第2話 森の侵食
リュミエ港を出て二日目の午後、馬車はフィリナ大陸の内陸を走っていた。
海はとうに見えなくなり、窓の外には畑と丘が続いている。
向かいの席では、セレンが膝の上に地図を広げていた。
「もうすぐ分かれ道だ。そこからミレヴァの町までは遠くない」
地図を畳み、鞄へしまう。
ロアは朝から窓の外を眺めていた。私も同じ方へ目を向ける。
馬車が木立のそばを通った。
「あれ?」
灰色の枝の間に、緑の葉が見えた気がした。
振り返ったときには、木立はもう遠ざかっている。
「どうした?」
「今、緑の葉がありました」
「俺も見た」
次の木立が近づいてきた。
今度は窓際へ寄って見ていると、こちらにも緑の葉が混じっている。
セレンが身を乗り出した。
「どれだ?」
「あそこです」
私が指した先を見て、セレンが目を細める。
「……これが緑か」
木立を通り過ぎても、セレンはしばらく後ろを見ていた。
街道を進むうちに、同じ色を何度か見かけた。
道端の草の中や、木の枝先。
最初は探さなければ気づかないほどだったが、一度見つけてからは、次はどこにあるだろうと窓の外を探していた。
やがて街道が分かれ、馬車はミレヴァへ向かう道へ入る。
丘を越えたところで、ロアが窓の外を指した。
「町が見えたぞ」
畑の向こうに石壁があり、その内側に家が集まっている。
「ミレヴァだな」
セレンが言った。
丘の上からは、町のさらに先まで見渡せた。
その向こうに、広大な森が広がっている。
「……あれが世界樹の森ですか?」
「ああ」
思っていたより、ずっと大きい。
森はどこまでも続き、終わりが見えない。
私は森の中央の方へ目を移した。
「緑……」
森の奥が、途中からはっきりと色を変えている。
街道沿いで見た葉のように、探さなければ分からない程度ではない。丘の上からでも、その範囲が見て取れた。
「かなり奥ですね」
セレンがもう一度地図を開いた。
「世界樹があるのは、この辺りだ」
指が大森林の中央で止まる。
緑に見えているのも、おおよそその辺りだった。
私は森へ目を戻した。
世界樹そのものは、ここからでは見えない。
馬車が丘を下り始めると、やがて大森林も建物の陰へ隠れていった。
◇
宿に荷物を置いてから、私たちは町へ出た。
リュミエ港で聞いた話では、文香さんはここミレヴァへ向かっている。
まずは町の宿を回った。
一年前の宿泊者名簿も見せてもらったが、文香さんの名前はない。
私と同じ髪の色に眼鏡、私と似た肌の女性を覚えていないかとも聞いたが、手掛かりはなかった。
泊まらずに町を通り過ぎたのかもしれない。あるいは、まだ調べていない宿に泊まった可能性もある。
今度は、森へ向かう旅人が立ち寄りそうな店を回ることにした。
食料品店、道具屋、旅人向けの商品を扱う店。
文香さんの特徴を伝えても、店主たちは揃って首を横に振った。
何軒か回ったところで、セレンが言う。
「エルディンのことも聞いてみよう」
「そうですね」
「文香はエルディンを追っていた。ここへ来たのなら、エルディンも来ていた可能性がある」
次に入った店で、セレンが店主に尋ねた。
「一年くらい前に、エルディン・レイヴァという男が来なかったか?」
店主は首を傾げる。
「名前だけじゃ分からんな」
「なら、これは?」
セレンが鞄から紙を取り出した。
右手でペンを持ち、エルディンの手首の文様を書いた。
「左手首の辺りに、こんな紋様がある男だ」
店主が紙をのぞき込む。
「妙な印だな」
「見覚えは?」
店主は少し考えたあと、店の奥へ顔を向けた。
「おい。前に、変わった印のある客が来なかったか?」
荷物を整理していた男が振り返る。
「どんな?」
店主が紙を持っていく。
男は受け取り、しばらく眺めた。
「……似たようなのなら覚えてる」
セレンが近づく。
「その男について、覚えてることを教えてくれ」
「そうだな……森のことを聞かれたかな」
「森の何を?」
「世界樹の場所だよ」
男は紙を見ながら続ける。
「町からどう行けばいいって聞かれた。ずいぶん奥だから、行くならガイドを雇って、準備してからにした方がいいとは言ったんだけどな」
「ガイドが必要なのか?」
「ああ。森に慣れてないなら、一人じゃまず迷う」
「そのあと、その男がどうしたかは?」
「それっきり見てないよ」
セレンが紙を受け取った。
「ありがとう」
店を出ると、ロアが言った。
「エルディン本人の可能性が高そうだな」
「ああ。一年前に世界樹へ行こうとしていた男で、手首の印も似てる。調べる価値はある。文香の情報は見つからないしね」
私は町の北側を見る。
建物が並び、その向こうにあるはずの大森林はここからでは見えない。
「森に入るなら、ガイドを探した方がよさそうですね」
「ああ」
セレンが店を振り返る。
「紹介できる人間がいないか聞いてくる」
ほどなくして戻ってきた。
「リリカって女がいるらしい。森の案内を仕事にしてる」
◇
教えられた建物は、町の北側にあった。
扉を開けると、一人の女が机の上で双眼鏡の手入れしていた。
灰色の肌に短い髪。後ろで小さく一つに結んでいる。
細身だが胸元は豊かで、前の開いた服の上に軽い外套を羽織っていた。
壁には弓と矢筒が掛けられ、その横には長い杖が立てかけてある。腰にはナイフも下げていた。
「君がリリカか?」
「そうだけど」
「世界樹の方へ行きたいんだ。案内を頼みたい」
リリカは双眼鏡を机に置いた。
「世界樹まで行くつもり?」
「できればね」
「そこまでは案内できないよ」
リリカは壁から地図を外し、机に広げた。
「この道から森に入る。途中に休憩所がいくつかあって、今あたしが連れていけるのはここまで」
指が、町と世界樹の中間付近にある休憩所の印で止まる。
「町からそこまで、だいたい二週間。天気が悪けりゃ、もう少しかかる」
セレンが地図をのぞき込む。
世界樹は、そこからさらに先にあるらしい。
「この休憩所より先には行けないの?」
「今はね」
リリカがその休憩所から先を指でなぞった。
「前はもう少し先まで行けたんだけど、年々、森の侵食が広がってきてるの。あたしが最後に見に行ったときは、この辺りまで広がってた」
「侵食って何?」
私が聞くと、リリカは窓の外を指した。
「町へ来る途中に見なかった? 森の奥だけ変な色になってたでしょ。元は全部普通の色だったらしいんだけど、だんだんああなってきてるの」
「緑のことを言ってるんですね」
「緑って何?」
「森の色が、私の髪みたいな色になってるんですよね」
「そうそう。森とは少し違うけど、近いね」
リリカは私の髪を見たが、それ以上気にする様子もなく地図へ目を戻した。
「その先が今どうなってるか、確認できてない。だから客も連れていけない」
「なら、行けるところまででいい」
「さっきも言ったけど、そこまでだと往復で一か月近くかかるけどいい?」
「構わない。料金は?」
リリカが金額を告げる。
セレンは少し考えてから頷いた。
「それでいい」
「じゃ、決まりだね」
「私はセレン。こっちはユイナとロア」
「私はリリカ。よろしくね」
セレンが壁に掛かった弓を見る。
「それも持っていくのか?」
「うん。虚が出たら使うよ」
「虚?」
リリカがセレンを見る。
「あんた、虚を知らないんだ。都会育ちとか?」
セレンは虚を知らない。
私はセレンに虚について説明した。
リリカは弓を壁から外し、弦を確かめる。
「虚だけじゃなくて、獣を狩るときにも弓は使う。近ければナイフね」
「それは頼もしいな」
「森では自分の身くらい守れないとガイドなんてできないよ」
セレンが頷いた。
「明日出られるか?」
「いいよ。朝、北門に来て」
リリカは今度は私たちの荷物に目を向ける。
「食料はどのくらい持ってる?」
「港で買ったんですけど、少ししかありません」
「二週間歩くには足りないね。なるべく日持ちするものを買い足しておいて」
「往復一か月分ですか?」
「そこまではいらないよ」
リリカが地図を開き直し、途中にある川と沢を示す。
「水はここで補給できる。木の実や食べられる野草もあるし、運がよければ獣も狩れる。川で魚も捕れるから、釣り竿も持っていこうか」
「釣りか。やったことないな」
ロアが言った。
「教えてやるよ。ただ、雨が降ると狩りも釣りもできないし、移動できない日もあると思う。だから何日か分は余分に持っていく」
「分かった」
「休憩所には寝床があるだけで食料はないからね」
セレンが立ち上がる。
「必要なものは今日のうちに揃えよう」
「じゃあ、明日の朝ね」
建物を出ると、ロアが店の並ぶ通りを見る。
「食料を買い足すか」
「ああ。野宿することもあるだろうから、雨具やテントも揃えよう」
靴はアルディナを出る前に、長旅用のものへ替えてある。
あとは食料と、森を進むための道具だ。
「行きましょう」
私たちは店の並ぶ通りへ向かった。
明日の朝、リリカの案内で世界樹の森へ入る。




