第3話 ガルダ村への道
翌朝、空が白み始めたころ、私とロアはネレイ港の北門へ向かった。
門の前には、港へ入ろうとする荷車の列がすでにできている。荷台に積まれているのは売り物ではなく、布袋や木箱、使い古された寝具ばかりだ。徒歩で門をくぐる人々の中には、泥のついた農具を大事そうに抱える姿もあった。
反対に、港から内陸へと向かう者の姿はほとんど見当たらない。
リゼルは北門の脇に立っていた。昨日と同じ外套を羽織り、小ぶりな布袋を背負って、腰には革袋をぶら下げている。
「時間どおりだね。水と食べ物はちゃんと持った?」
「はい。二人で二日分あります」
私が答えると、リゼルはロアの方へ視線を移した。
「そっちは……聞くまでもなさそうだね」
「日が暮れる前には着くんだろ」
「道が無事ならね。もし途中で『あれ』を見かけたら、村へ行くのはやめる。昨日話した通り、すぐに引き返すよ。いい?」
「ああ」
リゼルは、私にも確認するように視線を向けた。
「『あれ』を見つけたら、向こうに気づかれる前にすぐ引き返します」
「よし、じゃあ行こうか」
北門を抜けると、まっすぐ街道が内陸に向かって伸びていた。左右には草地と畑が広がり、崩れかけた低い石垣がぽつぽつと残っている。振り返るたびに、ネレイ港を囲む石壁と船の帆柱が少しずつ小さくなっていった。
街道には何本もの車輪跡が刻まれている。けれど、そのどれもが港へと向かう向きで、内陸へ進む新しい轍は見当たらない。
しばらく歩を進めると、前方に大きな岩が三つ並んでいる場所へ出た。道はそこで二手に分かれている。
「左がガルダ村。まっすぐ進むとアルディナへ続く道だよ」
リゼルは迷いなく左の道へ折れた。
分岐を過ぎると、街道の左右に畑が目立つようになった。道端には壊れた木箱や片方だけの靴が転がり、古い車輪跡を塗りつぶすように、無数の足跡が乱雑に重なっている。村から着の身着のままで逃げてきた人たちが残したものらしい。
少し先で、前を行くリゼルがふっと足を止めた。
街道が、そこで途切れていた。
足元の踏み固められた土も、二本の轍も、道端に沿っていた低い石垣も、そこから先には存在しない。目の前に広がっているのは、どこまでも平らな地表だけで、道と畑の境界さえ分からなくなっていた。
「……道がなくなってるね」
リゼルはその場にしゃがみ込み、
途切れた車輪跡を指で確かめた。ロアも隣に片膝をつく。
「前に村へ戻ったときは、まだ道はあった。こんな風にはなってなかったよ」
リゼルは立ち上がり、道のない平地を見渡した。本来ならまっすぐ街道が伸びていたはずなのに、先を見やっても道らしいものは見えない。目印になるような木や建物もなく、似たような地面が遠くまで続いている。
「ガルダ村はどっちの方角だ」
ロアが尋ねた。
「こっち」
リゼルは迷わず斜め左の方向を指さした。
「分かるのか?」
「何度も往復した道だからね。道そのものが消えても、方角まで変わるわけじゃないよ」
リゼルは振り返り、私たちを真剣な目で見つめた。
「ただ、私からはぐれたら、あなたたちは絶対に一人じゃ戻れなくなる。絶対に離れないでね」
「分かりました」
リゼルを先頭に、私たちは道なき土地へと足を踏み入れた。
足元には雑草がまばらに生え、乾いた細かな土が覗いている。かつて畑を区切っていたはずの溝も石垣も残っていない。
しばらく進んでから振り返ってみたが、街道が途切れていた場所はもう見えなくなっていた。周囲はどこを見渡しても同じ風景が広がっている。私とロアの二人だけだったら、港へ戻る正しい方角すら確信を持てなくなっていただろう。
リゼルは時折立ち止まり、後ろを振り返っては進む方向を少しずつ調整した。
「まだ先なのか?」
「もう少し。このまま進めば、ちゃんとガルダ村に出るはずだよ。村の方向さえ分かっていれば、道がなくても辿り着ける」
リゼルは再び静かに歩き出した。
やがて、何もなかった地表の向こうに、低い石の壁が見えてきた。その石壁向こうには、二本の浅い車輪跡がまっすぐに伸びている。
リゼルの歩調がわずかに速くなった。
「あった……ガルダ村へ続く道だよ」
石壁を過ぎると、踏み固められた街道が再び現れた。
振り返ってみても、私たちが渡ってきた場所に道はない。街道の一部分だけが、まるで丸ごと削り取られたように消えていたのだ。
「俺たちだけだったら、間違いなく迷子になってたな」
ロアが吐息混じりに言った。
「だから案内が必要だって言ったでしょ」
リゼルはそう返すと、ガルダ村へ続く街道を再び歩き始めた。
昼前、屋根の半分が落ちかけた小さな休憩小屋に行き当たった。三人で壁際に腰を下ろし、水筒の水と黒い塊を口にする。
「ガルダ村には、元々どれくらい人が住んでいたんですか?」
「百人は居なかったと思う。みんな畑仕事と家畜の世話で暮らしてた。町に売りに出せるような品は少なかったけど、自分たちが食べる分には困らない程度の普通の村だったよ」
リゼルは手に持った塊を小さく割った。
「いま港にいる人たちは、船に乗るまでの間、なんとか食いつながなければならない。だけど畑が残っていても戻れば『あれ』に襲われるから、残った作物を取りに戻る人も、もうほとんどいない」
リゼルは手に残った欠片を見つめた。
「私も一度だけ、逃げるときに置き忘れた物を取りに戻ったことがある。そのとき、共同倉庫で例の紙を見つけたんだ」
「村から逃げたときは……何があったんですか?」
「村の外の畑にいた人が『あれ』を見つけて、鐘を鳴らしたの。みんな着の身着のままで持てるものだけ持って、いま通ってきた道を港まで必死で走った」
リゼルは塊をさらに細かく砕いた。
「後から逃げてきた人ほど、何も持ってなかった。家の中に荷物を取りに戻った人もいたけど……その人たちの多くは、戻ってこなかった」
必死で門へ押し寄せた人々の姿が、ネレイ港での光景と重なった。私自身も、目を覚ましたあの森で虚に襲われ逃げ出してきたのだ。
「鐘を鳴らしてくれた人がいなかったら、もっと多くの人が逃げ遅れていたはず。だから……村に着いても、勝手に家の中へ入ったりしないでね。残されている物は、いつか持ち主が取りに戻るかもしれないから」
「分かりました」
「村を襲ったやつは見たのか」
ロアが尋ねる。
「私は見てない。ただ、戻ったときには壊れた家が増えていたから……また現れたんだと思う」
リゼルは残りを口の中に放り込み、立ち上がった。
「ここからは、話し合いながら歩くのはやめよう。声がどこまで届いちゃうか分からないから」
午後になると、街道の両側に民家に近い畑が見え始めた。支柱だけが虚しく並ぶ畑や、倒れた柵の隙間から伸び放題の雑草が覆い繁っている。人の気配どころか、家畜の鳴き声ひとつ聞こえない。
リゼルは何度も足を止め、街道の道を確かめた。大きな足跡のようなものは見当たらない。ロアも警戒を怠らず周囲を見回している。
道端に、石を積み上げた囲いが見えた。片側だけが崩れ落ち、薄く砕けた石粉が地面に広がっている。リゼルは囲いの前でしゃがみ込んだ。
「ここにはね、旅人が自由に飲める水がめが置いてあったんだ」
崩れた石のすき間に、割れた水がめが残っている。周りの土は完全に乾ききっており、水がこぼれた痕跡すらなかった。
「逃げた日には、もう壊れていたのか?」
「覚えてない……ここまで逃げてきたときは、後ろを振り返る余裕なんてなかったから」
ロアが街道の先へ視線を注ぐ。
「足跡はないな。今、この近くにいるかどうかは判別がつかない」
「村を無事に出るまでは注意を怠らないようにしよう」
リゼルは立ち上がり、静かに歩みを進めた。
やがて街道の先に、荒れ果てた畑と倒壊しかけた家々の屋根が見えてきた。
リゼルが道端の草むらに身を隠すようにしゃがみ込み、私たちにも低くなるよう手でサインを送る。三人で息を潜め、草の隙間から畑の向こうを伺った。
屋根の落ちた家。壁の半分がなくなった家。道に倒れ伏した柵。動く者の影はない。
「……あれがガルダ村だよ」
リゼルは立ち上がらず、村を指さした。
「共同倉庫は、あの大きな屋根の建物」
建物は残っていた。けれど、その手前だけ――家一軒分ほどの範囲で街道の土が白っぽい灰色に変色し、中央が浅く窪んでいた。
リゼルはしばらく村の様子を伺ったあと、草むらからそっと街道へと這い出た。
私とロアも姿勢を低く保ったまま、その後に続いた。




