第1話 灰色の服
目を開けると、隙間の目立つ不揃いな木目の天井が視界を塞ぐ。
病室の、あの平坦で真っ白な天井ではない。
昨日、ようやく辿り着いたエルシアの宿の天井だ。
板の合わせ目から差し込む朝の光が、埃の舞う狭い寝室を薄く照らし出している。その光自体にも、やはり色はない。
寝ている間に元の病室に戻っているかもしれないという、淡い期待を抱いていたわけではないけれど、目を覚ました瞬間は、周りを確認してしまう。
私は体を起こし、寝台の端に両足を下ろした。
壁際に置かれた小さな椅子のうえには、昨日ロアに買い揃えてもらった衣服が、不器用に畳まれた状態で重なっている。灰色の服と下着、そして床には、くすんだ灰色の靴。どれも、この世界で生きていくために最低限必要なものだ。
もう裸足で歩き回る必要はないし、あの白いワンピースを晒し続ける必要もない。けれど、これらの衣服が手に入ったからといって、私がこの世界の一員になれたわけではない。
まず下着を調節する。昨夜、ロアがいない間に何度も巻き直したはずなのに、寝てる間に緩んでしまっている。もう一度巻き直し、その上から厚手の灰色の服をかぶった。布地はざらついていて、使い込まれている。腰の細い紐を左右から強く引き絞ると、だぶついていた布地がようやく私の身体に馴染んだ。
次に靴へ足を滑り込ませる。
足の裏の、平原を歩いて擦り剥けた皮膚が、靴の底に触れた瞬間に鋭い痛みが走る。私は小さく奥歯を噛み締め、靴の隙間に詰めるための細い布切れを、指先で爪先へ押し込んだ。
ゆっくりと床を踏みしめて立ち上がる。
床がギシッと低い音を立てた。歩くたびに踵が浮くような、僅かな遊びは残っている。それでも、布を巻いただけの昨日に比べれば、地面の硬さが直接足裏に感じないだけで十分に歩けると思えた。
寝台の脇に置いていた鞄を持ち上げ、中を確かめる。ガラスペン、元々身に着けていた下着のようなもの、白いワンピース、がなくなっていないことを確認してから、袋の口を閉じてから肩へ掛けた。
『この町では見せるな』
ロアに言われた言葉が頭に残っている。
あの虚を前にして、私はただ恐怖のままにペンを振った。ロアが虚から剥ぎ取った「何か」を、私のペン先が引き寄せた。あのとき自分が何をしたのか分からない。分からないからこそ、人目に触れる場所で出すべきではないのだろう。
支度を終えたところで、扉の外から足音が聞こえた。
「起きたか」
ロアの声だった。
「はい」
返事をしてから扉を開ける。
ロアは廊下の壁にもたれていた。昨日と同じようにフードをかぶり、表情もほとんど変わらない。ただ、扉から出た私を上から下まで一度見た。
「変ですか」
「いや」
ロアは視線を私の足元へ移した。
「歩けそうか」
私も自分の足元の、くすんだ靴を見つめる。
「はい。昨日よりはずっと」
「痛くなったら言ってくれ」
「……分かりました」
ロアはそれ以上何も言わず、すぐに廊下の先へと歩き出した。
薄暗い廊下の壁には、小さな木札がいくつか直接打ち付けられている。
昨夜は暗くてよく見えなかったが、朝の光に照らされたその表面には、やはり私には読めない文字が書かれていた。短い不揃いな線と、不規則に打たれたいくつかの点。
見覚えのあるアルファベットでも、日本語の文字でもない。ただの記号の羅列にしか見えない。
私は木札の前で、思わず足を止める。
「これは、何て書いてあるんですか」
ロアが歩みを止め、私の隣に戻ってきた。フードの影に隠れた目で、木札をじっと見つめている。
「火を大きくするな……だと思う」
「火の元には気をつけろってことですかね」
「全部は読めない」
私はロアの横顔を見つめた。
「ロアでも読めないんですか」
「読めない奴は多い。簡単な文字なら少しは読める」
ロアは、それが当然であるかのように、気負いのない平坦な声で答えた。それから、隣の札に視線を移す。
「こっちは、たぶん、夜は外に出るな、だ」
「さっきから、たぶんばかりですね」
ロアの言葉も、宿の人たちの話も理解できる。私が話した言葉も相手に通じている。それなのに、文字だけは読めない。そのことが、ここが自分のいた世界ではないということを、改めて突きつけてくる。
階段を下りると、宿の一階では何人かが朝食を取っていた。卓上には木の椀と黒い塊のようなパンが並び、椀からは湯気が上がっている。そのすべてが灰色だ。
私はなるべく周囲と視線を合わせないように、フードを深くかぶり直して一番端の空いている席へ座った。それでも、通り過ぎる間に、何人かの視線がこちらへ向いているのを感じた。灰色の服を着て、髪を外套の下に隠していても、隙間から覗く私の肌や指先には、彼らの持たない色が残っている。
ロアはそんな視線など初めから存在しないかのように、私の向かいの席に腰を下ろした。宿の女将が、湯気の立ち上る椀を二つ、私たちの前に運んでくる。
「新しい服は、体に合ったかい」
「あ……はい。ありがとうございます」
「靴は、履き慣れるまでは痛いかもしれないから、無理をして歩くんじゃないよ」
「はい」
女将は私に優しく微笑むことも、詮索するような目を向けることもなく、隣に座るロアへと顔を向けた。
「今日はもう、出るのかい」
「ああ」
「そうかい。この町では、お前さんも、その連れも目立つからね」
ロアは何も答えず、差し出された椀を両手で引き寄せた。
女将がロアの力を恐れているのか、あるいは彼のような「奪う者」の存在に慣れているだけなのか、私には判断がつかない。
椀を両手で包むと、じんわりとした熱が手のひらに伝わってきた。
一口すする。昨日と同じ、驚くほど薄い塩味と、わずかに焦げた穀物の香りがする。
「ロア」
スープを運ぶさじを置き、私は声を落として呼びかけた。
「何だ」
「これから、どこへ行くんですか」
ロアはさじを動かしたまま、スープの底に沈んだ灰色の具を見つめている。
「金がいる」
現実的な答えだった。
「この町は仕事が少ない。それに、俺もお前も、ここでは目立ちすぎる」
「もっと大きな場所なら、今よりは目立たずに済みますか」
「セイルへ行く。あそこなら、人も物も、ここよりずっと多い」
聞いたことのない、新しい地名だった。
「セイル……」
「大きな街だ。仕事もある」
私は椀の中の、不透明な灰色の液体を見つめた。
やっとの思いでこの町に辿り着いたのに、もう次の場所を目指して歩き出さなければならない。足の擦り傷はまだ熱を持って疼いているし、買い与えられた古い靴も、まだ私の足に馴染んでいない。
「セイルまでは、どれくらい歩くんですか」
「普通に歩けば、三日だ」
三日。
平原でロアの背中を追い、虚の恐怖に怯えながら歩き続けた、あの果てしない時間を思い出し、私の指先がわずかに凍りつく。それでも、私には彼についていく以外の選択肢は残されていない。
そのとき、少し離れた席から男たちの話し声が聞こえてきた。
「セイルで荷が、また止まっているらしい」
汚れた灰色の外套を椅子の背に引っ掛けた男が、杯を傾けながら吐き捨てるように言った。向かいの、顎に不揃いな髭を生やした男が、固いパンを指先で細かくちぎりながら鼻で笑う。
「セイルから北へ向かった連中が戻ってこないらしいからな」
北、という言葉が聞こえた瞬間、向かいのロアの動きが僅かに止まった。
私はさじを持ったまま、男たちの会話に神経を集中させる。
「水場もないのに水の音がしたとか、一本道のはずなのにいつの間にか元の場所に戻っていたとか。ただの気のせいだろ」
「それだけならな」
髭の男が、周囲の机を確かめるようにして、声を一段と潜めた。
「セイルで、見たって奴がいるんだ」
「何をだ」
「……不思議な色をした女だ」
椀を持っていた私の手が止まった。
「俺たちの肌とは違う、不思議な髪や目の色をした女が、セイルを通って北へ行ったって話だ」
「見間違いだろ」
「そうかもしれん。だが、北の砦へ続く道で、その女の姿を見たやつがいる。どこまで本当かは分からんがな」
宿の女将がその机に新しい椀を運んでいくと、男たちはそれ以上の話を止め、別の日常の不満へと話題を移した。
不思議な色をした女。
この世界の人とは違う、私と同じ「色」を持った人間が、この世界にいるのかもしれない。
「ロア」
自分でも驚くほど、かすれた声が出た。
ロアは表情を変えず、淡々とさじを動かしている。
「今の話、聞こえましたよね」
「噂だろう」
ロアは私の顔を見ようともせず、ただ短く切り捨てた。
「もしかしたら、私と同じように――」
「期待しすぎない方がいい」
遮るような、低い声だった。
「見間違いかもしれない」
もし本当にその人がいるのなら、私と同じように別の世界から来たのかもしれない。
ここがどういう場所なのか、そして、元の世界へ戻る方法を、彼女なら知っているのではないか。
早くそこへ行きたい。確かめたい。
けれど、男たちが話していたその人が、今もセイルにいる保証などどこにもない。ロアの言う通り、ただの聞き間違いや、光の加減で見えた錯覚かもしれない。
それでも、一度聞いてしまった以上、何も知らなかったことにはできない。
「セイルに行けば、その人のことも、分かるかもしれません」
ロアはしばらく黙っていた。
「期待しすぎないほうがいい。ただ、セイルへは行く。仕事、それから情報がいる」
「……はい」
私は小さく頷いた。
ロアにとって、セイルへ向かう理由は仕事と情報だ。けれど、私にはそれ以外の理由もできてしまった。
この町に着けば、少しは休めると思っていた。灰色の服に着替えれば、この世界で暮らし始められるような気もしていた。
実際は文字も読めず、どうやって働けばいいのかも、自分が何者なのかをどう説明すればいいのかも分からない。今の私には、一人で生きていく方法が何一つない。
だけど、セイルには不思議な色をした女の噂がある。
私は椀に残っていた汁を飲み干した。味は薄かったが、冷えかけていた指には椀の熱が残っている。
宿の外を荷車が通る音が聞こえてくる。
私も、またこのエルシアの町を出る。
灰色の服を着て、灰色の靴を履いても、この世界の人には見えないまま。
私は胸の中で、セイル、という名前を何度も繰り返した。
その名前を忘れないように、私は胸の中でもう一度繰り返した。




