第5話 誰もいなかった
「『あお』、とは何だ」
読み終えた紙から顔を上げる。
ロアは、聞き慣れない音を確かめるように、私の顔をじっと見つめている。私は、彼の腕を指さした。体内へと収められたはずの青が、彼の腕に、ほんの僅かに残っている。
「それが青です。さっきのやつの周囲を流れていたものも同じ色です」
ロアは、自分の腕と、私の髪を見比べた。
「お前の髪とは違うな」
「私の髪は青緑です。青に緑という別の色が混ざっています。前に私が着ていた服は白。私のいた世界では、濃いか薄いかだけじゃなくて、それぞれに名前がありました」
「全部に名前があるのか」
「はい。青だけでも、いくつもあります」
ロアの視線が、私の握る紙へと戻る。
「その字も、お前の世界のものか」
「私がいた世界で、皆が使っていた文字です」
「なら、それを書いたやつは、お前と同じところから来たのかもしれないな」
「その可能性はあります」
私が読める文字を扱い、あの青い何かの正体まで調べている。セイル市で聞いた「不思議な色をした女」が、これを残したのだろうか。
「私は、この人を捜したい」
「手がかりは、その紙きれ一枚だぞ」
「今は、そうかもしれない。でも、これをセイル市や、他の町で見せれば、何か知っている人がいるかもしれません」
紙片を折り畳み、預かった書状とは別にして、鞄の奥へしまう。
そのとき、水音が小さくなった。
「遠くに行った?」
ロアが入口へと向かう。
「違う。音のする場所が変わっただけだ」
音は壁の向こうからではなく、砦の右奥から聞こえてくる。そこは、まだ調べていない二階建ての建物がある。
「行ってみよう」
建物へ近づくほど、水音が大きくなってくる。しかし、建物の入口には、木の椀が転がっているだけで、どこにも水が流れた跡はない。
扉を開けた先は広い食堂だった。中央に長い木製の机と椅子がいくつも並び、左の壁際には石造りの炉が据えられている。
入口に近いところにある机は、机の形を保っている。しかし、部屋の奥にある机ほど色が薄くなっていて、一番奥の机は半分ほど形がなくなっていて、残った半分も細かな粒となり、床に落ちる前に消えていく。
「壊れたんじゃないですね」
「ああ。薄くなって、崩れて消えた」
周りの椅子や器も、同じように端の方から崩れていっている。最も奥は、もはや床と壁しか残っていない。その表面も、手前の壁に比べて透き通るように薄く、表面から少しずつ崩れていく。
ロアが、さらに奥へと続く扉を開けた。
扉の先の通路に、男が倒れていた。
胸当てをつけた、この砦の兵士のようだ。出口へ向かってうつ伏せに倒れており、右腕を前方へ伸ばしている。頭や腕は形を保っているが、奥の方を向いている足は薄くなっており、左の足は半分ほど失われていた。私は男のそばにしゃがんで、鼻先と首元を確かめる。
「死んでいます」
ロアが通路の先へと視線を向けた。
「逃げる途中だったのかもな」
男の指先から、こちらの扉までは、あと少しだった。
「この人だけが、ここまで逃げられたんですかね」
「奥にいた奴らは、形すら残らなかったのかもしれない」
通路の先には、人も、衣服も、武器も落ちていない。ただ床と壁が残っているだけだ。連れ去られたのではない。あの青い何かは、ここにいた兵士から色を奪い、服も、装備も、まわりの机や椅子も消した。この男は、全てを奪われる前に、その領域から出たのだろう。けれど、形は残ったが、生き延びるだけの色は残ってなかった。
「砦自体は消えずに残っているのは何ででしょう」
「いや砦もよく見ると薄くなっている。壁や床は、人や道具よりも厚くて大きい分、まだ形を保っていられるんだろう」
ロアが、崩れかけた壁へ目を向ける。
まだ形を保てているだけで、無事ではないのだ。
不意に、すぐ近くで激しい水音が響く。
通路の奥を見ても水など流れていない。次に聞こえたときには、背後の食堂の方へ移動していた。
ロアが振り返る。
「ここから出るぞ」
「この書状は」
「持ち帰る。もう渡す相手がいない」
私は兵士の遺体に頭を下げ、ロアの後に続いて走り出した。
食堂を抜けて外へ出ると、水音は建物の外の方へと移っていた。青い何かの姿もどこにも見えない。
「道は残ってますか」
「さっきのままなら残っているはず」
門へ向かいながら、誰もいない建物を見回す。
ここの兵士たちは、砦を捨てて逃げ出したわけではなかった。青い何かに色を奪われ、身につけていた物と一緒に消えたのだ。
『行くぞ』
私たちは書状と砦で見つけたメモを持ち、セイル市へと続く街道を南に戻り始めた。




