はこちらを見た。
「世界樹の名前だ。この大陸では、昔からそう呼ばれてる」
フォリア。
私たちは、これまで世界樹としか呼んでいなかった。
「昔から、北の穀倉地帯も南の牧草地も、フォリアの恵みを受けていると言われてきた。この大陸で暮らす者にとっては、ずっとそういう存在だったんだ」
町長は腕を組んだ。
「だから、フォリアが人を襲ったという話は、すぐには信じられない。だが……」
少し考えてから続ける。
「ここ数年、北では穀物の収穫が落ちてる。最初は天候のせいだと思われていた。だが、翌年になっても収穫は戻っていない。南も牧草の育ちが悪くなってる」
「森で通れない場所が増え始めたのも、その頃からだよ」
リリカが言う。
町長の表情が険しくなる。
「全部、同じ頃から始まったのか……」
話を聞いていた町の者たちも黙っていた。
「私は、森を侵食しているのは世界樹だと思う。近づくほど、侵食が明らかにひどくなってたからね」
「それなら……この町もいずれ同じようになるのか?」
町の者の一人が聞いた。
「森の侵食は徐々に外へ広がっていた。いつミレヴァまで届くかは分からないよ。ミレヴァだけ避けてくれるとは思えないし」
しばらく誰も口を開かなかった。
やがてリリカが、私たちの方を向く。
「ユイナたち。何とかできない?」
「え……」
「あなたたちは世界樹まで行って、戻ってくることができた。ロアがいれば、緑に塞がれた場所も進める。それに、世界樹がどうやって人を襲うのかを一度見てる」
私はすぐには答えられなかった。
町長も私たちを見る。
「私たちじゃ、世界樹のところまで行くことさえ難しい。だが、このまま侵食が広がってくるなら、何もしないわけにもいかない。無茶を言ってるのは分かってるが」
町長はまっすぐこちらを見ていた。
「この侵食を止められる可能性があるなら、力を貸してほしい」
近くにいた町の人たちも、私たちを見ている。
私はセレンとロアを見た。
二人とも、すぐには返事をしなかった。
私たちは文香さんの記録から、緑には赤が通ることを知ったばかりだ。
けれど、どうすれば赤を使えるようになるのかは分かっていない。
「……今ここでは答えられません」
私は町長に言った。
「少し、考えさせてください」
町長はしばらく私を見てから、頷いた。
「ああ」
◇
宿へ戻ってからも、町長への返事は決まらなかった。
部屋の机に、文香さんの記録をもう一度広げる。
ロアが一枚を見ながら言った。
「緑には赤が通る」
「はい」
ザロスから奪った赤がロアの中に残っていることは、フィリナへ向かう前にセレンが確認している。問題は、その赤をどうやって使うかだ。
「世界樹にガラスペンを向けたときは、青が出ましたよね」
「ああ」
セレンが頷く。
「アルディナの図書館で試したときも、ザロスと戦ったときも青だった」
「俺は何を出すか選んではいない」
ロアが言う。
「出そうと考えるだけだ」
私は腰のガラスペンを見る。
世界樹へ向けたときも、赤を出そうとしたわけではない。ロアから出てきた色を、そのままガラスペンへ引き寄せただけだ。
「じゃあ、どうすれば赤を出せるんでしょうか」
「それは、分からない」
セレンは文香さんの記録を見る。
「前にロアの中を調べたとき、青と赤が残っていることは分かった。あのときは、赤の解析は途中で止めてる」
セレンの右手が、左腕の袖に触れた。
「赤の解析を続ければ、どうすれば赤を出せるのか、何か手掛かりが見つかるかもしれない」
私はセレンの左腕を見る。
「でも、解析したら石化が進みますよね」
「ああ」
以前、ロアの中を調べたときにも、左腕の石化は少し進んだ。
「今まで何度か試した感じだと、石化の進み方は毎回同じじゃない。解析する量か時間か、対象がどれくらい複雑かで変わるんじゃないかと思ってる」
セレンは左腕を見た。
「だから、赤を最後まで解析したら石化がどこまで進むのかは、やってみないと私にも分からない」
ロアがセレンを見る。
「町長に返事をする前に、赤の解析をするかどうかを決めないとな」
「そうだね」
セレンは、すぐに解析を始めようとはしなかった。
文香さんは、緑には赤が通るという調査結果を残してくれた。
その赤は、今もロアの中に残っている。
けれど、どうすれば使えるのかはまだ分からない。
赤を使う方法を探るために解析をするなら、セレンにその負担を負ってもらうことになる。町を助けるためだからといって、セレンに解析の続きを頼んでいいのか。私には決められなかった。
その夜、町長に何と返事をするのか、私たちは決められないままでいた。




