第2話 リュノー集落
朝のうちに、エルシアの門を出る。
歩くにつれて背後の石壁は小さくなり、人の声も、荷車がきしむ雑音も風に消えていく。目の前には、ただ平坦な灰色の道が延びている。
歩きながら、靴の中で何度も足の指を動かす。昨日買ったばかりの靴はまだ硬く、足を踏み出すたびに、親指の付け根が小さく疼く。それでも、布を巻いただけの昨日を思えば、地面の冷たさが直接伝わらないだけで十分に歩ける。
「足、痛いのか」
前を行くロアが、足を止めずに振り返る。
「少しだけ。ひどくなったら言います」
ロアは私の歩幅に一度だけ視線を落とし、すぐに前へ向き直った。
肩には、エルシアで手に入れた粗末な鞄を掛けている。その中には、ガラスペンが入っている。誰かとすれ違うたびに、鞄の隙間からあのペンが見えていないか気になり、無意識に手で鞄の口を押さえる。
道は緩やかに北へ続いている。正面に見えるのは、幾重にも重なる白霞山脈の稜線だ。空や平原と同じく山も灰色だが、斜面のあたりだけがわずかに明るく光って見える。目を細め、山裾と平原の境界を見つめる。
どこからが平原で、どこからが山脈の始まりなのか、境目がにじんで定まらない。瞬きをしても、にじんだ輪郭はぼんやりと揺れたままだ。
「正面の山、昨日より見えにくくないですか」
ロアが歩みを止め、白霞山脈に視線を向ける。
「ああ。俺にもぼやけて見える」
しばらく山を見つめていたロアは、自分の足元に目を落とし、それから道へ顔を戻した。
「あの山はセイルの先にある。今はセイルを目指して、このまま進む」
「そうですね」
半日ほど歩き続けると、道の先に低い屋根がいくつか重なって見えてくる。
木と石を不揃いに組み合わせた小さな家々が、低い柵の内側に身を寄せ合うように集まっている。耕された畑の土も、壁に干された不揃いな布も、すべてが同じ灰色に沈み、集落全体が大地と同化しているように見えた。
「リュノーだ」
ロアが短く言った。
入り口には、角の丸くなった看板が一本立っている。その表面には、私には線の並びに見える文字が深く刻まれていた。
ロアは看板に視線を落とし、小さく顎を引いた。
「リュノー。ここで合っている」
家の前では、数人の住民が作業をしていた。畑から根菜を掘り起こして運ぶ者、泥のついた布を壁に干す者もいる。私たちがその横を通り過ぎると、彼らは手を止め、一度だけこちらに顔を向けた。ロアの姿を確認し、それから視線が私のところで止まる。灰色の服に着替え、髪を隠していても、余所者であることは隠せない。フードの隙間から覗く肌が、彼らの見慣れた色彩と決定的に異なっているのだ。エルシアの町より人が少ない分、一人一人の視線が肌に刺さるみたいで痛い。
ロアは周囲の視線を一顧だにせず、淡々と集落の奥へ進んでいく。
中央には、広場と呼ぶには手狭な空き地があった。その端に建つ小さな小屋の前には、平らな木の台が置かれ、干した根菜や目の粗い布袋が並べられている。
ロアが小屋に近づくと、奥の暗がりから年配の女が現れた。女はまず私を値踏みするように見つめ、それからロアへと視線を移す。
「買い物かい」
「持って歩ける食い物が欲しい」
「セイルへ行くのかい」
「ああ」
「なら、干した芋と肉がいい。三日くらいならもつよ」
女は店先に並んだ、黒ずんだ干し芋や硬そうな焼き菓子を指差した。ロアは懐から小銭を取り出し、必要な分だけを指し示す。
女が再び私に視線を向けた。
「その子は、あんたの連れかい」
「ああ」
ロアのそっけない返事を聞くと、女はそれ以上追及せず、私の足元に目を落とした。
「セイルまで歩くなら、無理をしない方がいい。この先は、途中に休めるところなんてほとんどないからね」
「ありがとうございます。気をつけます」
ロアが干し肉を受け取る間、私は小屋の壁に目をやった。手のひらほどの木板が直接打ち付けられており、そこには何行かの文字が刻まれている。
やはり読めない。ただ、一番最後に刻まれた短い記号の羅列は、昨日泊まったエルシアの宿の壁にあったものと、どこか形が似ている気がした。
「この板には、何て書いてあるんですか」
私が尋ねると、商品を包んでいた女が顔を上げる。
「北へ行くなら、道から外れるな、だよ」
女は包み紐を結びながら、語りかけるように言った。
「まっすぐ歩いていたはずなのに、気づいたら違う場所に立っていた、なんて話が最近はひどく増えているんだ」
ロアが包みを受け取り、女を見る。
「どの辺りでだ」
「ここより北だよ。セイルへ続く一本道でも聞くが、さらにその先へ行く荷運びたちのほうがよく言っているね」
「何が起きている」
「道がぼやけて分からなくなるとか、すぐ前に小屋が見えているのに、いくら歩いても辿り着かないとか。誰もいない場所から声が聞こえたって奴もいる。おかしいと思ったら、無理をせずに引き返すことだ。それと、水の音が聞こえても絶対に音のする方に行っちゃいけないよ」
水の音を追うな。
あの休憩所の壁に刻まれていた書き残しが、脳裏に蘇る。そして、水場のない暗闇の平原で聞いた、あの不自然な水流の音も。
「この近くでも、その音は聞こえるんですか」
私が尋ねると、女は集落の北側、なだらかにうねる大地の先へ視線を向けた。
「毎日じゃない。だが、水場なんてどこにもないのに、川が流れているような音が風に混じって聞こえる日がある。音のする方へいって、そのまま戻らなかった奴が、私の知っているだけで二人いるよ」
ロアは台の上に、くすんだ硬貨を置いた。
女が硬貨の枚数を確認し、包みをロアに渡す。
「セイルへは広い道が一本あるだけだ。そこを通るだけなら、問題はないと思うよ」
「分かりました」
私は女に静かに一礼し、先を歩くロアの背を追った。
集落の空き地を通り抜けるとき、壊れた荷車を囲んで座り込んでいる男たちの、低く濁った声が聞こえてくる。
「車輪を直したところで、荷を出せなきゃ意味がないだろう」
「セイルから北へ回すはずの荷が全部止まっているんだ。ここで待っていても仕事は来ないぞ」
「砦まで運べる度胸のある奴がいなけりゃ、どうしようもない」
ロアが、わずかに歩調を緩めた。彼らは私たちを気にする様子もなく、車輪を乱暴に叩きながら話を続けている。
「戻ってこない奴がいるから、誰も行きたがらないんだよ」
「だから北の仕事は嫌なんだ。割に合わない」
男たちの一人がふとこちらへ視線を向け、ロアはそれ以上足を止めることなく、再び歩幅を戻して集落の外へと向かった。家々の影が途切れ、周囲に人の気配がなくなってから、ロアがぽつりと口を開く。
「北境の砦まで行く荷が、滞っているらしいな」
「セイルの、さらに先にある場所ですか」
「ああ。かなり北の、山岳地帯にある。俺も行ったことはない」
最後の民家が背後に遠ざかり、完全に二人きりになる。私は深くかぶっていたフードを少しだけ押し上げ、自分の足元を見つめた。
「少し休むか」
私の歩調がわずかに乱れたのを、ロアは見逃さなかった。
「……すみません。お願いします」
道の脇に、平らな石が転がっている。
私はその石の上に腰を下ろし、膝の上に鞄を抱えた。足の指全体が熱を持って疼いている。ロアは座ることもせず、立ったまま、今通り抜けてきた集落の家並みを静かに見つめていた。
「水の音、私たちも平原で聞きましたよね」
「ああ」
「同じことなのかは分かりませんが、あのとき音のする方に行かなくて、本当によかったです」
「そうだな」
ロアは集落を見つめたまま、短く言った。
私は膝の上の鞄を指先でなぞる。
「不思議な色をした女の人のことも、セイルに着いたら確かめたいです」
「ああ」
ロアの返答は、予想よりも早かった。
「人が集まる大きな街だ。何かを見た奴がいるかもしれない。仕事を探すのも、その噂が本当か調べるのも、まずはセイルに着いてからだ」
ロアが道の先を見据える。
「まずは、無事に着くことを考えよう」
「はい」
私は石から立ち上がり、靴の中で足の位置を直した。
セイルへと続く一本道が、遥か先まで延びている。灰色の大地には深く荷車の轍が刻まれ、その輪郭に沿って、背の低い枯れた草が点々と生えている。
道の先、約百メートルほど離れた場所に、古びた道標が一本、ぽつりと立っている。
私はその道標の位置を目で確認してから、足元の車輪跡に視線を落として、歩き出した。
数歩進み、もう一度顔を上げた。
先ほどは「道の右側」に見えていたはずの道標が、今は「道の真ん中」に立っている。私は足を止め、自分の立ち位置を確かめる。
道は道標に向かってまっすぐ延びており、足元の車輪跡も直進している。
「ロア。前の道標が、動いたように見えます」
ロアが足を止めた。
「どう動いた」
「最初は、道の右側にありました。でも今は、道の真ん中に立っています」
ロアは道標と、私たちの足元から道標へと続く轍を見比べた。
「俺は気にしてなかったから動いたかどうかはわからないが、道の真ん中に道標が立っているのは明らかにおかしいな」
ロアは地面の轍を指で示して言った。
「セイルまでは一本道だ。このまま進めば迷わないはずだ」
「はい」
遠くの道標は見るたびに位置が不確かに映る。しかし、足元の道は迷いようのない一本道だ。ロアは足元の道だけを見つめながら、一歩を踏み出す。
私もその後に続こうと足を進めた、そのとき。
道標の手前の地面に、白い光が広がった。
それは、水面に太陽の光が当たり、反射した瞬間のきらめきに似ていた。だが、そこに水たまりなどない。土は乾ききっており、風が吹くたびに灰色の砂がざらざらと舞っている。その乾燥した土の上を、水面の反射のような白いきらめきが、一瞬だけ広がって、すぐに消えた。
「道標の手前が光りました。まるで、水面の反射みたいに」
ロアが再び立ち止まり、私が指した地面を凝視する。
すでに光は完全に消え、そこにはただの乾いた砂だけが残っている。ロアはその場から動かず、地面をしばらく見つめ、それからゆっくりと歩み寄った。
「水はない」
「はい。乾いた土だけです」
ロアは光の広がった場所を少しだけ避けて通り抜ける。
「わからないものには近づかないようにしよう」
「わかりました」
私は遠くの不確かな景色を見るのをやめ、足元の車輪跡だけを見つめる。
この世界では、見えるものがすべて正しいとは限らない。それでも、一つずつ確かめれば進むことはできる。私はロアから離れないように、同じ道の上を歩いた。




