第1話 逃れる人々
船に乗って二日目の朝、周囲にはただ果てしない海だけが広がっていた。
空も海も同じような灰色で、霞んだ水平線が一本の直線となってどこまでも続いている。船体が大きな波に持ち上げられるたび、足下の甲板がゆっくりと大きく傾いた。
私は手すりを両手で固く握りしめ、足の裏に力を込める。
初日に比べれば船の揺れには少し慣れてきた。それでも、ふと視線を海面に向けると気分悪くなる。
「……飲むか」
不意に隣へやってきたロアが、水の入った革袋を差し出してきた。
「……ありがとうございます」
受け取り、少しずつ口に含む。冷たい水が喉を通っていくと、こみ上げていた不快感が幾分か和らいでいった。
ロアは激しく揺れる甲板の上でも、普段と変わらない足取りで静かに立っている。私は何度も足を滑らせて体勢を崩しかけたというのに、彼は手すりに触れることすらない。
船首の方では、船員たちが帆を見上げながら、掛け声とともに太い綱を引いていた。ほかの乗客たちは甲板の隅に小さく座り込んでいるか、船室の奥へ引き上げてしまっている。
目的地であるルヴェリア大陸の西岸までは、順調にいけば三日。
あと一日、この灰色に沈む海を進み続ければ、向こう岸へ到着するはずだ。
昼を少し過ぎたころ、船首の見張り台にいた船員が声を上げた。
前方に、別の船の影が見える。
私たちの乗っている船よりも一回り大きく、二本の高い帆柱を持った船だ。東から西へ向かって、私たちとは真逆の方向へ進んでいる。
距離が縮まるにつれて、向こうの甲板に大勢の人がひしめき合っているのが見えた。
船の縁に沿って隙間なく腰を下ろし、中央の狭いスペースにも肩を寄せ合うようにして人が集まっている。大きな荷物を抱えている者はほとんどいない。小さな袋を一つだけ抱え込んでいる人や、薄い毛布に包んだ子供を胸へ抱く母親の姿が目立った。
向こうの船から、合図の旗が引き上げられた。
こちらの船員もすぐに応答の旗を掲げる。二隻の船は速度を落とすことなく、一定の距離を保ったまま静かにすれ違った。
向こうの甲板に並ぶ人々が、無言でこちらを見つめている。
誰一人として声を上げる者はいない。
すぐ目と鼻の先を通り過ぎていくというのに、聞こえてくるのは波が船体を叩く音と、風に膨らむ帆が鳴る音だけだった。
「ネレイから来た船だな」
甲板の壁際に腰を下ろしていた男が、ぽつりと呟いた。手元に置かれた大きな荷物の脇には、商人であることを示す木札が添えられている。
「最近は、ああいう船が増えた。向こうへ荷を運んでは、人間を乗せて戻ってくるんだ」
男は小さくなって遠ざかっていく船の影を、冷めた目で見送った。
「内陸の村がいくつも駄目になったらしい。住んでいた連中がネレイの港へなだれ込んで、船賃を払える者から順番に大陸を出ていっているのさ」
私は、さっきすれ違った甲板の人々の姿を思い返した。
家財を運び出しているようにはとても見えなかった。着の身着のままで飛び出し、持てるだけの荷物だけを握りしめて、逃げるように船へ乗ったのだろう。
私たちは今、その人たちが捨てて逃げてきた場所へと向かっているのだ。
「行ってみればわかる」
隣で海を見つめていたロアが言った。
「……はい」
ルヴェリアへ渡ったという女が、、いつ海を渡ったのかは分からない。
その人が到着した時点ですでにルヴェリアが危険な状態だったのか、それとも彼女が着いた後に何かが起きたのかも、今の私たちには確かめようがない。
けれど、ここで足を止める理由にはならない。
「港に着いたら、まず手掛かりを探します。見つからなければ……そのとき、次の行動を考えます」
ロアは再び、果てしない海の向こうへと視線を戻した。
「分かった」
翌朝、甲板に響き渡る船員たちの荒々しい声で目を覚ました。
急いで甲板へ上がると、進行方向の視界にうっすらと陸地の影が見え始めていた。
海岸沿いには削り取られたような切り立った岩場が連なり、その奥には背の低い山並みがどこまでも続いている。ルセア港の周辺と比べると木々の姿は乏しく、乾燥した地面の多くが痛々しくむき出しになっていた。
船が大きな岩場をゆっくりと迂回すると、灰色の石壁と、密集する無数の帆柱が視界に飛び込んできた。
ネレイ港だ。
港の外側にまで何隻もの船が列をなし、岸壁へ接岸する順番をじっと待っている。私たちの船もゆっくりと帆を畳み、近寄ってきた小さな船へ太い綱を渡した。
船体が滑るようにして岸壁へ近づいていく。
立ち並ぶ倉庫や行き交う荷車の隙間には、荷物を抱えた大勢の人々が溢れかえっていた。建物の軒下には薄い毛布が敷かれ、力なく座り込んでいる家族の姿がいくつもある。港で働く作業員でもなければ、船の荷積みを待っている客でもない。
内陸から逃げ延びてきた避難民たちだろう。
船が静かに岸壁へ着岸すると、渡された太い板を乗客たちが順番に渡っていく。
私とロアも自分の荷物を抱え、慎重に船を下りた。
岸壁の出口付近には簡素な机が置かれ、役人らしき男が到着した人数を淡々と帳面へ記録していた。ロアが木札を手渡すと、男は手慣れた手つきで二人分の印を書き加える。
私は男へ尋ねた。
「不思議な色をした女の人を、以前ここで見かけませんでしたか」
「不思議な色?」
男が帳面から顔を上げ、私を見る。
私は”不思議な色”をうまく説明できなかった。でも、自分の肌や髪を見せる気にはなれず、鞄の奥から、砦で見つけたあの紙を取り出した。
「これは、その人が書いたものだと思っています。女の人か、この字のどちらかに見覚えはありませんか」
男は紙を受け取り、そこに記された二行の独特な文字に目を向けた。
「読めんな。船の客なら港の台帳に名前が残っているかもしれんが、こんな文字で記録された名前なんて見たことがない」
ルセア港で得たのは、この文字を使う女がルヴェリアへ渡ったという話だけだ。
砦に残された紙も同じ文字だった。それまで追ってきた不思議な色をした女が、この紙を書いたのだと私は考えている。けれど、二つを結ぶ証拠はない。
男から紙を受け取り、諦めかけて引っ込めようとしたとき、背後から不意に声がした。
「その字なら、見たことがあるよ」
振り返る。
そこに立っていたのは、小柄な一人の女性だった。
おさげにした髪と、頬に散った小さなそばかす。背丈だけを見れば少女のようにも思える。けれど、私たちを真っ直ぐに見つめる強い眼差しと落ち着いた声には、子供らしさは微塵もなかった。
女性は私の手にある紙を指で指し示した。
「同じ字を、ガルダ村で見かけた」
彼女は少しだけ言葉を切り、港のあちこちに力なく座り込む人々へ静かに視線を向けた。
「……まあ、もう村とは呼べない場所だけどね」




