第5話 水の音を追うな
眠ろうとしても、壁の傷が気になって、なかなか目を閉じられない。
短い線がいくつも並んでいる。その少し横には、別の浅い傷もある。最初は壁が削れただけに見えたのに、見ているうちに、誰かが何かを書こうとして残した跡のように思えてくる。
暗くて形までははっきり見えない。
それでも、ただの傷とは思えなかった。
誰かが、ここに何かを残した。
私には、それが文字なのかどうかも分からない。見慣れた文字とは違っている。けれど、刃で削っただけの傷とも違って見える。
入口のそばで、ロアは外を見ている。
背中はこちらを向いていた。壊れた入口の向こうには、暗くなった平原が広がっている。風が抜けるたびに草が擦れ、倒れた板がどこかで小さく鳴った。
「ロア」
小さく呼ぶと、ロアが少しだけ顔を向ける。
「何だ」
「壁のこれ、文字ですか」
私は壁の傷を指さした。
ロアはすぐには答えなかった。いったん外へ目を戻し、しばらく平原を見てから、ゆっくり立ち上がる。
床の土を踏む音が近づいた。
私は少しだけ身を引く。
ロアは私のそばまで来たが、すぐ横までは寄らなかった。壁の前で片膝をつき、壁の傷を見つめている。指で触れず、目だけで線を追っているようだ。
「ロアは読めるの?」
「少しだけなら」
私は壁を見る。
私には、短い線と削れた跡にしか見えない。この世界の文字なのか、ただの印なのかも分からない。
「何て書いてあるんですか」
ロアはすぐには答えなかった。
壊れた屋根の隙間から、暗い空が見える。夜なのに真っ黒にはならず、灰色が濃くなっただけの空が、屋根の穴からのぞいていた。
ロアは壁を見つめたまま言う。
「水の音を追うな」
何を言っているのか意味がわからなかった。
「水の音、ですか」
「ああ」
「どこの」
ロアは間を置かずに答える。
「この休憩所の近くに水場はない。川もない。井戸も残ってない」
それなら、なおさら分からない。
私は壁の傷を見つめた。
水の音を追うな。
誰かがここで、その言葉を残した。休みに立ち寄った人なのか、荷を運んでいた人なのか、この道を見張っていた人なのかは分からない。けれど、その人は、あとから来る誰かに伝えるつもりで書いたはずだ。
「どういう意味ですか」
ロアは立ち上がらないまま言った。
「分からない」
そこまで言って、私は口を閉じた。
ロアの横顔はいつもと変わらない。けれど、ただ知らないことを聞かれたときの返し方には見えない。
「この印は、他でも見たことがある」
「どこで」
「古い道沿いだ。そこも水場の近くじゃない」
水のない場所に、水の音を追うなと残されている。
それだけで、胸がざわついた。
「追ったら、どうなるんだろう」
ロアは答えなかった。
さっき、分からないと言っていた。ロアにも、それ以上はわからないのだろう。
私も黙る。
外で草が擦れる音がした。
私は入口のほうへ目を向ける。暗い平原は、さっきと同じように広がっている。風が草を揺らし、遠くの地面と空の境目が分かりにくくなっていた。
それなのに、さっきまでと同じ景色には見えない。
水の音を追うな。
「どこで、聞こえるんだろう……」
独り言みたいに声が出た。
ロアは入口のほうを見ている。
そのときだった。
遠くで、ざあっと、何かが流れるような音が聞こえる。
私は顔を上げた。
風とは違う。草が一斉に擦れる音でもない。かすかに耳に届き、すぐに消えた。
水だ。
そう思った瞬間、指先が微かに震える。
「今の」
ロアが片手を上げた。
私はそこで口を閉じる。
もう一度、ざあっと聞こえた。
今度は少し長い。
どこかで水が流れているみたいな音だった。けれど、ここには川も井戸もないとロアは言った。雨も降っていない。水の音がするはずがない。
「ロア」
声がうまく出なかった。
ロアは入口へ戻った。外へ出るのではなく、壊れた入口の内側で足を止める。
「動かないほうがいい」
私はうなずいた。
ロアは外を注視している。
その背中を見ながら、私は次の音を待ってしまった。
しばらく、何も聞こえない。
草の音だけがする。
それでも、さっき聞こえた水みたいな音は耳に残っている。白い部屋で聞いた水道の音とは違う。雨でも川でもない。聞いたことのない流れ方だった。
「外は、どんな様子なの?」
ロアは答えなかった。
私は膝を抱えた。足の裏の痛みがまたはっきりしてくる。布の下で擦れたところがじわじわ痛む。体は疲れているのに、目だけが冴えていた。
私は壁の文字らしい傷へ目を戻す。
水の音を追うな。
それを書いた人は、今の音を聞いたのだろうか。追っていった誰かを見たのだろうか。そして、その誰かは戻ってこなかったのだろうか。
考えても、わかるはずもない。
「町に行けば、何か分かるかもしれないですね」
ロアが少しだけこちらを見た。
それだけだった。
町へ行けば、少しはましになると思っていた。靴や服や食べ物があれば、今より楽になると思っていた。
けれど、まだ私の知らないことが多すぎる。
水の音のこと。壁の文字のこと。灰色の世界のこと。
ガラスペンだけじゃない。私自身、この世界のことを何も知らない。
「私は、この世界のことを何も知らないです」
口にすると、自分でも情けない声に聞こえた。
ロアはしばらく黙っていた。
「ああ」
私は顔を上げる。
ロアは入口の外を見つめたままだった。
「髪や肌の色も服も、この辺りの人間とは違う。この灰色の中で、お前だけ色がある。水を見ても火を見ても、人の顔を見ても、初めて見るみたいに驚く。文字も読めない。なのに言葉は通じる」
不意を突かれて、言葉を失う。
言われてみれば、その通りだった。私は何度も変な反応をしている。灰色の水を前に立ち止まり、灰色の火を見て戸惑い、村の人の顔を見て言葉を失った。
ロアが気づいていないはずがなかった。
「ロアは、最初から変だと思っていたんですか」
「思ってた」
短い返事だった。
「じゃあ、どうして聞かなかったんですか」
ロアはすぐには答えなかった。
外では、もう水の音はしなかった。草が擦れる音だけが、入口の向こうから入ってくる。
「聞いたら、答えてくれるのか」
私は言葉に詰まった。
どこから来たのか。なぜここにいるのか。どうしてガラスペンを持っていたのか。
そのどれも、私自身が分かっていない。
「……分かりません」
「なら、同じだ」
「同じ?」
「俺も知らない。お前が何なのかも、そのペンが何なのかも」
そこでロアは、ようやく少しだけこちらを見た。
「でも、町に行けば、聞かれるかもしれない」
私は膝の上の袋を見つめた。
ガラスペンだけではない。私自身も、この世界では隠しきれないものを抱えているのかもしれない。
「そうですね」
「なるべく人と関わらないようにするつもりだ。目立たないようにも」
ロアの声は低かった。
怒っているわけではない。けれど、冗談で流せる話でもなかった。
私は壁の文字を見つめる。
水の音を追うな。
今聞こえた音のことだけを言っているのか、それとも、正体の分からないものに近づくなという意味なのか、私にはわからない。
私は昨日から、分からないことばかり増えていってる。
この世界のこと。ロアのこと。ガラスペンのこと。灰色の平原のこと。今聞こえた水の音のこと。
そして、私自身のこと。
どれも、そのままにはしておけない。
どうすればいいのかわからず、私は膝の上の手を握り締める。
ロアはしばらく入口に立っていたが、やがて壁際へ戻った。私から少し離れた場所に腰を下ろし、入口が見える向きのまま背を預ける。
「休もう」
「眠れる気がしません」
「目を閉じていろ。明日も歩く」
言い方は短かった。けれど、突き放された感じはしなかった。
私は壁際に体を寄せた。床は硬く、背中に石の冷たさが当たる。足を引き寄せると、巻き直した布が擦れてまた痛んだ。
目の前には、壁の傷がある。
水の音を追うな。
私には読めないその言葉を、頭の中で何度もなぞる。
しばらくして、また遠くで何かが鳴った気がした。
水だったのか、草だったのか、もう分からない。
私は目を開けなかった。
追ってはいけない。
そう思いながら、膝の上の袋に手を置く。
入口のほうでは、ロアが黙って外を見ている。
私はその背中がそこにあることだけを確かめて、今度こそ目を閉じた。




