第5話 砦への道
昼前、もう一度荷置き場へ向かった。
朝よりも人が増えている。男たちが縄を引く摩擦音、木箱を床に引きずる音、荷車のきしむ金属音が、狭い荷置き場の四方から響く。北へ出せなくなった荷は灰色のシートを被せられたまま放置され、その脇で、別の行き先に書き換えられた木箱が次々と運び出されていく。人々の手はせわしなく動いているのに、行き場を失った北向けの荷だけが、あちこちに取り残されていた。
私は鞄の紐を押さえながら、ロアの背を追う。
あの大柄な男は、朝と変わらず荷の影に立っていた。忙しなく周囲へ指示を飛ばし、帳面を持った小柄な男と言葉を交わしている。私たちに気づくと、男は足元の灰色の袋を二つ、片手で無造作に持ち上げた。
「水を二人分と、食い物を入れてある」
突き出された袋を、まずロアが受け取る。そのうちの一つが、私の手元へ差し出された。思ったより重い。私は袋をしっかりと抱え直した。男は分厚い胸元から、紐で縛られた一本の筒を取り出した。
「書状はこれだ。砦の兵士に渡せ。それから、返事をもらってきてくれ。」
ロアがそれを受け取る。
「分かった」
男は一度だけ、ロアの隣に立つ私を見た。
「西の門から外へ出ろ。そこから北へ折れれば砦へ向かう道に入れる。門を出てしばらくは、荷車の車輪跡が残ってるだろうから、それをたどっていけばいい」
「はい」
男はすでに、背後の荷の方へ体を向けている。
「頼んだぞ」
私たちはそのまま、荷置き場を後にした。
歩きながら、手元の袋を軽く揺らしてみる。中で水がタプタプと音を立てた。腕にのしかかる重みを感じながら、これを抱えてあの険しい白霞山脈の麓まで歩くのかと、気が遠くなる。
「重いですね」
私が小さくこぼすと、ロアは視線を前に向けたまま、淡々とした声で返した。
「必要なものだからしょうがない」
「……そうですね」
返す言葉もなかった。砦までの道中は、順調にいっても丸一日以上。どこで水を補給できるかも分からない。宿へ戻って荷をまとめ直す。といっても、増えたのは水と食べ物だけだ。ガラスペンが入った鞄を肩に掛け、袋を持つ。ロアは窓の外を見たあと、扉へ向かった。
「行こう」
「はい」
私はその背を追い、薄暗い部屋を出た。
西の門は、昨日入った正門より人が少なかった。荷を運ぶ者が出入りするための門らしい。門の内側には木箱が積まれ、壁には板が何枚も打ちつけてある。文字が並んでいるのが見えるが、私には読めない。
門番の男は、ロアが差し出した書状の包みを一瞥すると、面倒そうに鼻を鳴らして顎をしゃくった。
「通れ」
それだけで、男は槍を持った腕を引いて脇へ退いた。
門を出ると、街の音が一段遠くなった。
まだ背後からは、車輪の音も、人々の声もかすかに聞こえる。しかし、一歩、また一歩と街から離れるにつれて、それが一つずつ消えていく。目の前に広がる道は、広く、踏み固められた灰色の乾いた土の上には、何本もの車輪の跡が残っていた。
歩き始めは、何の変哲もない平原の道だった。
左右には乾いた背の低い草地が広がり、低木がぽつりぽつりと立っている。地面の土は乾いており、川や池もない。空は平坦な灰色に塗り潰され、北の果てには白霞山脈の鋭い峰々が、かすんだ影となって横たわっている。山の輪郭が少しぼやけて見えるのは、ここでは珍しくもなかった。
道は北へ向かって緩やかな弧を描いている。しばらく歩を進めると、セイル市を取り囲む高い外壁が、小さくなっていく。振り返ればまだ、視界に捉えることができる。しかし、今から引き返せるような距離ではすでにない。
やがて、道の行く手に、一本の道標が見えてくる。
大人の背丈よりもわずかに高く、その先端には、布が結びつけられていた。何かの目印なのだろう。
「あれが、砦へ向かう道の目印ですか」
「たぶんな」
ロアはそう言って歩き続ける。
辿り着くと、道標の立つ位置で道はふたつに枝分かれしていた。まっすぐに伸びる広い道と、右へ折れる細い獣道のようなわき道。ロアは迷わず、右の細い道へと足を踏み出す。私もその小さな背を追う。こちらの道は車輪の跡が格段に少なく、草が道にも生い茂っている。
右へ曲がってしばらく歩き続けた。道幅こそ狭いものの、土の硬さも、まばらな草の配置も、先ほどまでの道と大きな違いは感じられない。しかし進むうちに、細い道はふたたび、別の広い街道へと突き当たった。こちらの平坦な土の上には、先ほど見たものよりも遥かに深く、車輪の跡が何本も刻まれている。街道は左右へと伸びており、左手のずっと先、視界の端に、また一本の道標が立っているのが見える。
「これが、北の砦へ続く街道ですね」
「たぶんな」
ロアは砦へと続く広い道へ合流し、北へと進路を取る。私もそのあとに続く。合流してしばらく経った頃から、道の先にぽつんと立つ道標の位置がおかしいことに気が付いた。それもまた、先ほど見たものと同じような古びた道標で、先端の布が同じように垂れ下がっている。私はその道標を正面に見据えながら、一定の間隔で歩数を数え始めた。十歩。二十歩。三十歩。数を重ね、さらに歩みを進めても、それは依然として同じ場所に、立っているように見える。
遠くにあるものならば、近づくのに時間がかかるのは当然だ。
そう自分を納得させようとしたが、さらに数十歩進んでふたたび見上げたとき、やはりそれは、先ほどとまったく同じ場所に立っている。
私は足を止めそうになり、寸前で思い止まる。
目の錯覚だ。そう自分に言い聞かせ、歩を進める。幾重にも走る轍は、変わらず私の足元で後ろへと流れている。なのに、前方の道標だけが、背景に張り付いたまま、こちらに近づいてこない。
「ロア」
「何だ」
「あの、前の道標、遠くないですか」
ロアが歩調を変えずに、わずかに視線を上げる。
「さっきから、少しも距離が縮まっていないような気がするんです」
ロアは足を止めず、少しだけ間を置いてから言った。
「……俺にも、近づいているようには見えないな」
ぶっきらぼうな声だった。
しかし、私だけが感じているのではなかった。
足元の轍や草は、確実に私の進行に合わせて後方へと遠ざかっている。しかし、道標との距離だけが縮まらない。そのとき、右手の草地の奥から、不意に水の音が聞こえてきた。さらさらとしたせせらぎではない。もっと細くて、浅い流れが石の上を通るみたいな音だった。
私は思わず右を向く。
灰色の草地が続いているだけだ。草や石はあるが、水は見えない。
私の足が、今度こそ完全に止まった。
ロアもまた、数歩先でぴたりと歩みを止めている。
「聞こえたか」
背を向けたまま、低い声が投げかけられる。私は小さく頷き、声を出した。
「はい。右の方から」
「水の流れる音か」
「はい」
ロアは右手の草地を見つめたまま、僅かに眉根を寄せている。だが、そのときにはもう、音は完全に途絶えていた。風もなく、平原の草も揺れていない。さっきまで確かに聞こえていた音は、急に消え去った。
「近くに川はありませんよね」
「見えないな」
「これが、町で聞いた話みたいですね」
「ああ」
ロアはすぐに前方へ視線を戻した。
「行くぞ」
再び歩き出してからも、視線がどうしても右へ引っ張られそうになる。しかし、見えるのはどこまでも乾いた草原だけだ。しばらくすると、先ほどの道標の位置が、今度は遠くに見える。私は眉を寄せ、歩幅を広げる。別の道標なのかもしれない。前にも後ろにも何本か立っているなら、見間違えてもおかしくない。でも、布切れは、さっき見たものと同じに見える。
私は振り返った。
背後の道には、道標らしいものは見当たらない。セイル市の壁ももうほとんど見えない。
「どうした」
ロアが立ち止まることなく、声をかけてくる。
「いえ……なんでもありません」
口を開きかけて、やめた。
見間違いかもしれないのに、いちいち言葉にしていたら、自分の方がおかしくなりそうだったのでやめた。そのまま歩く。土は乾いていて、靴の裏で細かい砂が鳴る。その足元の確かな感覚とは裏腹に、前方の視界は、見るたびに位置が変わり定まらない。
さらに進むと、今度は道の脇に、崩れた低い石積みのようなものが見えてきた。
古い祠の残骸だろうか。遠くかすんでいるためはっきりしない。今度こそ、その距離を見誤るまいと、私は歩きながらその石積みから目を離さないようにした。一歩。二歩。しかし、やはり前方の石積みだけは、どれだけ足を動かしても、距離が全く縮まらない。まるでベルトコンベアの上を、歩いているようだった。
私は袋から水を取り出し、少しだけ飲む。灰色の水が口の中を通る。冷たくはないが、渇きを癒すには十分だった。水をしまい、ふたたび顔を上げる。その瞬間、石積みの位置は、いつの間にか道から大きく右へ外れて、草地の方へ移動していた。
私は思わず足を止める。
「ロア」
私の呼びかけに、ロアが振り返った。
「何だ」
「さっきから、前のものの位置が……動いて見えます」
私は、本来なら正面に見えるはずだった位置から、右へ不自然に移動した石積みを指差した。ロアはしばらくそちらを見ていた。
「……俺にも、位置が変わって見える」
私の見間違いではないということははっきりした。
「足元を見ろ」
と、ロアは自分の足元を指し示す。
「轍は二本、まっすぐ残ってる。道は確実にここにある。前にある目印が動こうが、道そのものが消えるわけじゃない。余計なものは見るな。足元だけ見て歩け」
「はい」
脇道へ逸れれば、この道に再び戻れる自信はなかった。
再び歩き出したとき、今度は左のどこかから、短く水の音がした。
さっきは、右から聞こえたはずだ。
私がそちらを見ようとするよりも早く、ロアが言った。
「水の音も気にするな。足元だけを見ろ」
私は慌てて視線を道へ戻し、袋の端を握り締める。
音は一度きりで消えた。川の水音であるならば、音が途切れるはずがない。やはり、水流などそこには存在しないのだ。それからの道中、私はひたすら自分の足元だけを見つめ続けた。靴の先、車輪の跡、乾いた土、草の切れ目。それだけは信用できるからだ。
前を見上げるたび、空と地面の境目、白霞山脈の裾野がぼやけて見える。歩き続けているあいだも、右や左のどこかでまた水の音がした。道標などの目印となるものは見るたびに位置が変わってみえた。
私は足を止めなかった。ただ二本の轍だけを見つめ、前へと進み続けた。




