第6話 青の気配
水の音は、暗くなるまで私たちの周囲を離れてくれなかった。
右から聞こえた直後に、今度は左から聞こえる。振り返っても、水はない。足元には、乾いた土と二本の車輪跡が続いているだけだ。日が落ちる前に、私たちは道の脇で休んだ。車輪跡が見える場所から動かず、交代で眠る。夜のあいだは、水の音は一度もしなかった。
空が明るくなると、私たちはすぐに歩き出す。
前方の道標は、昨日とほとんど同じ大きさに見える。周囲の草や岩は後ろへ過ぎていくのに、道標だけが近づいてこない。ロアが道の端から、片側が平たい石を拾い、それを二本の車輪跡の間へ置く。
「進めているのか確かめる」
石の形を覚えてから、ロアの後ろを歩く。前は見ない。足元と車輪跡だけを追う。
しばらく歩くと、後ろから水の流れる音が聞こえた。
「音は放っておけ」
ロアは足を止めない。
私も振り返らずに進む。
その直後、ロアが足を止めた。危うく背中へぶつかりそうになり、ロアの肩越しに前を見る。道の中央に、あの石があった。手のひらより少し大きく、片側だけが平たい。さっき、ロアが置いた石だ。
一本道をまっすぐ歩いていた。分かれ道はなく、向きを変えてもいない。
それなのに、置いてきたはずの石が、また私たちの前にある。
ロアが石のそばへしゃがみ、車輪跡を確かめる。
「道は外れてないはずだ」
二本の跡は途切れず、石の向こうへ続いている。
迷って戻ったのではない。道を進んでいるはずなのに、同じ場所へ戻されている。
水の音がする。
今度は一方向からではない。右、左、背後。いくつもの流れが、離れた場所で同時に起こる。前方の地面が明るくなった。
乾いた道の上を、光が横切っている。水面に空の明るさが映ったように見えるが、そこに水はない。
反射した光は道の左右へ広がり、車輪跡を覆っていく。
ロアが足元から小石を拾い、光の中へ投げる。小石は乾いた音を立てて地面に当たった。すると、その場所から、青いものが立ち上がってきた。
細く伸びた青いものは途中で広がり、人の肩や頭に近い形を作りかける。けれど輪郭は定まらず、流れる水のように崩れていく。
青だ。空の色。水の色。元の世界では、どこにでもあった色。
灰色しかない世界を歩き続けたあとでは、目の前に現れた青が、記憶にあるものより鮮やかに見える。きれいだ。それでも、ガラスペンを見たときとは違う。青いものは地面から広がり、道そのものを覆いつくそうとしている。
ロアが私の前へ出る。
「ここにいろ」
「何をするんですか」
「道を開ける」
ロアが光の反射の中へ右足を踏み入れる。
水の音が一気に強くなる。浅い流れの音ではない。大量の水が、すぐそばを通り過ぎていくような音だ。
青いものがロアへ近づく。
定まらない輪郭から何本もの青が伸び、ロアの右手へ触れる。
次の瞬間、青がロアへ流れ込む。右手から腕へ、腕から肩へ。黒い服の上を薄い青が広がっていく。地面を覆っていた反射が弱くなった。その下から乾いた土が現れる。
途切れたように見えていた二本の車輪跡も、私たちの足元から道の先までまっすぐにつながっている。
「今だ。来い」
私はロアの後ろへ走る。光の消えた場所に入る。靴の裏に触れるのは、硬く乾いた土だ。私たちが通り抜けると、水の音は遠ざかっていった。
振り返ったときには、青いものも、置いた石も見えなくなっている。灰色の道が後ろへ伸びているだけだ。
「行くぞ」
ロアが歩き出す。右手から肩にかけて、まだ薄い青を纏っている。
その青をじっと見つめたまま、私の足が止まる。ロアの黒い上着の上で、にじむように静かに光る薄い青。それは、彼が今しがた『奪った』という事実そのものだった。
「ユイナ」
呼ばれて、私はロアの後を追う。
道の先に立つ道標が、今度は歩くたびに少しずつ近づいていた。




