第6話 まだ町は遠い
目を開けると、崩れかけた壁に刻まれた短い線が目に入る。
水の音を追うな。
私には読めない文字なのに、ロアが昨夜読んだ響きだけは、はっきりと頭に残っている。明るい光の下で見ても、やはり見慣れた文字ではなかった。細い線がいくつも並び、その周囲だけ壁の表面が浅く削れている。
壊れた屋根の隙間から、薄い灰色の空がのぞいている。入口の向こうでは、低い草が風に押されて同じ方向へ傾く。外の明るさからすると、もう朝になっているのだろう。
ロアは入口のそばに座っていた。壁に背中を預けているが、顔は外へ向いている。眠っているようには見えない。
「起きたか」
こちらを見ないまま、ロアが言った。
「……はい」
声を出すと、喉がひどく乾いていることに気付く。
体を起こそうとした瞬間、足の裏に鋭い痛みが走る。昨日巻き直した布は外れていない。けれど、擦れた傷が熱を持ち、足を床につけるだけでも痛む。
思わず顔をしかめる。
ロアがこちらを振り返った。
「歩けそうか」
すぐには答えられなかった。
歩けると言わなければ、ここに置いていかれる。そう思ったが、足の裏に体重をかける前から痛い。昨日よりよくなっているのか、悪くなったのかも自分では判断がつかない。
「歩きます」
ロアは私の足元を見たあと、何も言わずに少し黙る。
「無理なら、早めに言ってくれ」
「……はい」
歩けるかと聞かれたのに、歩きますと答えてしまった。答えになっていないことは自分でも分かっている。それでも、言い直す気にはなれなかった。
足に巻いた布へ手を伸ばしかけたところで、昨日のことを思い出す。
虚が迫ってきたとき、私はガラスペンを振った。何かを描こうと考えたわけではない。近づいてきた腕を払おうとしただけだった。
その瞬間、ロアが纏っていた灰色の何かが、ペン先へ引かれてきた。
同じことが、また起きるのだろうか。
「昨日の、、、また起きると思いますか」
ロアはすぐには答えず、外の平原へ一度視線をやる。
「分からない」
「……そうですよね」
それ以上の説明はなかった。
分からないことを、そのまま分からないと言われる。それでも、知っているふりをされるよりはましだ。
私は足に巻いた布を上から押さえ、結び目がずれていないことを確かめる。汚れてはいるが、石や硬い土を直接踏まずに済むだけでも助かっている。
ロアが立ち上がった。
「そろそろ出る」
私は袋の紐を肩に掛け、壁に手をついて立ち上がる。
足の裏へ一気に体重がかかり、私は奥歯を噛み締めた。声は出さなかった。ロアは入口の前で立っている。急かすことも、手を貸すこともしない。ただ、私が自分で歩き出すのを待っている。
詰所の外へ出ると、灰色の平原が目の前に広がっている。
中にいる間は、崩れた石壁も傾いた柱も邪魔に見えていた。床は硬く、屋根も半分落ちている。安心して眠れる場所ではない。それでも外へ出てみると、あの壁でもあった方がましだという気になる。
平原には低い草と土が続き、その先で低い灰色の空と重なる。昨夜聞こえた水の音は、今はしない。あれが本当に水の流れる音だったのか、確かめるものも見当たらなかった。
私は一度だけ詰所を振り返る。
入口からでは、壁の文字は見えない。誰があの言葉を残したのかも、その人が何を見たのかも分からないまま、私たちはそこを離れようとしている。
「気になるのか」
前を歩き始めたロアが言った。
「気になります」
隠しても仕方がなかった。
「でも、今は考えないことにします」
ロアがこちらを見た。
「そうだな」
そっけない言い方だったが、わざわざ確かめに行くべきではないという点では、ロアも同じ考えらしい。
私はそのあとを追い、道へ戻る。
道には草が少なく、灰色の土が細長く続いている。ところどころ石が沈み、昨日より明るくなった分、足を置く場所は選べた。
それでも、痛みがなくなるわけではない。
硬い土を踏むたび、足の裏へ痛みが響く。石を避けた先で、草に隠れた細い枝を踏んだ。歩いているうちに布も少しずつずれていく。巻き直したかったが、一度立ち止まれば、次の一歩を出すまでに時間がかかりそうだった。
ロアは少し前を歩いている。
私が遅れると、いつの間にか歩幅を小さくしていた。振り返って確認することはしない。心配しているような顔も言葉もない。でも、私だけを残して先へ行くことはなかった。
「町は、まだ見えないんですね」
平原の先には、建物らしいものが何も見えない。
「まだだな」
「昨日、昼過ぎには着くって言ってましたよね」
「何もなければ、たぶん」
何もなければ。
昨日の虚と、昨夜聞いた水の音を思い出した。何が起こるか聞いても、ロアにも答えられないのだろう。私はそれ以上何も言わず、前を見て歩いた。
草を踏む音と足元の土が擦れる音だけが続いた。
遠くに何かが見えても、近づくまでは石なのか崩れた柱なのか分からない。前にいた場所では、水の音がすれば近くに水があり、風の音がすれば何かが揺れていた。ここでは、聞こえた音と目の前の景色がつながらない。
水の音を追うな。
壁の言葉を思い出したとき、進む先から、ざあっという音が聞こえる。
一歩出しかけた足を戻した。
昨夜の音に似ている。風で草が擦れた音ではない。遠くで水が流れているときの音だった。
ロアも足を止める。
平原の先へ顔を向けたまま、何も言わない。私も耳を澄ませたが、それきり水に似た音は聞こえなかった。風に押された草が擦れ合っているだけだ。
「……今の、聞こえましたか」
「ああ」
ロアは短く答え、遠くの方を見続けている。
私のいる場所からは、低い草が続いているようにしか見えない。水面も、川へ下りる斜面もなかった。
もう歩き出してよいのか迷っていると、遠くで再び、ざあっと鳴る。さっきよりも短いが、やはり水の流れる音に聞こえた。
「……今のが、壁に書いてあった水の音なんですか」
ロアは右手を見たまま、しばらく黙っていた。
「分からない」
水の音を追うな。
本当に水があるなら、場所を確かめたかった。水場がないのに音だけがするのなら、何が鳴っているのか知りたい。けれど、音のした方へ進めば、町へ続く道から外れる。誰が書いたのか分からない警告でも、わざわざ壁に残した理由はあるはずだ。
私は右手の平原を見ず、ロアが歩き始めるのを待つ。
ロアが前へ進んだ。
私も古い道から外れないように、彼が踏んだ土の上を歩く。
水の音はもう聞こえない。聞こえなくなると、さっきの音が本当に水だったのか、自信がなくなってくる。
町へ行けば、靴があるかもしれない。替えの服も、水を入れる物も、食べ物も手に入るかもしれない。
だが、どれだけ歩いても町は見えなかった。
「少し休むか」
ロアが前を向いたまま聞いた。
私は返事に迷う。
今すぐ座って、足の布をほどきたかった。傷がどうなっているのかも確かめたい。けれど、ここで座れば、立ち上がるときにまた足へ体重をかけなければならない。詰所はもう遠く、戻ることもできない。
「もう少し歩きます」
ロアは何も言わなかったが、歩く速さを落とした。
私はそのあとを歩く。
小屋を出たときも、昨日の平原でも、ロアは私が遅れると歩幅を変えていた。私が気づいていなかっただけで、ロアは何も見ずに先を歩いていたわけではない。
だからといって、信用できると決めたわけではない。
しばらく進むと、足元の土が硬くなり、道の幅も広くなる。二本の細長いくぼみが続いている。荷車の車輪が何度も通った跡に見えた。
「ここ、町へ行く道なんですよね」
「ああ」
ロアは前を見たまま答える。
この道を人や荷車が通るのなら、町へ近づいているはずだ。そう思って先を見ると、低い石の列が見える。
町の外壁かもしれない。
痛む足をかばいながら近づいたが、町ではなかった。土が低く盛り上がり、その脇に崩れた石が並んでいるだけだ。その向こうにも、家や壁は見えない。
「町は……」
聞きかけたところで、言葉を止めた。
答えは分かっている。
まだだ。
足を引きずらないように気をつけながら、もう一歩進む。
灰色の平原は先まで続いている。水の音は聞こえない。右手にも水場らしいものは見えなかった。
私はロアのあとを追う。
町は、まだ遠かった。




