第8話 海を渡った女
翌朝、私たちは休憩所で手早く朝食を済ませると、再び背負子を担いで南へと歩き出した。昨夜も水音を聞くことはなかった。去り際に壁の文字を振り返ってみたが、崩れた入口の影に遮られ、すぐに見えなくなった。
かつてエルシアの町を目指して北上した道を、今日は逆にたどっている。これまで右手に見えていた白霞山脈はすっかり背後に回り、振り返るたびに、その雄大な稜線が少しずつ小さくなっていった。
昼前になる頃には、道は穏やかな下り坂へと差し掛かる。足元を覆っていた草が目に見えて減り、乾いた土にはいつの間にか砂が混じり始めていた。風が吹き抜けるたび、鼻腔をくすぐる塩の匂いが潮気を帯びて濃くなっていく。
坂を下りきったその先で、建物の屋根越しに、広い水面が目に飛び込んできた。
湖とは到底比べものにならない。対岸などどこにも見当たらず、灰色の水面がどこまでも伸びて、はるか彼方の地平線と溶け合っている。沖合には大小さまざまな帆が並び、岸辺の近くでは波が音を立てて砕けていた。
「海……」
この世界へきてから、初めて目にする海だった。
思わず足を止めて立ち尽くす私に、先を行くロアが振り返る。
「見るのは初めてか」
「いえ、海は知っています。でも……この世界で見るのは初めてです」
「そうか」
ロアは深く追及することもなく、そのまま足を止めずに坂を下り始めた。私も背負子の肩紐をグッと直してその背中を追う。
道の先には、重厚な石壁に囲まれた大きな港町があった。北門の前には荷車が長い列を作り、城壁の向こうからは立ち並ぶ倉庫の屋根と、何本もの帆柱が覗いている。門の手前で、私たちはフードを深く被り直した。
「まずは荷を届けよう」
「木札と同じ印のある倉庫ですね」
「ああ。港の北側だ」
門番に刻印された木札を提示すると、見慣れた荷運びの者だと判断されたのか、特に咎められることもなくあっさりと中へ通された。
一歩足を踏み入れると、町の中は圧倒されるほどの熱気に満ちていた。石畳をこする荷車の車輪音と、飛び交う荒々しい掛け声。巨大な樽を何個も転がしていく男たち、肩に網を担いだ漁師、船から渡された踏み板の上を忙しなく往復する作業員たち。人々の荒々しい活気に気おされそうになりながら、私たちは混雑をすり抜けて海沿いへと進み、岸壁に沿って北側へと進路をとった。
ロアは手元の木札と、軒先に掲げられた看板の印をひとつひとつ照らし合わせていく。そして、三つ目の大きな倉庫の前で足を止めた。
「ここだな」
入口の上に掲げられた看板には、手元の木札とまったく同じ四角い刻印が刻まれていた。薄暗い倉庫の中へ入ると、入り口近くの机で分厚い帳面を開いていた男が顔を上げた。ロアが無言で木札を差し出す。
「セイル市からだ」
「ああ、待っていた荷だ。奥へ下ろしてくれ」
男が声をかけると、奥から体格の良い作業員が二人現れ、私たちの背負子から慣れた手つきで荷を解いた。厳重に巻かれた布包みの数を数え終えると、帳面の男がロアに数枚の硬貨を手渡す。
「道中、何事もなかったか」
「ああ。途中で虚が出たがな」
「虚が出たか……で、荷は?」
「問題ない」
男は包みの一つを指で押し込むように確かめ、結び目を注意深く改めた。
「確かに、無事だな。ご苦労だった」
ロアは受け取った硬貨を無造作に腰袋へ入れる。これで、まずは引き受けた仕事が完了した。私は倉庫を立ち去る前に、懐の袋からあの砦で見つけた紙切れを取り出した。
「あの……すみません、少し伺ってもよろしいですか」
「ん? なんだ」
折りたたんでいた紙をそっと開き、男に見えるように差し出す。
「この文字に見覚えはありませんか」
男は怪訝そうに紙を覗き込んだが、すぐに興味なさそうに首を横に振った。
「見たことねえな。どこの国の文字だ?」
「私にもわからないんです。ただ……セイル市で、これとそっくりな文字が書かれた荷が、このルセア港へ運ばれたと聞きまして」
「いつ頃の話だ」
「だいぶ前だそうです」
「それだけじゃ、さっぱり分からんな。毎日ごまんと荷が入ってくるんだ」
男があきらめたように帳面へ視線を戻そうとした、その時だった。
倉庫の奥で古びた荷札を束ねていた年配の男が、ピタリと手を止めた。
「おい……その紙、ちょっと見せてみろ」
私はその年配の男の前へと移動した。
男は紙に書かれた文字を端から端までじっと追い、穴が空くほど顔を近づける。
「……読めねえが、この丸っこい独特の字には見覚えがある」
「本当ですか!?」
「ああ。同じ文字を書く女が、確かにここへ来た」
紙を握りしめる手に、思わずぎゅっと力がこもる。
私の世界の文字を使う人物が、確実にこの港までやってきていたのだ。
「どんな女性でしたか」
「髪も目も、俺たちとは違っていたな。濃いとも薄いとも言えない、妙に印象に残る独特な色だ。この港の人混みの中でも、やたらと目立ってたよ」
「言葉は……話せましたか?」
「普通に通じてたよ。ただ、船の出る日取りを何度も何度も熱心に聞いてきたな」
年配の男は脇にあった古い帳面を開き、そこに並ぶ船名のひとつを指で叩いた。
「俺が船の名前を指さして教えてやると、女は自分が持っていた紙に、その丸い字を書き足していたんだ。今見せてもらったのと、そっくりな字だったよ」
容姿の特徴といい、セイル市で耳にした「不思議な色をした女」と一致する。その人が、私にも読めるあの文字を実際に書いていたのだ。
「セイル市から届いた荷というのも、その人のものでしょうか」
「たぶんな。その女は木札を大切そうに持って、この倉庫へ自分の荷を取りに来たんだ。中身までは確かめてねえが、紙の束をいくつも抱えて持っていったよ」
「その人は……今もこの町にいるのでしょうか」
「いや。町にいたのは二日かそこらだ」
年配の男は倉庫の入口越しに、岸壁に横付けされた船へ視線を向けた。
「荷を受け取るとすぐ、船に乗り込んでいっちまった」
それまで黙って話を聞いていたロアが、短く尋ねる。
「いつ頃の話だ」
「だいぶ前のことだ。正確な月日までは覚えてねえ」
「行き先はわかるか」
「ああ、ルヴェリア行きだ。東の海を渡る船に乗ったよ」
私は握りしめた紙を胸元に寄せたまま、ゆっくりと倉庫の外へ目を向けた。
何隻もの船が岸壁に繋がれ、その向こうにはどこまでも続く灰色の海が広がっている。
私と同じ世界から来た人なのかは、まだ確証が持てない。けれど、あの砦に残されていた文字と同じ字を書く人が、確かにここまでやって来たのだ。
そして、この港から海を渡った。
私が追いかけてきた手がかりは、海を越えた先――ルヴェリア大陸へと続いていった。




