第4話 残されたメモ
門の内側にも、人の気配はなかった。
正面には砦の奥へと続く通路が延びており、左右に石造りの建物が並んでいる。槍が立てられてる木枠や、荷車が止めてある場所もあるが、話し声どころか足音すら聞こえない。背後からは、門の外から続く水の流れる音だけが響いている。
ロアは外の道を見つめたまま、右手を握った。彼の全身を何重にも覆っていた青が、手首から腕へ、そして胸へと染み込むように流れていく。体を覆っていたその流れは少しずつ減り、やがてすべて見えなくなった。
「青が消えた……」
「俺の体の中だ」
ロアはそう答え、手のひらを見つめて指を何度か曲げ伸ばしする。色が消滅したわけではないらしい。私は手元のガラスペンを鞄へ戻し、軸に残った青が見えないように布をかぶせた。
「書状を渡さないと」
「ああ。人を探そう」
ロアは視線を正面へ戻すと、先に立って通路を進んだ。
左手にある建物の扉は、半分ほど開け放たれている。中をのぞくと、壁沿いに木製の長椅子が並び、革の胸当てや外套が置かれたままになっている。床には片方だけの手袋が落ちており、長椅子の下には口の開いた袋が落ちていた。袋の中には、灰色の塊が残っていた。
「誰かいるのか」
ロアの声は部屋いっぱいに響き渡ったが、何の返事もない。
通路の向かいにある建物には、簡素な寝台がいくつも並んでいる。毛布が床へずり落ちたままの部屋もあれば、机の上に木製の器が残されている部屋もある。どの部屋の家具や衣類にも、埃は積もっていなかった。ついさっきまで、ここで誰かが暮らしていた。その生活の跡だけを残して、使っていた人々は姿を消してしまった。
通路へ戻ると、水の音がさっきより小さくなっていた。今度は、砦の右奥からあの水の音が聞こえる。そちらに目を向けると、二階建ての石造りの建物があり、入口の扉がわずかに開いている。
「水の音、今度はあっちから聞こえる」
ロアも同じ方向へ視線を巡らせる。
「行かない方がいいな」
私たちは水音のする建物を避け、正面の大きな建物へ向かった。
建物の入口には、この世界の文字を刻んだ石板が掲げられている。ロアはその石板を見上げた後、厚い木の扉を押し開けた。
室内には、中央に大きな木製の机が一つと、壁際に小さな机が三つ並んでいる。左側の壁には山脈や街道を描いた地図が掛けられており、机の上には何枚もの紙が散らばっている。 ロアがその紙を一枚ずつ手に取り、確かめていく。
「読めるの」
「さあな」
彼は紙を持ち上げ、すぐに元の場所へ戻した。
「砦の記録らしい」
私には、どの紙も意味の分からない線の集まりにしか見えない。
手紙を渡す兵士の名前も聞いていない以上、この書状を机の上に置いて立ち去るわけにもいかない。
右側にある扉を開けると、狭い部屋に棚が並んでいる。棚には巻かれた地図や紙束、封をされた袋が隙間なく詰め込まれている。床には、棚から落ちたらしい数枚の紙が散らばっている。
ロアが棚を調べている間、私は入口の近くに落ちていた紙を一枚ずつ拾い上げた。埃を払い、空いている机の上へ重ねていく。
三枚目の紙を持ち上げたとき、その下から小さく四角に折られた紙を見付けた。表には何も書かれていない。
そっと折り目を開いた。
「!!」
そこに並んでいたのは、この世界の文字ではなかった。
丸みのある、見慣れた文字が並んでいた。
ひらがなだ。
紙を握る指先が、微かに震える。
『あおいものは このせかいからいろをうばったもの』
その下に、もう一行続いている。
『みずのおとは うばわれたいろがあつまるおと』
もう一度最初から読み直す。間違いない。元の世界で、病室のベッドでも、スマートフォンの画面でも、毎日見ていたあの文字だ。
「ロア」
私の声に、棚の奥にいたロアがこちらを振り返った。
「これ、読める」
ロアが私の手元を見る。
「私が元いた場所の文字」
「何て書いてあるんだ」
私は、声に出して読み上げた。ロアは何も言わず、ただ私の手の中にある紙をじっと見つめている。先ほど遭遇した、青い何かは、世界から色を奪う存在。そして、あの耳障りな水の音は、奪われた色がそこに集まる音。
この紙をここに残した人物は、あの異変の正体を知っていた。さらに、私と同じ文字を使っている。私と同じ世界から来た誰かが、この砦を訪れたのかもしれない。けれど、紙のどこを見ても、署名は残されていない。
でも、何でこの世界の文字で書かなかったのだろう。誰かに知らせたいのであれば、そうする方が確実だ。
その時、再びあの水の流れるような音が響いた。
今度は、私たちがいるこの部屋の、すぐ外からだ。




