第4話 砦行きの仕事
目を覚ます前から、通りを行き交う荷車の音が聞こえる。
車輪が石畳をこする硬い摩擦音。木箱を地面へ下ろすたびに、鈍く重い衝撃が宿の薄い壁を通して部屋まで伝わってきた。幾人もの低い話し声が、そこに重なっている。
目を開けると、ロアは窓のそばに立っている。すでに支度を終え、外套のフードを引き下げた状態で、通りを見下ろしていた。
「起きたか」
「はい」
体を起こし、ベッドの脇へ足を下ろす。昨日より痛みはいくらかましになっているが、指の付け根には、まだじんわりとした熱が残っていた。
水差しの冷たい水で顔をぬぐい、ここで調達した、灰色の服を着る。
「荷置き場へ行くんですか」
「ああ」
ロアは窓から視線を外さずに短く答える。
昨日、北へ送れなくなった荷がすべてそこに集められていると聞いた。砦へ向かった者たちも、誰一人として戻ってこないらしい。ロアは、その状況を確かめに行くつもりなのだろう。
一階へ下りると、食堂にはすでに何人もの客がいる。眠そうな顔で椀を両手で抱え込んでいる者もいれば、柱の脇に立ったまま、黒くて硬いパンの塊を無言でかじっている者もいる。
宿の女将が卓の間を行き来し、私たちの前にも温かい汁の入った椀を置いた。
「朝から荷を持った客がひっきりなしでね。北へ出せない荷を、南や東へ回す話ばかりだよ」
女将は腰の布で手を拭きながら、うんざりしたように肩をすくめる。
「北門は、まだ閉じているんですか」
「今朝も閉じたままさ。開けるっていう話は誰も口にしないね」
空いた椀を重ねると、女将はすぐに隣の卓へと向かった。
ロアは何も言わずに汁を口へ運んでいる。
私もさじを手に取り、温かいスープをすくった。薄い塩味が舌から喉へ流れていく。北門が閉じられてから、すでに何日も経っていた。事態が好転する兆しはなく、行き先を失った荷が、この街に溜まっていく。
食べ終えると、ロアが先に席を立った。
「行くぞ」
宿の外へ出ると、通りには昨日より多くの人が行き交っている。
荷を背負った男が私たちの横を小走りに通り過ぎ、重そうに傾いた手車が乾いた音を立てて角を曲がっていく。行き交う人々は多いが、誰もが自分の荷だけしか見ておらず、私たちへ目を向ける者は一人もいない。大通りを北へ進むにつれて、道の脇に留め置かれた荷車や樽が目立ってきた。
灰色の布をかけた荷車。地面へじかに下ろされた樽。太い縄で硬く縛られた大きな麻袋の山。それらは先へ運ばれる様子もなく、ただそこに放置されたまま、荷置き場の外の壁に沿って長い列を作っている。荷置き場の入口にある大きな木の掲示板には、私には読めない文字が書かれた紙が、何枚も重ねて貼られている。
ロアがその前で足を止め、上から順に文字を目で追った。
「何て書いてあるんですか」
「北門は閉鎖中。砦へ送る荷の受け付けも、ほとんど止めている」
「全部読めたんですか」
「分かるところだけだ」
ロアは貼り紙の隅を指先でなぞりながら、短く答える。生活に必要な短い言葉ならロアにも少しは読めるらしいが、私にとっては、ただの不揃いな線の集まりにしか見えない。
「そこで立ち止まるな。用がないなら、どいてくれ」
荷の奥から、低く太い声が響く。うず高く積まれた木箱の前に、大柄な男が立っていた。上着の袖を肘の上までたくし上げ、腰には太い縄をぶら下げている。きつい目つきをしているが、怒っているというより、次々に運び込まれる荷をさばくのに追われているようだった。
ロアが男に向かって歩き出す。
「仕事を探している」
男は足を止め、ロアを頭の先から爪先まで確かめるように見つめ、それから背後に立つ私へと不審そうな視線を向けた。
「二人一緒か」
「そうだ」
「力仕事を任せられるのは、おまえだけだな」
男はロアを顎で示す。
「荷運びの仕事なら南行きがいくらでもあるが、――北へ行く気があるなら、別の仕事もある」
男は周囲に人の影がないかを一度見回し、それから声を一段と低くした。
「行き先は北境の砦だ。砦までの道がどうなっているのか、兵士の様子、それを見てきてほしい。ここ数日、砦まで行って戻ってきた者が一人もいない。だから誰も行きたがらない。そのぶん、報酬は多く出す」
昨日、宿の食堂や荷置き場で噂されていた「砦」という名前が、ここで現実の仕事として繋がる。北へ送る荷が止まっている本当の理由は、単なる門の閉鎖だけではない。砦までの道が今どうなっているのか、誰も確かめる術を失っているのだ。
男は腰の革袋から、細く巻かれた小さな書状を取り出した。
「これを砦の兵士へ渡して、返事をもらってきてくれ。もし砦までたどり着けなかったならば、そこへ至る道がどうなっていたか、お前たちの目で見たままを戻って知らせてほしい」
ロアは男の指先にある書状をじっと見つめ、それから男の顔へと視線を戻した。
「報酬は」
「半分を先に渡す。残りはここへ戻ってからだ」
「分かった」
ロアの返事には、一切の躊躇いがなかった。
男は私の足元に視線を落とす。昨日エルシアで新調したばかりの灰色の靴。それを履いてここまで歩いてきたことを見透かされたようで、私は無意識に足を揃えて身を引いた。
「砦までは、早くても丸一日はかかる。水と食い物は多めに用意する」
そこで男は、手にしていた書状をロアへ渡そうと伸ばしかけた手を止め、それをもう一度、掌の中で握り直した。
「それから――途中で水の音がしても、絶対に近ずくな」
平原の古い休憩所で見た、あの壁の殴り書きが脳裏に蘇る。
――水の音を追うな。
「水場がないところで、聞こえる音ですか」
私が問いかけると、男が怪訝そうにこちらを見た。
「知っているのか」
「前にも、同じような噂を聞きました」
「なら、話は早い。川も池もない場所なのに、すぐ耳の横で水が流れているような音がするらしい。だが、音がした方をいくら見ても水たまり一つない。それなのに、少し進むと、今度は別の方向から音が聞こえる」
男は腰に下げた太い縄を一度持ち上げ、ほどけかかっていたところをきつく巻き直した。
「人の声を聞いた者もいる。正面に見えていたはずの道しるべが、一度目を離して、もう一度見上げた時には全く違う場所に立っていたという話もある。どこまで本当かは知らん。だが、別の日に戻ってきた連中も、揃って同じことを言うんだ」
水の音、そして位置の定まらない道標。平原の休憩所やリュノー集落で聞いた話の断片が、一本の不穏な線となって繋がっていく。一人の見間違いや作り話が広がっただけなら、これほど具体的に現象が一致するはずがない。北へ向かった者たちは間違いなく、同じ異変を見聞きしている可能性が高かった。
「いつ出発すればいい」
ロアが尋ねる。
「昼までに、こちらで水と食料を用意する。北門は開けられないから、西の作業門を使え。外へ出たら、すぐに北へ折れるんだ。しばらく進めば、砦へと続く道に入る」
「分かった」
男は荷置き場の奥から大声で名前を呼ばれ、書状を握ったまま、木箱の山の向こうへと消えていった。
男の背中が見えなくなるのを見届けてから、私はロアを見上げた。
「受けるんですね」
「ああ」
「砦まで行った人たちが、一人も戻っていないのに」
「だから、報酬が高い」
ロアは遠くの荷積みの様子を眺めながら、平然と答える。
「このまま宿にいても、金はいずれ無くなる。それに、北の様子も自分の目で確かめられる。危なそうだったら引き返す。戻ってこられたやつもいるらしいからな」
ロア自身、それがどれほど危険な道であるかを知らないわけではない。それでも、何もせずにいるより、報酬を得ながら先へ進む道を選んだのだ。
「私も行きます」
ロアが静かにこちらへ顔を向ける。
「ここに残っても、私一人では何もできません。文字も読めないし、新しく宿を取ることも、自分で仕事を見つけることもできない。砦までの道がどれほど危なくても、一人でこの街に残ることが安全だとは、どうしても思えないんです」
ロアは私の顔を見たまま、しばらく何も言わなかった。周囲の喧騒だけが、私たちの間をすり抜けていく。
「最初から、置いていくつもりはない」
ただそれだけを呟くと、ロアは再び、大柄な男が戻ってくる方向へ視線を戻した。
私はそれ以上何も言わず、肩に掛けた鞄の紐を、汗ばんだ指先で小さく握り直した。
荷置き場の端では、別の男が分厚い帳面にせわしなく文字を書き込んでいる。その近くで、荷車の縄をほどいていた若い男に、私は一歩近づいて尋ねてみた。
「北境の砦より先にも、道は続いているんですか」
「ああ。砦を越えれば、白霞山脈へ向かう道に入る」
若い男は、作業の手を止めずに、顎で北の方角を示した。灰色の高い建物が並ぶこの荷置き場からは、その山脈を見ることはできない。
「今も通れるかは分からんがな。山に近づくほど虚が増えるから、砦の兵士たちが見張っているんだ。今はその砦自体がどうなっているかも怪しいが」
すると、すぐ横で帳面をめくっていた男が、ペンを止めて顔を上げた。
「それでも、山の方へ進んでいった女がいるっていう話なら聞いたぞ」
私は瞬時にその男の方へ視線を変えた。
「女の人ですか」
「ああ、何でも不思議な色をした女だ。髪も目も、ほかの人間とは違っていたらしい。白霞山脈へ向かったって話だったが、戻ってきたとは聞いてない」
エルシアでも、そしてリュノー集落でも耳にした、あの噂。
あの「不思議な色をした女」は、セイル市に立ち寄っただけではなく、そこからさらに北の砦を越えて、あの険しい山脈へと向かったのかもしれない。
「その人は、いつ頃この街にきたんですか」
「さあな。俺自身が見たわけじゃない。南から荷を運んできた連中が、道中で噂していたのを聞いただけでね」
男はそれ以上のことを知らないらしく、再び帳面へ顔を戻した。
不確かな噂に過ぎない。
けれど、これまで何のつながりもなかった噂が、初めて「北境の砦」と, その先にある「白霞山脈」という具体的な目的地へと結びついた。もし、その人が私と同じように、色のある世界から来た人なのだとしたら――。その人なら、なぜ私たちがこんな灰色の世界に放り出されたのか、その理由や元の世界への帰り方を知っているかもしれない。胸の奥で、かすかな希望が広がるのを感じていた。
隣に立つロアが、私の様子を横目で窺うように見つめた。
「砦へ行けば、もう少し詳しい話が兵士から聞けるかもしれないな」
「はい」
私たちは、昼までに支度を整えて戻ることを荷置き場の男に伝え、一度宿の部屋へと引き返した。
薄暗い部屋に戻ると、旅に持っていく僅かな荷物をベッドの上に並べる。エルシアでもらった硬い保存食と、水を満たした革の水筒。そして、鞄の底に、厚い布へ幾重にも包み込んで隠してある、一本のガラスペン。
窓の外からは、北へ出せなくなった荷を別の場所へ運ぶため、何台もの荷車が通り過ぎていた。
砦へ向かい、戻ってこない人々。
水場のないはずの道で聞こえる水の音。
位置の定まらない道しるべ。
そして、白霞山脈の彼方へと消えた、不思議な色をした女。
昨日までは、どれも他人の口から聞いた、たんなる噂に過ぎなかった。
けれど、昼になれば、私たちは西の作業門を出て、その場所へ足を踏み入れることになる。私は灰色の外套のフードを引き下げ、鞄の紐を肩に掛け直してから、扉の前に立つロアを見つめた。
「準備できました」
「ああ」
ロアは短く顎を引くと、部屋の木製の扉を静かに開けた。
北境の砦へ届ける書状を受け取るため、私たちは再び、荷置き場へ向かった。




