第9話 二人分の切符
「次にルヴェリアへ向かう船は、いつ出ますか」
尋ねると、年配の男は視線を薄暗い倉庫の外へと向けた。
「明日の朝だ。西岸の港まで三日はかかる。乗るつもりなら、今日のうちに切符を買っておくんだな」
「切符はどこで買えますか」
「岸壁を南へ進んでみな。人が並んでる窓口が見えるはずだ。行けばすぐに分かる」
「ありがとうございます」
丁寧にお礼を言い、私は砦で見つけた一枚の紙を大切に袋へと戻した。
倉庫を一歩出ると、木箱を山積みにした荷車がガタゴトと音を立てて目の前を横切っていく。その向こうの港には、帆を畳んだ船が何隻も波に揺られていた。
あの不思議な色をした女も、この海を渡ったのだ。
私と同じ文字を書き、紙の束を抱えてルヴェリアへと向かったという。たとえ彼女本人に追いつけなくても、何か痕跡が残っているかもしれない。あの砦に残されていたメモのように、私にも読める言葉が。
隣で、ロアが腰袋へ報酬の硬貨を放り込む音が聞こえた。
「……行くのか」
「はい」
迷うことなく、即座に答えていた。
「だいぶ前に渡ったのなら、もういないかもしれない」
「それでも行きます。ここに残っていたって、これ以上の手掛かりはないですから」
「そうか」
ロアは視線を、船の並ぶ岸壁の方へと巡らせた。
返ってきた言葉は、それだけだった。
私がルヴェリア行きを決めたからといって、ロアまで海を渡らなければならない理由はない。これまで砦へ向かい、この港まで来られたのは、彼に依頼の仕事があったから一緒にいられただけに過ぎないのだ。
そしてその仕事は、たった今終わった。
「ロア」
「何だ」
「少し、話してもいいですか」
ロアがゆっくりとこちらを振り返る。
「ここじゃ邪魔になるな。歩きながらでいいか」
「はい」
行交う荷揚げの人々を避けながら、私たちは岸壁に沿って南へ歩き出した。前方には、切符売り場に並ぶ人の列がうっすらと見えている。距離はそう遠くない。
今のうちに話さなければ、ロアは迷わず一人分の切符だけを買ってしまうかもしれない。焦りが胸を締め付ける。
「私は、ルヴェリアへ行きます」
「さっき聞いた」
「……その、先の話です」
言葉を選びながら進むうちにも、切符売り場との距離は着実に縮まっていく。
「海の向こうに何があるのか、私には何も分かりません。この世界の文字だって読めないし、一人じゃできないことばかりです」
「だから、俺に来てほしいのか」
「はい。……でも、ただ助けてほしいからじゃありません」
ロアが不意に足を止めた。
私も立ち止まり、真っ直ぐに彼の顔を見つめ返す。
この世界へ落ちてきたばかりの頃、私はロアが何を考えているのか全く分からなかった。人から色を奪い、私の腕からも色を消した。怖くてたまらなくて、何度も逃げ出そうと考えた。
それでも、今日まで二人で歩いてきたのだ。
町では私が目立たないようさり気なく気を配り、私が疲れ果てて歩けなくなれば黙って待っててくれた。危険な場面ではいつも前に立ち、世界のことを知らない私に必要な事を教えてくれた。あの青い何かと対峙した時でさえ、ロアは私を置いて逃げることはしなかった。
「一人でも行かなきゃいけないって、分かっています。でも……できるなら、一人で行きたくはないんです」
ロアは何も言わず、静かに私の言葉を聞いている。
「これからも、ロアと一緒に旅がしたい」
胸の奥にある想いを吐き出すと、ぎゅっと握りしめていた手に爪が食い込んでいた。
「だから……私と一緒に、海を渡ってくれませんか」
潮風の音だけが二人を包み、すぐには返事が返ってこなかった。
すぐ近くで荷車の車輪が軋む音が響き、船員たちが声を張り上げて積み荷を数えている。岸壁の下からは、絶え間なく打ちつける波の音が聞こえていた。
ロアは視線を外し、遠い海の向こうを見つめた。
「青いやつから奪った色は、まだ俺の中に残っている」
「……はい」
「お前のペンならそれを使えることがわかった」
「でも、あの青いやつには通じませんでした」
「だが、虚には通じた」
「理由は、分かりません……」
「俺にも分からん」
ロアがふっと息を吐き、再び私に向き直った。
「向こうで確かめてみたい。青が効かなかった理由と、似たような奴がほかにもいるのかどうかを」
それが、ロアにとって海を渡らなければならない本当の理由ではないことくらい、私にも分かっていた。私が無理に連れていくのだと思わせないように、彼なりの優しさで話してくれているのだ。
「それじゃあ……」
「俺も行く」
聞き間違いではないかと、思わずロアの顔を凝視した。
「本当に……来てくれるんですか?」
「ああ」
「ルヴェリアまで?」
「そのつもりだ」
視界が不意に熱いもので滲み、ロアの顔がぼやけていく。
一人で船に乗らなくてもいい。
あの見知らぬ海の向こうでも、隣にはロアがいてくれる。
「よかった……」
頬を伝い落ちる涙を拭うことさえ忘れ、私はロアの胸へと抱きついていた。
ロアの両腕がわずかに持ち上がったのが分かった。けれどその腕が私の背中に回ることはなく、戸惑うように空中へ止まる。
「……ありがとうございます」
「分かったから、離れろ」
「すみません……」
身体を離し、慌てて袖で涙を拭うと、ロアは気まずそうに私から視線をそらした。
「切符を買うぞ」
「はい!」
切符売り場には、十人ほどの客が列を作っていた。
自分たちの順番が来ると、ロアが窓口の男へ向かって行き先を告げる。
「明日のルヴェリア行きだ」
「何人だ?」
ロアは私を見ることなく答えた。
「二人だ」
手渡された二枚の木札を、一枚ずつ受け取る。刻まれた文字は私には読めない。けれど、この二枚の札こそが、二人で海の向こうへ渡るための確かな証拠だ。
その夜は港の近くにある小さな宿に泊まり、翌朝、空が白み始める前に私たちは岸壁へと向かった。
船の周囲では、すでに活気ある積み込みの作業が始まっている。大きな樽や木箱を抱えた男たちが、岸壁と甲板の間を何度も慌ただしく往復していた。
木札を船員に手渡し、船へと渡された細い踏み板を渡る。足元から波を受けるたびに、板がぐらぐらと大きく揺れた。
甲板に上がると、そこには大きな荷物を抱えた家族や、腰に剣を差した男たちがひしめき合っていた。私は船縁に寄りかかり、港町を見つめた。
船員の威勢のいい合図とともに、岸壁に繋がれていた太い綱が解き放たれる。巨大な帆が風を孕んで大きく広がり、船は滑るように岸から離れていった。
私は鞄の上から、砦で見つけた紙の感触を確かめる。
自分と同じ文字を書く女が、この海を渡った。
その手掛かりを追うと決めたのは、私自身だ。
そして隣に立つロアには、自分の我が儘で一緒に来てほしいと頼んだ。
「ユイナ」
船首の近くに立っていたロアが、振り向きざまに私を呼んだ。
私は手から力を抜き、ロアのすぐ隣へと足を運ぶ。
目の前には、どこまでも果てしなく広がる、岸の見えない灰色の海が続いていた。
「……三日、かかるんですね」
「ああ」
「船で寝起きするなんて、初めてです」
「今から心配したところでしょうがない」
「……そうですね」
ふと振り返ると、ルセア港の倉庫や揺れる帆柱の群れが、少しずつ小さく遠ざかっていくところだった。風を受けて船は東へ、真っ直ぐ進んでいく。
私たちはルヴェリア大陸を目指し、同じ船の上に立っていた。




