第8話 灰色の傷
ザロスが大剣を拾い上げる。
左脇には、さっきまで赤に埋もれていた塊が見えている。
さっきロアが周囲を削ったことで、輪郭まではっきり見えるようになった。
ザロスの体を覆っている赤とは別の何か、それはまだ形を保ったままだ。
「あれって、ザロスの核みたいなものじゃないでしょうか」
「ああ」
ロアも同じ場所を見ている。
「あれを狙ってみます」
「試してみるか」
ザロスが動いた。
左腕が下がり、核を隠すように脇へ寄せる。
ロアはすぐに駆け出し、私は距離を取りながら右へ回る。
ザロスがロアに向かって、大剣を振り下ろす。
「ロア!」
剣が石畳に落ちる。石畳は割れ、砕けた石が跳ね上がる。
ロアはうまく剣をすり抜け、ザロスの懐に踏み込んだ。
右手を核に向かって伸ばすと、左脇を覆っていた赤がロアへ流れ始めた。
ザロスが左腕を振り回してきたが、ロアはぎりぎりで身を引いた。
巨大な腕がロアの目の前を通り過ぎる。
その下に、核がさっきより大きく露出していた。
「見えました!」
「撃て!」
私はガラスペンを向ける。
ロアから青がガラスペンへ集まってくる。
狙いを定めようとした瞬間、ザロスが突然こちらを向いた。
「ユイナ!」
大剣ではなく、ザロスの左腕が伸びてくる。
私はとっさに後ろへ跳んだ。
けれど、間に合わなかった。
ザロスの手が左肩をかすめ、服が裂け、鞄の紐が引きちぎれた。
「っ……!」
鞄が地面へ落ちて、中に入れていたものが、石畳の上へ散らばる。
私はよろめきながら右手を胸元へ引く。
ガラスペンは握っている。
でも左肩が痛い。
裂けた服の下に血が流れてくるのがわかった。
けれど、それだけではない。
傷の周りの肌から色が抜けていく。
灰色だ。
「ユイナ!」
「大丈夫です!」
左腕を上げようとしたが、力が入らない。
指先も痺れ、肩から上腕にかけて感覚が鈍くなっていた。
見間違いではない。
ザロスに触れられた場所から、色が奪われている。
大剣が持ち上がる。
「下がれ!」
ロアが私の前へ割って入った。
大剣が振り下ろされる前に二人で横へ走る。
腕を動かすたびに傷が痛む。
血が腕を伝っていくのがわかる。
「ユイナ、もういい。戻れ」
「嫌です」
ロアが振り返った。
「あそこまで削ったんです。今やめたら、また最初からかもしれません」
ザロスの左脇を見る。
赤は大きく削れ、核がほとんど露出していた。
ロアは私の肩へ目を向ける。
何か言おうとしたところで、ザロスが踏み込んできた。
「来ます!」
大剣が横へ振られる。
ロアと反対方向へ走った。
刃が石畳を削りながら通り過ぎる。
ザロスの動きは、最初に比べれば明らかに鈍っていた。
右腕も、背中も、左脇も、ロアが赤を奪った場所は回復していない。
そして私は、まだ動けるんだから逃げない!
ロアがザロスを引き付ける。
「次が最後だ」
「はい」
大剣を振り上げる。
ロアは正面から近づき、刃が落ちる直前に横へ抜ける。
ザロスの体がロアの方へ向いた。
そして左脇は私の方へ向く。
核が見える。
ロアはさらに踏み込み、左脇へ手を伸ばす。
残っていた赤がさらにロアへ流れていく。
「今だ!」
私はガラスペンでロアから青を引き出す。
何も来ない!
「え……」
もう一度。
何も来ない。
ロアが遠い!
ロアがザロスの向こう側まで回り込んだせいで、私との距離が開いている。
このままでは使えない。
ザロスがこちらを見る。
左腕が上がった。
ここで引いたら、ロアからもっと離れてしまう。
私は逆に一歩、前へ出た。
ザロスはこちらへ向かってくる。
もう一歩。
左肩が痛む。
腕はほとんど動かない。
それでも、右手のガラスペンだけは下ろさなかった。
あと少し。
ザロスの手が伸びる。
私はさらに踏み込んだ。
ガラスペンへ色が流れ込んできた。
青だ。
「来た……!」
ザロスの指が迫る。
今度は避けない。
左脇の核に向かってガラスペンを振った。
「ユイナ!」
青は核にぶつかった。
同時に、ザロスの左手が目の前まで迫る。
けれど、巨大な腕は、私の顔のすぐ前で止まった。
核の表面に亀裂が入った。
一本。
二本。
青が亀裂の中へ入り込む。
ザロスは左腕を地面へついた。
大剣からも手を離す。
巨体が傾いた。
片膝をつき、続いてもう片方の膝も落ちる。
「離れろ!」
ロアに右腕をつかまれ、数歩下がったところでザロスが前へ倒れた。
重い振動が足元まで伝わってくる。
私はガラスペンを握ったまま、倒れたザロスを見る。
動かない。
「倒した……?」
「まだ近づくないほうがいい」
私はその場に立ったまま待つ。
最初に崩れたのは右腕だった。
形を保っていた赤が細かく崩れ、石畳へ落ちていく。
背中、肩、胴と続けて砕けていく。
人の三倍ほどあった巨体が、少しずつ輪郭を失っていった。
けれど、すべてが崩れたわけではない。
「ロア!あれ」
「ああ」
崩れた赤の中に何かが残っている。
二人でゆっくり近づいた。
大剣の横を通る。
地面へ落ちた赤は、もう広がってこない。
ザロスが倒れていた場所に、人間ほどの大きさのものが横たわっていた。
「……人?」
頭。
肩。
腕。
脚。
人の形をしている。
けれど全身は赤で覆われていて、顔も見えない。
男なのか女なのかも分からなかった。
「ザロスの本体……でしょうか」
「分からない」
私は確認しようとしたが、ロアに止められた。
「触るな」
「はい」
動いているようには見えない。
私は左肩を押さえた。
戦っている間は気にならなかったが、さっきより痛みが強くなっている。
「先に傷を何とかしないとな。町へ戻るぞ」
ロアが言った。
「でも、これは」
「あとでリゼルと来た時に調べればいい」
私はもう一度、人の形をしたものを見る。
「……分かりました」
足元には、切れた鞄の紐が落ちていた。
ロアが散らばった中身を拾い、鞄へ詰め直してくれた。
「俺が持つ」
「ありがとうございます」
丘を離れる前に、もう一度だけ振り返った。
人の形をしたものが、崩れた赤の中に横たわっている。
私は右手にガラスペンを握り、ロアと並んで歩き出す。
丘を下り始めても、左肩の灰色だけは元に戻らなかった。




