第3話 セイル市
リュノー集落を出ると、道は次第に広くなる。
踏み固められた土の上には、幾筋もの荷車の轍が重なり、深く刻まれている。道の両脇では、なぎ倒された灰色の草が帯のようになって続き、多くの荷車がここを通り過ぎていったことを示している。
歩きながら、ときどき道の先へ目を向ける。
集落を出る前に見た、あの地面を走る水面のようなきらめきは、もう現れない。遠くに立つ道標も、今は道の脇に止まっている。
それでも、北にそびえる白霞山脈の手前だけは、不自然に輪郭がにじんでいた。山裾と平原の境目が、まるでピントの合わないレンズ越しのように、ぼんやりと溶け合っている。
「まだ光って見えるか」
ロアが前を向いたまま聞いてきた。
「今は見えません。でも、あの山の下のあたりだけ、境目がぼやけています」
私が指先で白霞山脈の裾を示すと、ロアは歩みを止めずに、ただ一瞬だけそちらに視線を投げた。
「水の音は」
「聞こえません」
ロアの歩幅は変わらない。私も隣を歩きながら、もう一度だけ山脈の裾を見つめた。何かが動いているわけではない。ただ、いくら目を凝らしても、大地と空の境界線だけがどうしても定まらない。
その夜は、道の脇の乾いた草地で夜を越した。
翌朝からは、セイル市の方からやってくる荷車と何度もすれ違うようになる。二頭の灰色の獣に引かれた大きな木造の荷車もあれば、男が一人で息を切らして押す手車もある。荷台には布を被せた木箱や樽が積まれ、すれ違う御者たちは、私たちの姿に一瞬だけ目を向けるが、すぐにまた前方の道へと視線を戻していった。
リュノーの集落では、私のフードの奥をのぞき込もうとする視線がいくつもあったが、ここを行き交う人々は、自分たちの荷と進路のことしか頭にない。誰にも呼び止められないと分かってから、私はフードの端を掴んでいた指先の力を、静かに抜いた。
昼を過ぎたころ、平原の先に、巨大な灰色の壁が浮かび上がる。
最初は地平線の上に並ぶ細長い岩かと思ったが、近づくにつれて、それが果てしなく続く高い外壁だと知る。壁の上部には等間隔に見張り台が突き出し、その下に重厚な石造りの大門がぽっかりと口を開けていた。
門の前には、何台もの荷車が長い列を作っている。
外套を羽織った男たちが、積み荷の木箱を一台ずつ叩いて確認し、その傍らを、籠や袋を抱えた人々が淡々と通り抜けていく。
「セイル市ですね」
「ああ」
エルシアの町とは比較にならない規模だった。
外壁は見上げなければてっぺんが見えず、開かれた門は、荷車が二台並んで同時に通れるほどの幅がある。門の脇には簡易なむしろを敷いた人々が集まり、干からびた乾物を地面に並べたり、通りがかる御者へ大声で呼びかけたりしていた。
列の先頭で、門番と一人の御者が言い合っている。
「このまま北へ抜けたいんだ。北門は通れるんだろうな」
御者が荷台から身を乗り出して尋ねると、門番は首を横に振った。
「北門は閉鎖中だ。北へ行くなら、ここで並んでいても無駄だぞ」
「いつ開くんだ」
「さあな。荷を市内に下ろすなら通すが、北へ抜けるだけなら引き返してくれ」
御者は舌打ちをし、隣に座る男と顔を見合わせながら、手綱を引き絞った。
私は隣に立つロアを見上げる。
「北門、やっぱり閉まっているんですね」
「噂ではなかったな」
やがて私たちの番が来た。
門番はまずロアの赤茶の髪とフードに目を留め、それから私の顔へ視線を移した。フードの奥の髪色を確かめるように一瞬だけ目を細めたが、背後にはまだ多くの荷車が控えている。門番はそれ以上何も問わず、通れというように顎をしゃくった。
門をくぐり抜けた瞬間、目の前を巨大な車輪が横切る。
石畳の敷かれた大通り。その両側には、二階建てや三階建ての石造りの建物が隙間なく並んでいた。店先には灰色の布や土器が積み上げられ、軒下から吊らされた木札には、見慣れないこの世界の文字が刻まれている。建物の二階の窓から窓へと何本もの縄が渡され、干された洗濯物が風にパタパタと揺れていた。
無数の足音と車輪の軋み。そこへ、店先からの呼び込みの声が重なり合う。焼いた肉の脂の匂いが漂ってきたかと思えば、次の瞬間には、乾いた草と獣の生臭い匂いが鼻をついた。通りを埋め尽くす人の波は、エルシアで見たものの比ではない。けれど、私を凝視する者は誰もいない。道の端に寄らなければ荷車に接触し、立ち止まれば即座に背後から来た人に追い越される。誰もが、自分の用事のために、ただ前を向いて歩いていた。
「人が多い方が、見られないんですね」
「いちいち見てる暇がないんだろ」
ロアは周囲に視線もくれず、人混みの隙間を正確にすり抜けていく。確かに彼の言うとおりだった。行き交う人々との距離は近く、肩や腕がかすめそうになる。それでも、あの剥き出しの好奇心に満ちた視線に包まれるよりは、はるかに息がしやすい。私は肩に掛けた鞄を前に引き寄せ、灰色の布に包まれたガラスペンが、外から見えないように腕で抱え込んだ。
東側の通りへ入ると、入り口に水桶や水差しを置いた宿屋が何軒か並んでいる。ロアは吊るされた木札の文字をいくつか見比べ、そのうちの一軒へと足を踏み入れた。
薄暗い一階の受付。その木製の台の奥に、細身の女が立っていた。
「お泊まりですか」
「ああ。一部屋頼む」
女は壁の鍵束に目を走らせてから、ロアの前へ手のひらを差し出した。
「二階の突き当たりが空いています。お湯を使うなら、夕方までに声をかけてくださいね」
ロアがいくつかの硬貨を差し出すと、女は慣れた手つきでそれを数え、古い鍵を台の上に置いた。
「今夜は少し騒がしいかもしれません。北へ向かった荷運びの人たちが、何組も引き返してきていますから」
私は思わず女の顔を見つめた。
「途中で、戻ってきたんですか」
「ええ、そう聞いています。北門が閉まってからは、行き先を変える人も増えました。詳しい事情は、そこの食堂にいる荷運びの人たちに聞いた方が早いと思いますよ」
すぐ後ろから別の客が入ってきたため、女はそちらへ愛想笑いを向けた。
二階の部屋には、壁際に粗末な寝台が二つ並んでいた。窓際にある小さな木机の上には、水差しと二つの素焼きの器が置かれている。床も壁も古びてはいるが、エルシアの宿よりはいくらか広かった。
私は寝台の端に腰を下ろし、紐をほどいて靴を脱ぐ。
小さく息を吐く。親指の付け根と踵の皮膚が赤く擦れ、じくじくと熱を持っている。
「人が多くても、思ったよりちゃんと歩けました」
ロアは窓の隙間から、下の通りを見下ろしている。
「ここなら目立たない」
「はい。エルシアより、ずっと楽です」
ロアは窓から離れ、扉の取っ手に手をかけた。
「下で食べる。そのあと、仕事を探しに行く」
「どこで探すんですか」
「荷置き場だ。北門が閉まってるなら、動かせない荷が溜まってるはずだ」
北門が閉じているなら、仕事そのものもがないのではないか。そう思ったが、運ぶべき物がなくなるわけではない。むしろ、誰も行きたがらないからこそ、手つかずのまま残されている仕事があるのかもしれない。
夕方、一階の薄暗い食堂へ下りると、すでに半分以上の席が埋まっていた。
壁際の卓には、泥のついた頑丈な靴や、厚手の獣皮の上着を着た男たちが陣取っている。足元には太い縄で縛られた大きな布袋が転がり、椅子の背には汚れの目立つ革手袋が掛けられていた。宿の女が、湯気の立つ汁物の鉢と、黒く焦げた硬いパンを忙しそうに運んでいる。
私たちも隅の空いた席に腰を下ろした。
運ばれてきた汁物には、小さな豆と細切りの根菜が入っていた。味はかなり薄かったが、温かい汁を口に含むと、一日中歩き続けて強張っていた身体から、じわじわと緊張が抜けていく。
隣の卓では、三人の大柄な男たちが、北への路について声を潜めて話し合っていた。
「今夜荷を出したところで、また持って帰る羽目になるだけだ。昨日戻ってきた連中だって、砦の影すら見えなかったんだぞ」
「だからって、食料の補給を止めたままにはできないだろう。砦に何人残ってると思ってるんだ」
「その残ってる連中が、本当にまだいるのかどうかも分からんから困ってるんだ」
一人の男がパンを引きちぎる手をピタリと止め、顔を寄せた。
「先月までは、迷っても引き返せた。だが今は、目印も当てにならないらしい。道の脇の道標が、振り返ったら消えていたって話だ」
「見落としたんじゃないのか」
「そう思って引き返したら、今度は全く違う、道の真ん中にその道標が立っていたんだそうだ」
別の男が、持っていた木椀を卓の上にことんと置いた。
「水の音も聞いたと言っていた。川も水路もない乾いた平原なのに、すぐ耳の横を急流が流れているみたいだった、と」
スープを運ぶさじを置き、椀を持っていた手が止まる。
スプーンをすくう金属のさじを握った指が、小さく強張る。
平原の休憩所で見た、あの壁の殴り書きが脳裏に蘇った。
『水の音を追うな』
平原の夜に聞いた、あの実体のない流れる音。リュノーの集落で人々が怯えていた噂。場所が違っても、彼らの証言は、奇妙なほど一致している。
「砦へ無事に着いたやつはいないのか」
「今月に入ってからは一人も聞いてないな。引き返したやつは運がいい。戻ってこないやつも大勢いる」
「市は調査を出さないのか」
「人を出しても戻らないんじゃ、どうしようもないだろ」
三人はそれきり黙り込み、再びパンを汁に浸し始めた。
しばらくして、最も若い男が、思い出したように口を開いた。
「そういえば、不思議な色をした女も、北へ向かったって聞いたぞ」
私ははっと顔を上げた。
年上の男が、うんざりしたように若い男を睨む。
「またその噂話か。見たやつによって、言うことがばらばらじゃないか」
「でも、南の町からやってきて、このセイルを抜けて北へ行ったって話だけは、誰に聞いても同じだ」
「商人が客を引くために流した作り話に決まってる」
「だったら、もっとマシな話にするさ。こんな時期に閉鎖された北門を抜けていったなんて、ただの狂人だと思われるだけだ」
男たちは、その女が誰なのかは知らないようだった。どこで目撃され、正確にいつ北へ向かったのかもはっきりしない。それでも、エルシアで、リュノーで、そしてこのセイル市で、同じ話を聞いた。それは、すべて同じ人物の、同じ足跡を指し示している。私以外にも、この世界で色を持って生きている人間がいて、そして彼女は確かに北へ向かったのだ。
ロアは静かにスープを口に運んでいたが、私が動きを止めていることに気づくと、木椀を持った手をわずかに下げ、こちらへ視線を向けた。
「食べろ。冷めるぞ」
「……はい」
私は小さく頷き、ちぎったパンを汁に浸した。
「今の話、聞こえましたか」
「ああ」
「三つの場所で、同じ話を聞きました」
「そうだな」
ロアは木椀の底に残った豆をすくいながら、淡々と言った。
「でも本当のところは、北へ行ってみないと分からない」
彼の言うとおりだということは、分かっている。噂だけを信じて北へ進めば、戻ってこない荷運びたちと同じことになるかもしれない。それでも。
自分以外に色を持つ人間がいるかもしれないという希望を、私はここまで追ってきた。何の確証もないからと、ここで引き返すことだけは、どうしてもできなかった。
食事を終えると、ロアはそのまま立ち上がり、宿の外へ出た。私もすぐに鞄を肩に掛け、彼の少し広い背中を追う。外は光の失われた、濃い灰色の闇に包まれつつあった。広い通りでは、店じまいをする商人が荷車に布を被せる一方で、重い積み荷を載せた手車がいくつも通り過ぎていく。
荷置き場に近づくにつれて、道の端に積まれた木箱や樽の数が増えていった。
奥の広場には、厚手の布を被せられた大型の荷車が、何列も並んでいる。その木製の車輪の前には、転がり防止の太い木片ががっちりと噛み込まれており、当分の間、動かされる予定がないことを物語っていた。
数人の男たちが、積まれた木箱を前に、腕を組んで話し合っている。
「南に戻す荷は明日出す。砦向けの荷はそのまま置いておけ」
「また保留かよ。いつまでここに積んでおくんだ」
「運ぶやつがいないんだからどうしようもない。命を捨てに行きたがる馬鹿はいないさ」
「砦へ知らせを持たせた連絡員からは、まだ何の返事もないのか」
「ああ、着いたのか、途中で野垂れ死んだのかも分からん」
男たちの足元には、太い縄で厳重に縛られた袋や、何本もの木釘を打ち付けられた木箱がうず高く積まれている。中身は砦の兵士たちのための食料や衣類だろう。誰かが向こうで待っているはずの荷が、運ぶ人間の不在によって、ここでただ埃を被っていた。
私が荷車の隙間から積まれた荷物を見つめていると、すぐ脇で太い縄を巻いていた一人の女が、不意に声をかけてきた。
「そこを通るなら、足元をよく見て歩きな。割れた板が転がってるよ」
言われて足元を見ると、木箱の影に割れた鋭い板の破片があり、釘の先がまっすぐ上を向いていた。
「あ、ありがとうございます」
私は一歩下がり、尖った釘を避けてロアの肩の近くへ寄った。
女は縄を束ねながら、並んだ荷車へ顔を向けた。
「北境の砦まで、普通ならどれくらいかかる」
ロアの問いかけに、女はゆっくりと顔を上げ、フードを被った私の目元を覗き込んできた。
「普通なら、半日もあれば着くさ。だが、今は距離なんか意味をなさないよ。途中で引き返してきた荷運びの男は、道がまっすぐ続いているのに、半日歩いても砦に少しも近づけなかったと言っていた」
「水の音も、聞こえたんですか」
私が尋ねると、女は大きく首を振った。
「ああ、戻ってきた奴らもみんな同じことを口にするよ。最初は道の左側から激しい水音が聞こえて、少し進むと、今度は正面から音が聞こえたそうだ。どこを見回しても、水たまり一つなかったって言うのにね」
女は束ねた縄を荷車の荷台へ放り投げた。乾いた木片に縄が当たる、鈍い音が響く。
「まあ、この市の中までおかしくなったわけじゃない。北へ近づきさえしなければ、普通に暮らせるさ」
私は並んだ荷車と、積み上がった木箱を静かに見つめた。
町の中では大勢の人が行き交い、店も宿も開いている。けれど、ここには北へ運ばれない荷が積み上がっている。北で起きていることは、すでにセイル市の暮らしや仕事に影響を与えていた。
ロアは荷置き場の奥を見渡した。
「仕事を引き受けるなら、明日の朝の方がいいか」
「そうだね。荷の差配をする人間が朝一番にここへ来る。もし北行きの仕事を受けるつもりなら、きっちり割のいい対価を要求しな。命の値段なんだからね」
「分かった。ありがとう」
ロアが短く礼を言い、私たちは荷置き場を後にした。
宿へ戻る道すがら、私は隣を歩くロアの横顔を見つめた。
「明日、またここに来るんですか」
「ああ」
「北へ行く仕事があるか、確かめるために」
「それもある」
「受けるかどうかは……まだ決めていないんですよね」
ロアは正面の暗い石畳を見つめたまま、淡々と答えた。
「話を聞いてから決める」
それ以上聞いても、今は同じ答えしか返ってこないと思った。
部屋へ戻り、私は寝台の上に鞄を下ろした。
窓の外からは、まだ荷車の車輪が石畳をこする低い音や、重い荷を下ろす男たちの掛け声が、夜の空気に混じって響いてくる。
セイル市へ着けば、不思議な色をした女の手がかりが得られるかもしれない。そう淡い期待を抱いていた。
けれど実際に手に入ったのは、輪郭の定まらない、不確かな噂の断片に過ぎない。
ただ、北へ向かう道で起きている異変は、もう遠い場所の奇妙な噂話などではなかった。戻らない連絡員、ここで立ち往生している砦への物資、指示のない閉ざされた北門。すべては現実に起きていることだ。
明日、朝が来れば、ロアはまたあの荷置き場へと向かう。
私は窓を開け、北側の高い外壁がある方向をじっと見つめた。重なり合う建物の影に遮られ、門も、その先に続く道も、ここからは何も見えない。
あの見えない暗闇の先に、北境の砦へと続く道がある。
そして、私と同じ「色」を持つ彼女が、その道を歩いていったかもしれないのだ。
そう思うと、どれだけ目を閉じようとしても、窓の外から聞こえる荷車の音が、いつまでも耳の奥に残って消えなかった。




