第1話 北の厄災
今度は、歩くたびに道標が確実に近づいてくる。
置いてきたはずの石の前に戻されたときとは、明らかに違う。道の両側の岩や草も、私たちが進んだ分だけ後ろへ遠ざかっていった。振り返っても、さっきの青い何かはもう見えない。水の音も、いつの間にか消えている。
それでも私は、何度も後ろを確かめずにいられなかった。
灰色の道は、町の方向へまっすぐ伸びている。光の反射も、青く染まった地面もない。もう、同じ場所へ戻されてはいないらしい。前を歩くロアの右腕には、さっき彼が奪った青が、まだ残っていた。
その青は服の表面を薄く覆い、空へ消えることも、地面へこぼれ落ちることもしない。ただロアの体から離れず、右腕のまわりにまとわりついている。
私は、その青から目を離せなかった。ロアが虚から何かを奪い取る場面は、これまでにも何度か見てきた。けれど、奪ったものがこれほどはっきりと形を保って見えるのは、初めてのことだ。
あれは、間違いなく「青」だ。元の世界なら、空を仰げば、海を覗き込めば、当たり前のようにそこにあった色。それが今、ロアの右腕に存在する。
道標の前でロアが足を止めた。太い柱の上には、見慣れない文字がいくつか彫られていたが、私には読めない。ロアは指先でその文字をなぞると、白霞山脈へ向かう道をしばらく見つめてから言った。
「砦はこの先だ」
それから、来た道の方へ顔を向ける。
「今なら進めそうだ」
さっきの青い領域をもう一度通ることを考えれば、引き返すほうが危険に思えた。それに砦に兵士がいるなら、あの水音や青い何かについて知っている者がいるかもしれない。私は袋の紐を握り直し、ロアの後を追った。
道標を過ぎると、道は緩やかな上り坂に変わる。正面には白霞山脈の斜面が迫り、岩の多い土地が続いていた。右側には腰ほどの高さの石積みがあり、その先は低い崖になっている。左側は山の斜面で、灰色の草の間から大きな岩が突き出していた。足元には二本の轍が残っている。さっきまでの現象が嘘だったかのように、道は同じ幅を保ったまま、山の奥へまっすぐ続いていた。
しばらく上っていくと、前方に見張り台の石壁が見えてきた。斜面に隠れて全体こそ見えないが、砦に違いない。あそこまでたどり着けば、ひとまず休める――そう思った、そのときだった。
――ざあ、と。
水の流れる音がした。
今度は右でも左でもない。正面、私たちが目指すその方向からだった。川のせせらぎのような穏やかな音ではなく、巨大な滝から大量の水が絶え間なく叩きつけ、渦を巻いているような音が、砦のある方角から響いてくる。
ロアが足を止めた。私も引きずられるように立ち止まり、砦の方を見つめる。道も、石積みも乾いたままだ。山の斜面に滝はなく、砦の壁から水が流れ落ちている様子もない。それなのに、頭上を覆うほどの激しい水音だけが、絶え間なく続いている。
「ロア……さっきのやつが、近くにいるんですか」
「分からない」
ロアは砦を見据えたまま答えた。その直後、前方の地面に「それ」が現れる。
最初は、乾いた土の上に細い光の反射が一筋走っただけだった。だがすぐに二本、三本と増え、波紋のように道幅いっぱいへ広がっていく。さっき通り抜けてきた場所とは、染まっていく規模がまるで違った。
青は道の上にとどまらず、右側の石積みを越えて崖の下まで覆い、左側では山の斜面を這い上っていく。灰色の草も岩も、みるみる青に呑まれていった。
地面から噴き上げた青はそこで止まらず、左右に大きく弧を描きながら空へと立ち上がり、私たちの頭上を覆うように迫り上がってくる。まるで、灰色の世界そのものが青い波に閉じ込められていくようだ。
その青の中心にあたる場所に、一つの輪郭が浮かび上がった。地面から這い上がってきたものよりも大きく、人の形に近い。けれど輪郭ははっきりとせず、無数の水の筋が絡み合ってできた影のようだった。長い髪のようなものが幾筋も風に流れ、その奥に何かが立っている――そう感じさせるだけの、大きな気配だった。
背丈はロアよりもさらに高く、山道を覆う青の中心にそびえていた。輪郭のはっきりした体ではない。無数の水の筋が幾重にも絡み合い、髪のように、あるいは衣のように、上へ上へと流れながら形を成している。肩から伸びる腕も、足元へ続く輪郭も、すべてその水の流れそのものだった。一滴も地面にはこぼれず、水は絶えず内側を巡りながら頭上の空へと吹き上がっては、また体の内側へ戻っていく。ただ、その水が巡り続ける音だけが、山道に響いていた。
青い何かが「顔」をこちらへ向けた。目、鼻、そして口があった。その顔は驚くほど整っている。細い鼻筋、冷たい眼差し。男のようでも女のようでもあるその姿は、私がこれまで見てきたどんな人よりも美しかった。
ロアは無言のまま右腕を前に突き出す。その手のひらへ向かって、周囲の青が細い筋となって集まりはじめた。指先から手首、腕へと絡みつくように青が巻きつき、渦を巻きながら這い上がっていく。同時に、残された左腕で私の体を背後へ押しやった。
「下がってろ」
私は一歩後ろへ下がった。靴の裏が乾いた砂を擦る。さらに下がろうとして、来た道を振り返る。いつの間にか、私たちが来た道はすでに深い青で塗り潰されていた。青い何かは正面に立っているにもかかわらず、それが作り出す領域は私たちの側面をとうに通り越し、道標のあった辺りまで広がっている。袋の紐を握る指に、無意識のうちに力がこもった。
足元に残された、青に侵されていない乾いた土は、もうわずか数歩分しかない。
「ロア、後ろも……後ろも青に囲まれてる!」
「ああ」
ロアは前を見据えたまま、右足をわずかに後ろへ引いた。その動きに呼応するように、青い領域が前へと迫ってくる。青はロアの靴先から体を這い上がり、全身をゆっくりと包み込んでいった。
周囲の青は、ひとつ残らずロアへと集まっていく――。




