第7話 町の手前
休憩所を離れてから、どれくらい歩いたのか分からない。
空は朝から変わらず薄い灰色で、太陽の位置も見えない。ただ、私たちの影は足元へ短く落ちている。朝よりかなり時間が過ぎているはずだ。
道は緩やかな起伏を繰り返しながら、灰色の平原をまっすぐ延びている。
低い草の間から突き出した石を避け、土が平らな場所を選んで歩く。それでも足を踏み出すたび、布を巻いた足の裏が痛む。布の下で傷が擦れ、硬い場所を踏むと、かかとから指の付け根まで鋭い痛みが走る。
私が遅れると、少し先を歩いているロアの歩幅が小さくなる。
振り返って声をかけることはない。私が追いつくまで速度を落とし、距離が縮まると、また前を向いたまま歩き続ける。
「まだ町は見えないんですね」
私が聞くと、ロアは道の先を見つめたまま答える。
「この先だ」
「あと、どれくらいですか」
「分からない」
聞かなければよかったと思いながら、私は足元へ視線を戻した。
しばらく進むと、道の様子が変わり始める。
土の上に残る二本の車輪跡が深くなり、その隣にも別の車輪が通った跡が何本も重なっている。人の靴跡や、先が二つに分かれた動物の足跡も残っている。
これまで歩いてきた道には、誰かが通った跡はなかった。
でも、ここには荷車も、人も、何度も通っている。
「町が近いんですか」
ロアが少しだけこちらを向く。
「荷車の跡があるから、遠くはないと思う」
さっきよりは分かりやすい答えだった。
足の痛みは変わらない。それでも、道の上に残る靴跡を見つめていると、もう一歩前へ足を出す力が沸いた。
やがて道の幅が広くなり、二つに分かれる。
私たちが歩いてきた道は、そのまま正面へ続いている。もう一本は右へ分かれ、低い草の間を斜めに進んだあと、緩やかに曲がって見えなくなっている。どちらの道にも車輪の跡があるが、正面の道の方が深く、通った荷車の数も多い。
分かれ目には、灰色の木で作られた道標が立っている。
地面に差し込まれた太い柱の上に、細長い板が二枚打ちつけられている。一枚は正面、もう一枚は右を指している。板の表面には文字が彫られているが、休憩所の壁に刻まれていたものと同じように、私には線の集まりにしか見えない。
「道標ですね」
ロアが柱の前で止まる。
正面を指す板に顔を近づけ、彫られた文字を一つずつ確かめている。
「何て書いてありますか」
「エルシア」
ロアは正面の道を指さす。
「こっちが町だ」
私は右を指す板を見る.
「右は?」
「水鏡湖」
「湖があるんですか」
「ああ。この道を行けば着くらしい」
右へ続く道の先には、草と低い丘しか見えない。湖の水面も、湖へ下りる斜面も、ここからは確認できない。
「昨日から聞こえている水の音は、その湖の音なんでしょうか」
ロアは右の道を見たあと、首を左へ向ける。
「さっきの音は、こっちから聞こえたと思う」
ロアの視線の先には、正面の道を挟んで反対側にある、左手の平原が続いている。
そこには乾いた土と低い草だけが続いている。
水鏡湖が右にあるのなら、左から聞こえた水音は湖のものではない。
そう思った瞬間、左手の平原から、ざあっという音が聞こえる。
浅い川を、大量の水が勢いよく流れていくような響きだ。
長くは続かなかった。数秒で途切れ、あとは風に擦れる草の音だけが残る。
私は左を向いた。
道から数十歩離れた場所まで、乾いた灰色の草が生えている。その向こうにも同じ平原が続き、水はどこにも見えない。
「今の音ですね」
「ああ」
「湖は右ですよね」
「ああ」
ロアは左の平原を見つめたまま答える。
「左に川でもあるんですかね」
「そうは見えないな」
見えないだけで、草の向こうに川があるのかもしれない。
私は背伸びをして平原の奥を見た。地面はほとんど平らで、川が通っているなら見えるはずだ。
風が右から吹き抜け、道の両側の草が一斉に左へ傾く。
私の髪も頬へかかる。手で押さえているうちに風は弱まり、倒れていた草が少しずつ起き上がっていく。
その直後だ。
左手の平原で、道から少し離れた場所の草が、大きく動いた。
今は風が吹いていない。
けれど、その上を歩く人も、動物もいない。
私は目をこすり、同じ場所を見る。
灰色の草が風もないのにわずかに揺れている。それ以外には何も見えない。
「今、あそこの草が、動きましたよね」
「ああ。俺にも見えた」
ロアも、草が揺れた場所を見続けている。
そのとき、また水の流れる音が聞こえる。
今度は左ではない。
私たちが進む正面の道、そのずっと先からだ。
私は前を向く。
車輪跡が残る乾いた道が、低い丘の向こうへ続いている。道の両側にも川や水路はない。水鏡湖へ向かう分かれ道は、もう私たちの後ろだ。
「今度は前からですね」
「ああ」
「さっきは左でした」
ロアは答えず、道の先を見ている。
同じ水の音が、今度はまったく別の方向から響く。
水鏡湖は右にある。左にも正面にも、水が流れている場所は見当たらない。
私は音が聞こえた場所を探すのをやめた。
水の音を追うな。
休憩所の壁に彫られていた文字と、ロアが読み上げた言葉を思い出した。
誰かが、わざわざ壁を削って残した警告だ。
「行かない方がいいですね」
「ああ」
ロアは短く答えるが、すぐには歩き出さない。
右手にある水鏡湖への道ではなく、そのさらに遠くを見ている。
私もロアの視線を追った。
平原の向こうには白霞山脈が見える。灰色の山が幾重にも連なり、その裾が平原と重なっている。
私は一度、瞬きをする。
山の位置が、おかしい。
一番高い山が正面に見えていたと思ったのに、今は右に見える。
もう一度山を見る。
今度は、山が正面にある。
「山の位置が、変わって見えます」
ロアは返事をしない。
私より先に気づいていたのか、山の裾から目を離さない。
私は自分の立っている場所を確かめるため、足元へ目を向けた。
布を巻いた足が、乾いた土を踏みしめている。道の端には車輪の跡があり、その先には道標が立っている。近くの物は動いていない。
もう一度、遠くの山へ目を戻す。
山の裾に、灰色ではない部分が混じっている。
横に細長く、淡い青がたゆたっている。
山と平原の境目の辺りが、薄い青色に変わっている。幅は遠くから見ても分かるほどあり、左右へ長く延びている。
私は頬の横へ落ちていた自分の髪を手で後ろへ払う。
髪が視界に入っているわけではない。
青色が遠くの景色の中にある。
「青……」
声に出したあとで瞬きをすると、青色は消えている。
山も平原も、元の灰色に戻っている。境目も、今ははっきり見える。
「今、青い色が見えましたよね」
「青とは何だ?」
そうだった。この世界の人は、色の名前を出してもこの反応が返ってくる。
灰色しかないのだから、色は、濃いか、薄いかなのだろう。
ロアが私の足元を見て言った。
「町へ急ごう」
布には土が染み込み、ところどころ表面が擦り切れている。足を少し動かしただけで、傷のある場所が痛む。
青が見えた場所へ行くには、車輪跡のある道から外れ、草と石の多い平原を歩かなければならない。
水の音を追うなと残した人も、あの青を見たのかもしれない。
それでも、今の私には確かめに行くことはできない。
「はい」
ロアがエルシアを指す道へ歩き出す。
私は道標のそばを離れる前に、もう一度だけ山の裾を見た。
青色ではない。
乾いた平原と、灰色の山がただ連なっている。
私もロアのあとを追った。
道はしばらく平らに続いたあと、緩やかな上り坂へと変わる。車輪跡に沿って上るが、足へ体重をかけるたびに痛みが増す。
先に坂を上りきったロアが足を止める。
ロアは右でも左でもなく、まっすぐ前を見つめている。
「見えた」
私は残りの坂を上り、ロアの隣へ並んだ。
平原の先に、長い壁が見える。
灰色の石を積んだ壁が、道を挟んで左右へ延びている。中央には大きな門があり、その向こうには何列もの屋根が並んでいる。屋根の間から細い煙が何本も上がっている。
門の前には荷車が止まっている。
荷台に積まれた木箱の横で人が動き、門へ入る者と出てくる者がすれ違っている。壁の外にも小さな建物があり、道の脇には荷物を背負った人の姿が見える。
エルシアの町だ。
灰色の壁も、灰色の屋根も、今まで見てきた景色と同じ色をしている。
それでも、あそこには人がいる。
靴を売る店があるかもしれない。足に巻く新しい布も、着替える服も、食べ物も手に入るかもしれない。今夜は、屋根の半分が崩れた休憩所ではなく、壁と扉のある場所で眠れるかもしれない。
「やっと着くんですね」
「まだ距離はある」
「でも、見えています」
ロアは何も言わず、坂を下り始めた。
私も町の門を見ながら、そのあとを追う。
ここからなら、道を間違えることはない。
荷車の車輪跡も、人の靴跡も、すべて正面の門へ続いている。
坂を下り始めたとき、背後の平原から、もう一度だけ水の流れる音が聞こえた。
私は振り返ることなく、町の門を見つめたまま、ロアのあとを歩き続けた。




