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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第2章 奪った色
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第7話 町の手前

休憩所を離れてから、どれくらい歩いたのか分からない。

空は朝から変わらず薄い灰色で、太陽の位置も見えない。ただ、私たちの影は足元へ短く落ちている。朝よりかなり時間が過ぎているはずだ。


道は緩やかな起伏を繰り返しながら、灰色の平原をまっすぐ延びている。

低い草の間から突き出した石を避け、土が平らな場所を選んで歩く。それでも足を踏み出すたび、布を巻いた足の裏が痛む。布の下で傷が擦れ、硬い場所を踏むと、かかとから指の付け根まで鋭い痛みが走る。


私が遅れると、少し先を歩いているロアの歩幅が小さくなる。

振り返って声をかけることはない。私が追いつくまで速度を落とし、距離が縮まると、また前を向いたまま歩き続ける。


「まだ町は見えないんですね」


私が聞くと、ロアは道の先を見つめたまま答える。


「この先だ」

「あと、どれくらいですか」

「分からない」


聞かなければよかったと思いながら、私は足元へ視線を戻した。

しばらく進むと、道の様子が変わり始める。

土の上に残る二本の車輪跡が深くなり、その隣にも別の車輪が通った跡が何本も重なっている。人の靴跡や、先が二つに分かれた動物の足跡も残っている。


これまで歩いてきた道には、誰かが通った跡はなかった。

でも、ここには荷車も、人も、何度も通っている。


「町が近いんですか」


ロアが少しだけこちらを向く。


「荷車の跡があるから、遠くはないと思う」


さっきよりは分かりやすい答えだった。

足の痛みは変わらない。それでも、道の上に残る靴跡を見つめていると、もう一歩前へ足を出す力が沸いた。


やがて道の幅が広くなり、二つに分かれる。

私たちが歩いてきた道は、そのまま正面へ続いている。もう一本は右へ分かれ、低い草の間を斜めに進んだあと、緩やかに曲がって見えなくなっている。どちらの道にも車輪の跡があるが、正面の道の方が深く、通った荷車の数も多い。


分かれ目には、灰色の木で作られた道標が立っている。

地面に差し込まれた太い柱の上に、細長い板が二枚打ちつけられている。一枚は正面、もう一枚は右を指している。板の表面には文字が彫られているが、休憩所の壁に刻まれていたものと同じように、私には線の集まりにしか見えない。


「道標ですね」


ロアが柱の前で止まる。

正面を指す板に顔を近づけ、彫られた文字を一つずつ確かめている。


「何て書いてありますか」

「エルシア」


ロアは正面の道を指さす。


「こっちが町だ」


私は右を指す板を見る.


「右は?」

「水鏡湖」

「湖があるんですか」

「ああ。この道を行けば着くらしい」


右へ続く道の先には、草と低い丘しか見えない。湖の水面も、湖へ下りる斜面も、ここからは確認できない。


「昨日から聞こえている水の音は、その湖の音なんでしょうか」


ロアは右の道を見たあと、首を左へ向ける。


「さっきの音は、こっちから聞こえたと思う」


ロアの視線の先には、正面の道を挟んで反対側にある、左手の平原が続いている。

そこには乾いた土と低い草だけが続いている。

水鏡湖が右にあるのなら、左から聞こえた水音は湖のものではない。


そう思った瞬間、左手の平原から、ざあっという音が聞こえる。

浅い川を、大量の水が勢いよく流れていくような響きだ。

長くは続かなかった。数秒で途切れ、あとは風に擦れる草の音だけが残る。


私は左を向いた。

道から数十歩離れた場所まで、乾いた灰色の草が生えている。その向こうにも同じ平原が続き、水はどこにも見えない。


「今の音ですね」

「ああ」

「湖は右ですよね」

「ああ」


ロアは左の平原を見つめたまま答える。


「左に川でもあるんですかね」

「そうは見えないな」


見えないだけで、草の向こうに川があるのかもしれない。

私は背伸びをして平原の奥を見た。地面はほとんど平らで、川が通っているなら見えるはずだ。

風が右から吹き抜け、道の両側の草が一斉に左へ傾く。

私の髪も頬へかかる。手で押さえているうちに風は弱まり、倒れていた草が少しずつ起き上がっていく。


その直後だ。

左手の平原で、道から少し離れた場所の草が、大きく動いた。

今は風が吹いていない。


けれど、その上を歩く人も、動物もいない。

私は目をこすり、同じ場所を見る。

灰色の草が風もないのにわずかに揺れている。それ以外には何も見えない。


「今、あそこの草が、動きましたよね」

「ああ。俺にも見えた」


ロアも、草が揺れた場所を見続けている。

そのとき、また水の流れる音が聞こえる。

今度は左ではない。

私たちが進む正面の道、そのずっと先からだ。


私は前を向く。

車輪跡が残る乾いた道が、低い丘の向こうへ続いている。道の両側にも川や水路はない。水鏡湖へ向かう分かれ道は、もう私たちの後ろだ。


「今度は前からですね」

「ああ」

「さっきは左でした」


ロアは答えず、道の先を見ている。

同じ水の音が、今度はまったく別の方向から響く。

水鏡湖は右にある。左にも正面にも、水が流れている場所は見当たらない。


私は音が聞こえた場所を探すのをやめた。

水の音を追うな。

休憩所の壁に彫られていた文字と、ロアが読み上げた言葉を思い出した。

誰かが、わざわざ壁を削って残した警告だ。


「行かない方がいいですね」

「ああ」


ロアは短く答えるが、すぐには歩き出さない。

右手にある水鏡湖への道ではなく、そのさらに遠くを見ている。


私もロアの視線を追った。

平原の向こうには白霞山脈が見える。灰色の山が幾重にも連なり、その裾が平原と重なっている。


私は一度、瞬きをする。

山の位置が、おかしい。

一番高い山が正面に見えていたと思ったのに、今は右に見える。

もう一度山を見る。

今度は、山が正面にある。


「山の位置が、変わって見えます」


ロアは返事をしない。

私より先に気づいていたのか、山の裾から目を離さない。

私は自分の立っている場所を確かめるため、足元へ目を向けた。

布を巻いた足が、乾いた土を踏みしめている。道の端には車輪の跡があり、その先には道標が立っている。近くの物は動いていない。


もう一度、遠くの山へ目を戻す。

山の裾に、灰色ではない部分が混じっている。

横に細長く、淡い青がたゆたっている。


山と平原の境目の辺りが、薄い青色に変わっている。幅は遠くから見ても分かるほどあり、左右へ長く延びている。


挿絵(By みてみん)


私は頬の横へ落ちていた自分の髪を手で後ろへ払う。

髪が視界に入っているわけではない。

青色が遠くの景色の中にある。


「青……」


声に出したあとで瞬きをすると、青色は消えている。

山も平原も、元の灰色に戻っている。境目も、今ははっきり見える。


「今、青い色が見えましたよね」

「青とは何だ?」


そうだった。この世界の人は、色の名前を出してもこの反応が返ってくる。

灰色しかないのだから、色は、濃いか、薄いかなのだろう。

ロアが私の足元を見て言った。


「町へ急ごう」


布には土が染み込み、ところどころ表面が擦り切れている。足を少し動かしただけで、傷のある場所が痛む。

青が見えた場所へ行くには、車輪跡のある道から外れ、草と石の多い平原を歩かなければならない。

水の音を追うなと残した人も、あの青を見たのかもしれない。

それでも、今の私には確かめに行くことはできない。


「はい」


ロアがエルシアを指す道へ歩き出す。

私は道標のそばを離れる前に、もう一度だけ山の裾を見た。

青色ではない。

乾いた平原と、灰色の山がただ連なっている。


私もロアのあとを追った。

道はしばらく平らに続いたあと、緩やかな上り坂へと変わる。車輪跡に沿って上るが、足へ体重をかけるたびに痛みが増す。


先に坂を上りきったロアが足を止める。

ロアは右でも左でもなく、まっすぐ前を見つめている。


「見えた」


私は残りの坂を上り、ロアの隣へ並んだ。

平原の先に、長い壁が見える。

灰色の石を積んだ壁が、道を挟んで左右へ延びている。中央には大きな門があり、その向こうには何列もの屋根が並んでいる。屋根の間から細い煙が何本も上がっている。


門の前には荷車が止まっている。

荷台に積まれた木箱の横で人が動き、門へ入る者と出てくる者がすれ違っている。壁の外にも小さな建物があり、道の脇には荷物を背負った人の姿が見える。


エルシアの町だ。

灰色の壁も、灰色の屋根も、今まで見てきた景色と同じ色をしている。


それでも、あそこには人がいる。

靴を売る店があるかもしれない。足に巻く新しい布も、着替える服も、食べ物も手に入るかもしれない。今夜は、屋根の半分が崩れた休憩所ではなく、壁と扉のある場所で眠れるかもしれない。


「やっと着くんですね」

「まだ距離はある」

「でも、見えています」


ロアは何も言わず、坂を下り始めた。

私も町の門を見ながら、そのあとを追う。

ここからなら、道を間違えることはない。

荷車の車輪跡も、人の靴跡も、すべて正面の門へ続いている。


坂を下り始めたとき、背後の平原から、もう一度だけ水の流れる音が聞こえた。

私は振り返ることなく、町の門を見つめたまま、ロアのあとを歩き続けた。

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