第2話 青を纏う
「来るぞ」
ロアの声と同時に、目の前に立つ青い何かが揺れた。一歩踏み出したように見えたが、次の瞬間には、その姿が少し右へずれている。姿は見えているけれど、どこに立っているのか位置が定まらない。ただ、水の音だけはすぐ近くで重く響いている。
私はロアの背中から目を離さないようにした。
足下には、たしかに乾いた土と草の感触がある。でも、前方に見える景色だけは、位置が定まらない。何本もの青い筋が空気の中を走り、そのたびに青い何かの位置が少しずつずれていく。
ロアが前へ出る。
全身にまとった青が、さっきよりも色濃く見えた。
青い何かのまわりを巡る青が、一度大きくうねった。肩の高さにあった細い流れがほどけ、地面すれすれを走ったかと思うと、今度はロアの顔の横まで跳ね上がる。水の音は、どこで鳴っているのか分からない。正面で聞こえたはずの音が、突如として耳のすぐ横を通り抜けたように感じて、私は反射的に首をすくめた。
ロアは立ち止まらない。 まっすぐ進んでいるように見えるが、足を出すたびに立つ位置が少しずつ横へ流れてるように見える。ロアはそれを分かったうえで歩いているようだった。二歩、三歩と間を詰め、右手を伸ばす。
届く、と思った。でも、触れられなかった。
ロアの指先は青い何かの肩あたりを捉えたように見えたが、そのまま空を切った。人の形は目の前にあるのに、そこだけ少し奥へ引いたように見える。青い水の流れだけが遅れてロアの手首へまとわりつき、すぐにほどけた。
「ロア」
呼んだ声が少し裏返った。私は前へ出そうになって、足を止める。ここで近づいたところで、自分に何ができるのかも分からなかい。青い何かが、また形を変える。 細い肩が見え、長い髪も見える。けれど顔の位置が定まらない。輪郭の内側を水が流れていて、その流れに引かれるように、体の線そのものが少しずつ崩れていった。
ロアがもう一歩踏み込んだ。
今度は右手だけではない。肩から先ごと、青の領域へ踏み込む。
その瞬間、青い何かのまわりを巡っていた青が、まとめてロアの体へ引き寄せられた。
私は目を見開いた。細い流れが何本も、ロアの方向へ一気に引かれていく。青い何かの腰の横を回っていた青がほどけ、足元に広がっていた青も一瞬で薄くなる。次の瞬間、ロアの肩、胸、脚へ青が駆け上がる。服の上を青が何本も走り、そのまま離れずに全身へ絡みつく。
けれど、それでも終わらない。
青い何かが消え去ることはなかった。ロアに引き寄せられて輪郭が一度ゆるみ、胸から上が崩れたかと思ったが、次の瞬間には少し離れた場所で、また人の形を結び直している。さっきロアが手を伸ばした場所と、今立っている場所が同じなのかどうかも分からない。
ロアが低く言った。
「こいつの位置がわからない」
私は返事できなかった。
見えているのに、そこにいない。いないわけはないのに、それへ触れることができない。目の前で起きていることを、うまく言葉にできなかった。
青い何かのまわりで、水の音がまた強くなった。
今度は地面の上だ。いや、そう見えただけかもしれない。道の上に青い光が走り、私の足元まで滑り込んでくる。
ロアは振り向かない。 青をまとった腕をそのまま前へ出し、今度は体ごと踏み込んだ。さっきより近い、次の瞬間には、ロアの背中が少し左へ流れ、青い何かがその向こうへ逃げたように見える。逃げているのか、最初からそこにいたのか、私には分からなかった。
それでも、ロアが進んだ分だけ、青い何かがたしかに彼の方へ寄っていた。ロアの体は、上に薄い青の衣を何重にも重ねたように大きく見える。フードの端、袖、腰のあたりを細い青が巡り、そのたびに色が濃くなっていった。
「あれ……ロアに」
言い切る前に、青い何かが正面を向いた。
顔の形はまだ定まらない。けれど、こちらを見たのだけは分かる。次の瞬間、青い何かのまわりを巡っていた青が外へ張り出し、その外側の青い領域が一気に広がった。
ロアが左手を横に出して、私を遮った。
「下がるな。俺の後ろにいろ」
私はうなずき、ロアの背中に寄った。ロアの背後だけは、青に侵されず灰色の土が見えている。ロアはもう青の中に半歩踏み込んでいた。 右腕を引くのではなく、さらに押し込む。その動きに合わせて、青い何かの体の一部が裂けるように崩れ、青の筋がまとめてロアの方へ流れていく。
青は彼の肩を越え、胸を包み、脚の外側まで伝い落ちる。黒いはずの服が見えにくくなっていく。ロア自身の形は変わらない。けれど、その体へ青が重なって、別の服を羽織っているように見える。
それも、決定打にはならなかった。
青い何かの中心には、まだ大量の青が残っている。
人の形が一瞬だけはっきりした。細い体、長い髪。青がそのまわりを途切れずに巡っている。さっきより輪郭は薄いようにも見える。けれど、消え去るほどではない。むしろ、色を抜かれた分だけ、中心の青がより濃くなったように見える。
私は袋の口に手を入れた。
指先がガラスペンに触れる。
冷たい。
ロアが前を見たまま言った。
「今、俺の体には十分に青がある」
私は顔を上げた。
青をまとった彼の背中が、道の真ん中に立っている。右腕だけではない。肩から脚まで、厚い水の外套を羽織ったように、全身が青で覆われていた。
「ユイナ。試してみろ」
私はガラスペンを強く握りしめた。




