第5話 赤の始原
壁に貼りつけられた一枚の紙。そこには、四行の文字が並んでいた。
あれは あかのしげん
なまえは ざろす
ちかよるな
文文
「……」
私は最初の行から声に出して読み上げた。
リゼルは言葉を挟むことなく、じっと耳を傾けている。最後まで読み切ると、紙を見たまま尋ねた。
「ザロスっていうのが……あの村を襲ったあれの名前なの?」
「そう書いてあります。 ……けれど、これを書いた人が何を調べてそう判断したのかまでは分かりません」
「あかのしげん、っていうのは?」
「『赤』は、たぶん色の名前です」
「色の名前? 濃いとか薄いとかじゃなくて?」
「はい」
リゼルはふと私の髪に目を向け、それから隣に立つロアを見た。
「もしかして……あんたたちの髪や肌が私たちと違うことと、何か関係している?」
「気づいてたんですか」
と思わず問い返すと、リゼルはあきれたように言った。
「そりゃ気づくよ。あんたたちの顔も髪も、私たちとはまるで違う。けれど、『普通じゃない』なんて言ったら気にするかと思って、何となく言い出せなかったんだ」
今まで触れてこなかったのは、気づいていなかったからではなく、リゼルなりの配慮だったのだ。
「その違いの一つが『色』なんです。私の髪は青緑色、ロアの髪は赤茶色と呼びます」
リゼルがロアの髪を見つめて言った。
「じゃあ……あかっていうのは、ロアの髪の色に似てるってこと?」
「はい。赤茶色という言葉通り、赤が含まれています。この紙を書いた人には、あのザロスという存在が、もっと鮮烈な『赤』に見えたのだと思います」
「……同じくらい濃く見えても、あんたの髪とロアの髪は違うってことか」
「そうです。それが『色』です」
リゼルは納得したようにうなずき、もう一度壁の文字へ視線を戻した。
「それで『あかのしげん』か……。で、『しげん』ってのはどういう意味だい?」
「分かりません……。ザロスの正体や本質を表す言葉だとは思うのですが、これだけではそこまでは分かりません」
腕を組んでいたロアが口を挟む。
「それを書いたやつが何者かは知らないが……なんでそんなことを知ってるんだ?」
「私にも分かりません。でも……それならなおさら、書いた本人から直接話を聞かないと」
私は紙の末尾に記された二文字を指さした。
「それと、ここです」
「もんもん?」
リゼルが、私の発音をそのままなぞるように呟く。
「人の名前か?」
「署名です。私はこの署名を使う人物を知っています……文字文香さんという画家で、自分の作品にはいつも『文文』と書き添えていました」
名字と名前から一文字ずつ取った、彼女独特の落款のようなものだ。
彼女の画集や展覧会で、私は幾度となくそのサインを目にしてきた。筆跡の崩し方は少し異なるものの、この二文字を見間違えるはずがない。
私は鞄を開け、北境の砦で見つけた紙を取り出した。
二枚の紙を並べると、文字の丸みも、行と行の間隔の取り方もよく似ている。
「同じ人が書いたものだと思います」
「やっと見つけたんだな」
並べられた紙を見ながら、ロアが言った。
「はい。文香さんは確実に、この村に来ていました」
本人に会えたわけではない。これがいつ書かれたものかも、今彼女がどこに向かったのかを示す手がかりもない。けれど――あの海を渡るという選択は、決して間違いではなかった。
北境の砦に残された手紙から追いかけてきた文字が、ついに文香さん本人の署名へと繋がったのだ。リゼルは二枚の紙を交互に見比べ、ぽつりと言った。
「そのフミカって人は……ザロスのことを知ってたんだね」
「みたいですね」
「なら、この村以外にも何か残してるかもしれないよ」
「私もそう思います」
「だとしたら、次はどこへ行く?」
ロアの問いに、リゼルは顎に手を当ててしばし考え込んだ。
「ネレイ港ではこんな文字を見た記憶はないよ。ガルダ村でも、私が見つけられたのはこれ一枚きりだ。……もっと情報を集めないとね。いっそ、大きな町へ行ってみるのも手かもしれない」
「大きな町、というと?」
「アルディナだ。この大陸で一番大きな都市でね。あそこには昔の王立図書館が残ってる。王家が途絶えてからは一般にも開放されていてね、古い文献ならそこへ行けば読めると思う」
アルディナ――港を出てすぐの分かれ道で、道標に刻まれていた名だ。
「そこへ行けば……『始原』についての記述が見つかるかもしれませんね」
「行くかどうかは、ここを出てから考えよう。長居する場所じゃないからね」
リゼルの言うとおりだ。倉庫の隙間から外を窺っても、ザロスの影はない。けれど、いつ戻ってきてもおかしくないのだ。
私は砦の手紙を畳み、鞄の奥へしまった。壁に貼られた紙には手を触れない。
「この紙はそのままにしておきます。私のように、読める誰かが訪れるかもしれないので」
「ああ、それがいい」
私たちは裏口隙間から倉庫を出た。
ロアが先に周囲の安全を確認し、私とリゼルがそれに続く。来たときと同じように畑の脇を通り、崩れかかった地面を避けながら、村へと続く道に戻った。
「次は、あんたの家だな」
ロアが言う。
「すぐ済むよ」
リゼルは村の中央へ向かった。
先ほど通り過ぎた小さな家は、戸が半ば外れたまま残っている。
リゼルは入口の前で足を止め振り返った。
「ふたりとも、外で見張っててくれないか。中を確かめてくる」
「一人で大丈夫なのか?」
「平気さ。自分の家だからね」
そう言うと、リゼルは傾いた戸をまたいで家に入った。
ロアが村の奥を見張る。私は邪魔にならないよう、入口の脇からそっと中を覗き込んだ。
壁際に倒れかかったままの椅子。奥の部屋には、小さな寝台がふたつ並んでいるのが見えた。床には割れた陶器の破片や、埃にまみれた衣服が散らばっている。
リゼルは迷わず、部屋の隅にある竈のそばへ歩を進めた。
そして、壁に打ちつけられた一枚の紙の前で足を止める。
「……まだそのままか」
リゼルのその言葉を聞いても、私には意味が分からなかった。
リゼルは紙の端に指先を触れ、それが壁から剥がれ落ちていないことを確かめる。
しばらく黙っていたあと、リゼルは絞り出すような声で、ぽつりと誰かの名を呟いた。
「グレン……フィン……」




