第8話 エルシアの町
町に近づくにつれて、遠くからは分からなかった壁のひびや、石の継ぎ目がはっきりと見えてきた。
灰色の石を積み上げた壁は、私の背丈の何倍もの高さがあり、上には人が歩けそうな幅の通路が続いている。門の左右には見張り台のような四角い張り出したところがあった。道の上を荷車を押す人や、背中に大きな荷物をくくりつけた人たちが、一列になって順番に中へ吸い込まれていく。
人々の話し声が、ざわざわと風に混じって聞こえる。
車輪がきしむ高い音もする。門の向こう側から、誰かが怒鳴るような声が響き、別の低い声がそれに言い返している。平原では風と草の音ばかりを聞いていたため、いくつもの雑音が一度に耳へ入ってくることで落ち着かなさを覚える。
ロアは門の手前、人の列から少し外れた場所で足を止めた。
私が追いつくと、ロアは門へ向けていた顔をこちらへ動かす。
「そのまま行くな」
「え」
ロアは足元の乾いた土へしゃがみ込み、指先で地面をこすった。指先が灰色に汚れたのを見ると、立ち上がって私の正面に立つ。次の瞬間、ざらついた指先が私の頬へ押し当てられた。
私は思わず肩を後ろへ引く。
「じっとしてろ」
低い、短い声だ。
ロアの指先が、今度は私の額の端と顎のあたりを乱雑に擦る。鏡がないので、自分の顔がどうなっているのかはわからない。私は右手の指先で自分の頬を軽く触ってみた。指先に、平原の土と同じ乾いた土が薄く付着する。きれいに化粧を施すのではなく、ただ平原を這い回って汚れたように見せているのだ。
「町では、その顔の方がましだ」
そう言って、ロアは腰の袋から、灰色のフード付きの外套を引っぱり出した。薄い布地だが横幅が広く、頭からかぶれば膝のあたりまでを覆い隠せそうだ。
「かぶっていてくれ」
私は差し出された外套を両手で受け取る。
「これをですか」
「髪も服も隠しておく」
言われて、私はその薄い灰色の布を頭からかぶった。
首元まで深く布がかかり、私の青緑色の長い髪が完全に隠れる。白かったノースリーブのワンピースも、膝のあたりまではすっぽりと覆われた。腕や胸元も布の影に隠れる。これなら遠目には、門をくぐる町の人たちの中に紛れられそうだ。ただ、フードのせいで視界が少しだけ狭くなった。
病人か、顔を隠して旅をする不審な女のようにも思える。それでも、今の自分がこの世界でどれほど異様に見えるかは分かっている。この方が目立たないだろう。
「大丈夫か」
「はい」
そう答えて一歩を踏み出したものの、足の裏はすでに限界だった。道が平らになっていたから何とかここまで歩けただけで、足を動かすたびに、布の下で擦れた傷が熱を持って疼く。
門の脇には、長い槍を斜めに立てかけた男が二人立っている。
そのうち一人がロアの顔に気づき、眉間を狭めた。
「ロアか」
「ああ」
短く返しただけで、ロアは速度を落とさずに門をくぐろうとする。
男の視線が、ロアのすぐ後ろを歩く私へと移った。頭からかぶった灰色の外套の隙間から、私の顔を覗き込もうとする。私は視線を足元へ落とし、男と目が合わないように顔を伏せた。
「そっちは?」
「ミオリ村から一緒に来た」
ロアが代わりに答える。
男は私の足元へ視線を落とした。外套の裾から覗くふくらはぎには泥が跳ね、靴も履かずにボロ布を巻きつけただけの足が、乾いた土を踏んでいる。旅の格好とも言いにくい、半端で奇妙な姿に見えるはずだ。
「通るなら端へ寄れ。今、荷が入る」
私は小さく息を吐き、首を縦に振って了解を示す。
ロアが男の脇をすり抜けながら答えた。
「ああ」
「面倒は起こすなよ」
「必要なものを買うだけだ」
男はしばらくロアの背中を睨んでいたが、やがて視線を正面の道へと戻した。これ以上の追及をするつもりはないらしい。
ロアが門を通り抜け、私もそのすぐ後ろにぴったりとついて歩く。門番の男たちの前を通り過ぎるとき、右側に立っていた男がほんの少しだけ身体を引いたのが分かった。
ロアに触れたくないのだ。
ミオリ村の人たちが彼に向けていた、あの距離感と同じものが、ここにもあった。
門を通り抜けて数歩進んだところで、ロアが前を歩いたまま、背後に向けて低く言った。
「宿に入るまでは被っておけ」
私は声を出さず、フードの奥で頭を動かした。門の内側へ入ったからといって、世界が変わるわけではない。髪や服の白さをさらけ出せば、門番以外の通行人の目を引くことになる。
外套の内側にはじっとりとした熱がこもっていたが、私はフードの端を手で押さえ、ロアの背中から遅れないように歩いた。
門の先には、灰色の広い通りが正面に向かってまっすぐ延びている。
道の両側には、目の粗い石や割れた煉瓦を積み上げた建物が並んでいる。平屋ばかりだったミオリ村とは異なり、二階建てや三階建ての建物も多い。壁の表面には無数の細かいひびが走り、屋根の端が欠けた家もある。それでも窓には木製のよろい戸がつき、人が生活している気配がどの建物からも漂っている。建物の隙間からは灰色の煙がまっすぐ立ち上り、焦げた穀物のような乾いた匂いが私の鼻をかすめた。
灰色一色だが、この町は確実に呼吸している。
道の端では、男たちが木箱を地面へ下ろし、店先では女が棚に並んだ品物を手で整えている。子どもが二人、建物の狭い隙間をすり抜けるようにして走り去っていった。
木壁にかかった板には、墨のような黒い線で文字が書かれている。
どれも私には読めない。道標の文字と同じように、短い線と不揃いな点が並んでいるだけで、意味を持たない記号にしか見えなかった。看板の形や吊るされた場所から、それが店の名前なのか、あるいは売っている物の種類を示しているのかを、辛うじて推測できる程度だ。
私は外套の隙間から通りを見回す。
靴を売っている店があるかもしれない。
まともな服も、水を入れる容器も、それから下着も。
必要なものを思い浮かべているのに、気持ちは少しも軽くならない。人が多い。歩くたびに、周囲からの視線が肌を刺すように感じられる。
実際、通りのあちこちから、私たちに向けて視線が動く。
ロアを見る人々の目には明確な警戒があり、フードを深くかぶって歩く私には、不審な旅人を見るような戸惑いが向けられている。誰も声をかけてはこないが、すれ違ったあとにわざわざ立ち止まり、こちらを振り返るものもいた。
「こっちだ」
ロアが歩幅を狭める。
私は慌てて視線を前へ戻した。
通りの右端へ寄ると、中央の人の流れから少し外れた。そこには簡素な木の台を置いた露店が並び、灰色の布地や、干した草の束、太い縄、木の器などが乱雑に積まれている。私はその中の一軒の前で、思わず足を止めた。
古びてはいるが、靴が並んでいる。
左右の形が合っていない革靴や、底の厚い頑丈そうな靴が、木台の上に山積みになっていた。どれもくすんだ灰色で、誰かが長い間履き潰した跡が、泥の汚れとなって残っている。
「見てみるか」
ロアが足を止め、店へ顔を向ける。
私は黙って首を縦に振る。
店番の女が椅子の背にもたれたままこちらを見て、すぐに私の外套の下から覗く足元へ視線を落とした。
「その足じゃ、ここまで来るのもしんどかっただろうね」
答えるより前に、ロアが靴の山へ手を伸ばす。
「細い足に合うものはあるか」
「子ども用なら、そっちの箱にあるよ」
女の言葉に、私は首を左右に振った。
「子どもではありません」
自分で思っていたよりも尖った声が出たが、女は気にした様子もなく肩をすくめた。
「なら、そこの革のやつだ。新品じゃないけどね」
女が後ろの木箱から、一足の灰色の靴を引っ張り出す。
私はそれを凝視した。
布を巻いただけの足に比べれば、どんな靴でもありがたいはずだった。だが、他人の履き古した跡が残る靴を前にすると、自分から手を伸ばすことを躊躇ってしまう。
「履いてみるか」
ロアが靴を見つめたまま言った。
私は黙って近くの石段の端に腰を下ろし、足に巻きつけていたボロ布をゆっくりとほどいた。泥を吸って硬くなった布が皮膚から剥がれるたび、平原で擦れた足裏の傷口が、冷たい空気に触れてひりひりと痛む。町の中で裸足をさらすのは恥ずかしかったが、そうしなければ靴を試すこともできない。
布をすべて取り去ると、赤黒く腫れた足の裏が露出した。
私は小さく息を吸い込み、傷を刺激しないように女の差し出した靴へ足を滑り込ませる。ぴったりとは合わない。指の先に少し隙間があり、歩くたびに踵が浮きそうだ。それでも、革の底が地面との間を隔ててくれるだけで、石の尖った感触が直接足の裏に伝わらなくなる。
ゆっくりと立ち上がってみる。
傷口が圧迫されてやはり痛む。けれど、地面を踏みしめたときの痛みの鋭さは、布だけのときとは明らかに違っていた。
「歩けそうかい」
女に聞かれ、私は地面の感触を確かめるように二、三歩だけ足を動かした。
「……たぶん、歩けます」
かすれた声で答える。
「中に布を少し詰めれば、隙間が埋まって歩きやすくなるよ」
女は手元の籠から、靴の隙間に詰めるための細く裂いた灰色の布をいくつか取り出して並べた。ロアがその様子を見て、腰の斜め掛けの袋へ手を差し入れる。
「待ってください」
私の口から、拒絶に似た言葉が滑り落ちた。
ロアの手が袋の口で止まる。
「あとで、必ず返します」
言った直後に、自分には返す手段が何もないことに気づいた。この世界のお金など一枚も持っていないし、働く当てもない。文字すら読めない。どうやって、いつ、何を返すのか、具体的な計画など何一つないのだ。
それでも、ただ黙って彼に金を出してもらうことだけは、どうしても受け入れがたかった。ロアは少しだけこちらに視線を向け、すぐに靴の上の女の手元へ目を戻す。
「今は気にするな」
「でも」
「歩けないやつを連れている方が面倒だ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
ただ、冷たく突き放すような響きは含まれていない。
私はそれ以上、何も言えなかった。唇を噛み締め、ロアが袋から取り出した小さな金属の塊を女へ渡すのを見つめる。
女は二人の顔を見比べ、何も言わずにその金属を受け取った。やり取りは一瞬で終わり、灰色の古い靴は私の足に収まった。
私は自分の足元を見つめる。
くすんだ灰色の、誰かが履き潰した古い革靴だ。
これだけで、自分が本当に町へたどり着いたのだという実感が、遅れて胸の奥に湧いてきた。ロアが通りの先へ向かって歩き出そうとし、不意に足を止めて振り返る。
「服もいる」
私は顔を上げた。
「え」
「替えがないだろう」
指摘されて、返す言葉が見つからなかった。
その通りだった。今着ている白のワンピースしかない。泥で汚れ、平原の草に擦れて細い糸がほつれている。これが濡れたり破れたりすれば、もう他に着るものはなかった。その下に着けている下着についても、まともな状態ではない。だが、そういう事情を、異性のロアからはっきりと言葉にされると、耳が急に熱くなる。
「服は、その……」
「必要なものだ」
ロアは私の躊躇いを無視するようにして、通りの少し先にある服を吊るした露店へ向かって歩き出した。私は外套の裾を握り締め、遅れて彼の後ろを追う。
そこには、灰色の様々な形の衣服が並んでいる。どれもくすんだ色をしているが、形は少しずつ異なる。丈の長い外套のようなもの、前を紐で合わせるもの、簡素な丸首のシャツ。女の店番が私をひと目見ると、フードの下から僅かに覗く顔と、外套の裾から露出した膝下へ、ねっとりとした視線を走らせた。
「旅の人かい」
ロアが私の前に立つようにして答える。
「替えと、下着がいる」
下着、という単語が彼の口から平然と滑り出た瞬間、私はその場から逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、店番の女は表情を変えなかった。日常的な取引をこなすだけの、冷淡な手つきで棚の布地を整理している。
「体に合うのを見た方が早いね。こっちに来な」
私は一瞬身構えたが、女の促すような視線に押され、店の奥の薄暗いスペースへ足を進めた。女は私の肩幅と、腰の位置を手のひらで大雑把に測り、棚からいくつかの灰色の衣服を引っ張り出す。その中の一着は、私が今着ているワンピースとは全く異なる仕立てだった。
胸元は丸く開いているが、肩は厚い生地で覆われている。袖があり、腰の部分に細い紐がついていて、それを絞って形を整えるらしい。丈はちょうど膝のあたりまであり、背中側には薄いフードが縫い付けられている。
この町の女たちが着ている、普通の衣服の形だ。
もちろん、色はすべて灰色だ。
「これなら目立ちにくいよ」
店番が服の表面を叩きながら言った。
目立ちにくい。
私はその言葉に引かれるようにして、灰色の服の裾へ指先で触れた。
下着についても同様だった。胸に巻きつけるさらしのような布と、腰に固定するだけの、飾り気のない簡素な布を差し出される。どれもただの灰色の布切れで、特別な工夫があるわけではない。
「これでいいです」
一刻も早くこのやり取りを終わらせたくて、私は女が最初に出した一揃いを指さした。店番の女は私の顔を見つめ、僅かに口元を緩める。
支払いは、またロアが袋から取り出した平らな金属で済まされた。
私はその間、新しく手に入れた服と下着を胸に抱えたまま足元を見ていた。靴だけでなく、下着や替えの服まで、すべて彼に揃えてもらっている。
こんなふうに生活のすべてを他人に委ねるつもりではなかった。
命を救われ、生活を支えられているありがたさを感じる一方で、自分の足で立てていないことへの焦りが、胸の底へ溜まっていく。
「宿へ行こう」
ロアが短い声をかけた。
私は小さく頭を動かし、彼の斜め後ろについて歩き出した。
通りを数十歩進んだ先、木の看板を軒先に吊り下げた二階建ての建物が見えてくる。看板に彫られた文字は私には読めなかったが、人の出入りがあり、一階の窓から温かい穀物の匂いが漂っている。ロアは躊躇うことなく、その重い木製の扉を手で押し開けた。
建物の中は、外の平原よりもずっと薄暗かった。
削り出された木の長い机がいくつか並び、奥の大きな竈からは白い湯気が勢いよく上がっている。壁の棚には丸いガラス瓶がいくつも並び、荷を運んできたらしい男たちが、低い声で言葉を交わしている。
宿の女将らしい、恰幅の良い女が竈の前から顔を上げた。
「二人かい」
「ああ。部屋を一つ」
ロアの言葉に、私は思わず彼の横顔を見上げた。
部屋を、一つ。
女将は私とロアの姿を値踏みするように見比べたが、特に事情を詮索するようなことはしなかった。ただロアが差し出した金属を受け取り、壁に掛けられていた錆びた鍵を一つ外して、テーブルの上に置く。
「二階の突き当たり。飯はまだ出せるよ。湯は少し待ちな」
湯、という響きに、私の肌がかすかに反応した。平原の泥や汗を洗い流せるかもしれない。しかし、ロアは無言で鍵を掴み、奥の階段へと向かった。
軋む木の階段を上がると、薄暗い廊下の両側に木扉がいくつか並んでいる。突き当たりの鍵穴にロアが鍵を差し込み、扉を開けた。
部屋は狭かった。
壁際に木製の簡素な寝台が二つ置かれ、中央に小さな机が一つある。それだけだ。窓は小さく、木枠にはめられた板が閉まっている。
平原の休憩所よりずっと人のいる場所なのに、扉を閉めると急に静かになった。外の喧騒が遠のき、張り詰めていた肩の力がようやく抜けていく。
私は抱えていた服を机の上へ置き、壁際に背中を預けた。
ロアは女将から借りてきたらしい、水の入った木桶を部屋の隅の床に置く。
「先に使え」
「何をですか」
「便所と水だ」
言われて、私はその場に立ち尽くした。
確かに必要だった。平原を歩いている間中ずっと我慢していたし、足の汚れも落としたい。だが、そういうことまで口に出されると、恥ずかしくて逃げだしたくなる。
ロアは私の戸惑いを気にする様子もなく、淡々と言い添えた。
「建物の裏にある。女将に聞けば教えてくれる」
私は買ったばかりの服を抱え直し、小さくうなずいて部屋を出た。
一階へ戻って女将に聞くと、彼女は裏口を顎で示した。
「建物の裏。板囲いが二つ並んでる。左側を使いな。済んだら灰をかけるんだよ」
私は言われた通り、裏口の木扉を押して外へ出た。
宿の裏手は、建物の影になっていて薄暗い。粗末な板で囲まれた小さな小屋が二つ並んでいた。左側の板扉を開けて中に入る。
踏み板の床に、楕円形の暗い穴が一つ開いているだけだった。
横には灰の入った木桶と、水が半分ほど入った小桶が置かれている。
流れない。
その光景を見た瞬間に、理解した。
私は穴の前に立ち尽くした。ボタンを一つ押すだけで、白い陶器の便器から澄んだ水が音を立てて流れ去っていく、あの清潔な病室の光景が頭をよぎる。ここにはそんなものはない。用を足したあと、杓子で灰をすくって穴の底へ落とし、小桶の水で手を洗う。それだけだ。
町に入り、文明の気配に触れたと思った矢先に、こうした剥き出しの生活の現実が、私をこの世界の底へと引きずり戻す。
用を済ませて外へ出ると、冷たい空気が頬を撫で、ようやく胸のつかえが少しだけ軽くなった。小桶の残った水で手を洗い、顔を上げる。裏口の隙間から、煮汁の匂いと男たちのくぐもった話し声が聞こえてくる。
部屋に戻ると、ロアの姿はなかった。一階の食堂へ下りたのだろう。
私は頭にかぶっていた灰色の外套を外し、机の上へ置く。
それから、あの森からずっと着続けていた、ノースリーブの白いワンピースを脱いだ。肩紐を外し、生地が身体から離れると、少し肌寒く感じた。
そして、手に入れたばかりの、新しい灰色の下着を身につける。
胸に巻きつけるための幅の広い布は、締め付けの加減が分からず、何度も巻き直した。腰に固定する布も、慣れない手触りに戸惑いながら、何とか体に固定する。
その上から、新しい服を頭からかぶった。
生地が肩を厚く覆う。
胸元はこれまでよりも広く開いているが、肩が隠れているだけで、むやみに肌を晒しているという感覚は薄れた。腰の細い紐を引き絞ると、布地が体に寄り添い、動きやすくなる。
鏡がないので、自分がどのような姿になっているのかは全くわからない。それでも、このくすんだ灰色の生地を身に纏っているだけで、この町の住人たちに少しだけ近づけたような、奇妙な安堵感があった。
私は脱ぎ捨てた白いワンピースを両手で持ち上げる。
白い。
色が失われたこの世界において、その生地の白さは、それだけで周囲の視線を集める不自然な光のようだった。脱いで手元に置いてみると、つい先ほどまで自分が身に着けていたはずの衣服なのに、まるで他人の残していった異物のようにも思える。私はその白い布を小さく畳み、鞄の底へと押し込んだ。
灰色の古い革靴を履き、床に足を踏み下ろす。
足はまだ痛む。けれど、さっきまでよりずっと楽だ。
扉を開け、二階の薄暗い廊下を通り抜けて一階の食堂へと下りる。
ロアは、食堂の一番隅にある、日の当たらない机に一人で座っていた。私が階段を下りていく足音に気づき、一度だけ顔を上げて私を見る。
何かを言うことはなかった。
だが、私の着ている衣服が変わったことには、気づいたのだと分かる。
私は無言のまま、ロアの向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらくすると、宿の女将が湯気の立ち上る木皿を二つ、私たちの前に置いた。
皿の上には、水っぽいスープと、表面の固い薄切りのパン、それに柔らかく煮込まれた豆と根菜が少しだけ乗っている。ごちそうとは言えないけれど、何日もまともな食事を摂っていなかった私には、それで十分ありがたかった。
スープをすくい、口に含む。
味は、驚くほど薄い。塩気と、かすかな穀物の匂いがするだけだ。
けれど、冷え切っていた胃の奥に、その温かい液体が染み込んでいく。
「食えるか」
ロアがパンの端をちぎりながら聞いた。
私は小さくうなずく
「はい。温かいです」
パンは固かったが、噛んでいるうちに微かな甘みが染み出してくる。豆は柔らかく、根菜はところどころ繊維が残っている。病院のベッドの上で配膳されていた食事とも、かつて自宅で適当に済ませていた料理とも、何から何まで違っている。
けれど、今の私には十分だった。
隣の机では、数人の男たちが杯を片手に、頭を突き合わせて低い声を交わしている。
そのうちの一人が、木の杯をテーブルに叩きつけるようにして言った。
「北の山の方へ行った連中が、また戻ってないらしいな」
スープを運ぶ私の手が、止まる。
別の肩幅の広い男が鼻で笑った。
「また、どころの話じゃない。ここ数週間の間に、何人もだ」
「あの山脈は、どうもおかしい」
「景色がぼやけてまともに見えねえとか、何もないところでいきなり水の音が聞こえてくるとか、ろくでもない噂ばかりだ」
「命が惜しいなら、しばらく北の砦へ続く道には近づかないこった」
話している男たちの声は、怯えよりも、関わりたくないという感じだ。私はさじを持ったまま、男たちの言葉に神経を集中させた。
「荷運びの連中も、みんな北への道は避けてるって話だ」
「向こうから戻ってきた交易商の話を聞いたか? 景色が変化したとか、自分の位置が分からなくなったとか言っていたそうだ」
その一言で、隣の机の談笑がふっと途切れた。男たちは互いの顔を見合わせ、黙って杯の中身を飲み干す。
私は木皿を持つ指先に、ぐっと力を込めた。
景色のぼやける。自分の位置が定まらない。水もないのに、水の音が聞こえる。
平原の休憩所の壁に刻まれていた『水の音を追うな』という警告。そして、町へ入る直前に、私たちが目撃した、あの山と平原の境に漂っていた青い色。
すべての断片が、北の山脈という一つの方向に向かって、論理的に繋がっていく。
宿の女将が竈の火を棒で突きながら、男たちの机へ向けて鋭い声を飛ばした。
「飯のときくらい、そういう不確かな話はよしな」
「だが、実際に行方不明者は出てるんだろ」
「出てるからこそ、曖昧なことは言わないに限るさね」
それで、男たちの会話は完全に打ち切られた。
私はゆっくり息を吐き出した。
水の音を追うな。
休憩所の壁にあった言葉が、また頭に浮かんだ。平原で聞いた、あの『ざあっ』という水が流れる音。あれは聞き間違いでも、気のせいでもなかったのだ。ここへ来ても、あの異変の話は続いている。
私はスープの残りを口へ運びながら、向かいに座るロアを見た。
ロアは表情を変えず、淡々と手を動かし続けている。だが、彼の耳もまた、隣の机の会話を漏らさず拾っていたはずだ。
「ロア」
「何だ」
「北には、何があるんですか」
ロアはすぐには答えなかった。
固いパンをちぎり、スープの底へ深く浸してから口へ運ぶ。飲み込むまでの間、私は彼の薄い唇が動くのをじっと待った。
「さあ」
返ってきたのは、それだけだった。
知っていて私に隠しているというより、ロアも知らないみたいだった。
私はそれ以上聞かなかった。
食事が終わる頃には、身体の冷えが少しだけやわらいでいた。足には靴があり、体にはこの世界に馴染む灰色の衣服がある。今夜は、確かな屋根があり、鍵のかかる扉の内側で眠れる。
これまでの日々に比べれば、状況は確実に好転しているはずだ。
けれど、男たちの声が、頭からどうしても離れてくれない。
部屋へ戻ると、二階の廊下はすでに窓からの光を失い、深い闇に包まれている。
私は部屋の木扉を閉め、鍵をかけてから靴を脱いだ。寝台に腰を下ろし、新しい灰色の服の袖を指先でつまんでみる。肩がしっかりと覆われている。そんな些細なことだったが、少しだけ安心する自分がいる。
ロアは向かいの寝台へ腰を下ろし、壁に背中を預けた。
部屋は静かだった。
扉を一枚隔てただけで、一階の食堂の話声も、外の通りを歩く人々の足音も完全に遮断される。平原の冷たい風に晒され、崩れた休憩所の床で朝を待っていた時に比べれば、ここはずっと安全な場所だった。
「寝ろ」
ロアが短く言った。
私は顔を持ち上げる。
ロアはすでに目を閉じ、それ以上の会話を拒むようにして、深い呼吸に入っている。
私は小さく息を吐き出し、寝台の上で体を横たえた。
寝台は固かったが、平原の石や休憩所の床よりずっとましだった。
意識が薄れかけたとき、遠くの方から、ざあ、と水が流れるような音が聞こえた気がした。
私は一度だけ瞼を開く。
町の中の風の音かもしれない。誰かが夜中に水を溢した音かもしれない。
水の音を追うな。
頭に浮かんだあの文字を、私は意識の底へ押し戻すようにして、再び深く目を閉じた。




