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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第2章 奪った色
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第5話 水の音を追うな

眠ろうとしても、壁の傷が気になって、なかなか目を閉じられない。


短い線がいくつも並んでいる。その少し横には、別の浅い傷もある。最初は壁が削れただけに見えたのに、見ているうちに、誰かが何かを書こうとして残した跡のように思えてくる。

暗くて形までははっきり見えない。

それでも、ただの傷とは思えなかった。


誰かが、ここに何かを残した。

私には、それが文字なのかどうかも分からない。見慣れた文字とは違っている。けれど、刃で削っただけの傷とも違って見える。


入口のそばで、ロアは外を見ている。

背中はこちらを向いていた。壊れた入口の向こうには、暗くなった平原が広がっている。風が抜けるたびに草が擦れ、倒れた板がどこかで小さく鳴った。


「ロア」


小さく呼ぶと、ロアが少しだけ顔を向ける。


「何だ」

「壁のこれ、文字ですか」


私は壁の傷を指さした。


ロアはすぐには答えなかった。いったん外へ目を戻し、しばらく平原を見てから、ゆっくり立ち上がる。

床の土を踏む音が近づいた。

私は少しだけ身を引く。


ロアは私のそばまで来たが、すぐ横までは寄らなかった。壁の前で片膝をつき、壁の傷を見つめている。指で触れず、目だけで線を追っているようだ。


「ロアは読めるの?」

「少しだけなら」


私は壁を見る。

私には、短い線と削れた跡にしか見えない。この世界の文字なのか、ただの印なのかも分からない。


「何て書いてあるんですか」


ロアはすぐには答えなかった。

壊れた屋根の隙間から、暗い空が見える。夜なのに真っ黒にはならず、灰色が濃くなっただけの空が、屋根の穴からのぞいていた。


ロアは壁を見つめたまま言う。


「水の音を追うな」


何を言っているのか意味がわからなかった。


「水の音、ですか」

「ああ」

「どこの」


ロアは間を置かずに答える。


「この休憩所の近くに水場はない。川もない。井戸も残ってない」


それなら、なおさら分からない。


私は壁の傷を見つめた。

水の音を追うな。

誰かがここで、その言葉を残した。休みに立ち寄った人なのか、荷を運んでいた人なのか、この道を見張っていた人なのかは分からない。けれど、その人は、あとから来る誰かに伝えるつもりで書いたはずだ。


「どういう意味ですか」


ロアは立ち上がらないまま言った。


「分からない」


そこまで言って、私は口を閉じた。

ロアの横顔はいつもと変わらない。けれど、ただ知らないことを聞かれたときの返し方には見えない。


「この印は、他でも見たことがある」

「どこで」

「古い道沿いだ。そこも水場の近くじゃない」


水のない場所に、水の音を追うなと残されている。

それだけで、胸がざわついた。


「追ったら、どうなるんだろう」


ロアは答えなかった。

さっき、分からないと言っていた。ロアにも、それ以上はわからないのだろう。

私も黙る。


外で草が擦れる音がした。

私は入口のほうへ目を向ける。暗い平原は、さっきと同じように広がっている。風が草を揺らし、遠くの地面と空の境目が分かりにくくなっていた。


それなのに、さっきまでと同じ景色には見えない。

水の音を追うな。


「どこで、聞こえるんだろう……」


独り言みたいに声が出た。

ロアは入口のほうを見ている。


そのときだった。

遠くで、ざあっと、何かが流れるような音が聞こえる。


私は顔を上げた。

風とは違う。草が一斉に擦れる音でもない。かすかに耳に届き、すぐに消えた。

水だ。

そう思った瞬間、指先が微かに震える。


「今の」


ロアが片手を上げた。

私はそこで口を閉じる。

もう一度、ざあっと聞こえた。

今度は少し長い。

どこかで水が流れているみたいな音だった。けれど、ここには川も井戸もないとロアは言った。雨も降っていない。水の音がするはずがない。


挿絵(By みてみん)


「ロア」


声がうまく出なかった。

ロアは入口へ戻った。外へ出るのではなく、壊れた入口の内側で足を止める。


「動かないほうがいい」


私はうなずいた。


ロアは外を注視している。

その背中を見ながら、私は次の音を待ってしまった。

しばらく、何も聞こえない。

草の音だけがする。


それでも、さっき聞こえた水みたいな音は耳に残っている。白い部屋で聞いた水道の音とは違う。雨でも川でもない。聞いたことのない流れ方だった。


「外は、どんな様子なの?」


ロアは答えなかった。

私は膝を抱えた。足の裏の痛みがまたはっきりしてくる。布の下で擦れたところがじわじわ痛む。体は疲れているのに、目だけが冴えていた。


私は壁の文字らしい傷へ目を戻す。

水の音を追うな。

それを書いた人は、今の音を聞いたのだろうか。追っていった誰かを見たのだろうか。そして、その誰かは戻ってこなかったのだろうか。

考えても、わかるはずもない。


「町に行けば、何か分かるかもしれないですね」


ロアが少しだけこちらを見た。

それだけだった。


町へ行けば、少しはましになると思っていた。靴や服や食べ物があれば、今より楽になると思っていた。

けれど、まだ私の知らないことが多すぎる。

水の音のこと。壁の文字のこと。灰色の世界のこと。

ガラスペンだけじゃない。私自身、この世界のことを何も知らない。


「私は、この世界のことを何も知らないです」


口にすると、自分でも情けない声に聞こえた。

ロアはしばらく黙っていた。


「ああ」


私は顔を上げる。

ロアは入口の外を見つめたままだった。


「髪や肌の色も服も、この辺りの人間とは違う。この灰色の中で、お前だけ色がある。水を見ても火を見ても、人の顔を見ても、初めて見るみたいに驚く。文字も読めない。なのに言葉は通じる」


不意を突かれて、言葉を失う。

言われてみれば、その通りだった。私は何度も変な反応をしている。灰色の水を前に立ち止まり、灰色の火を見て戸惑い、村の人の顔を見て言葉を失った。

ロアが気づいていないはずがなかった。


「ロアは、最初から変だと思っていたんですか」

「思ってた」


短い返事だった。


「じゃあ、どうして聞かなかったんですか」


ロアはすぐには答えなかった。

外では、もう水の音はしなかった。草が擦れる音だけが、入口の向こうから入ってくる。


「聞いたら、答えてくれるのか」


私は言葉に詰まった。

どこから来たのか。なぜここにいるのか。どうしてガラスペンを持っていたのか。

そのどれも、私自身が分かっていない。


「……分かりません」

「なら、同じだ」

「同じ?」

「俺も知らない。お前が何なのかも、そのペンが何なのかも」


そこでロアは、ようやく少しだけこちらを見た。


「でも、町に行けば、聞かれるかもしれない」


私は膝の上の袋を見つめた。

ガラスペンだけではない。私自身も、この世界では隠しきれないものを抱えているのかもしれない。


「そうですね」

「なるべく人と関わらないようにするつもりだ。目立たないようにも」


ロアの声は低かった。

怒っているわけではない。けれど、冗談で流せる話でもなかった。


私は壁の文字を見つめる。

水の音を追うな。

今聞こえた音のことだけを言っているのか、それとも、正体の分からないものに近づくなという意味なのか、私にはわからない。


私は昨日から、分からないことばかり増えていってる。

この世界のこと。ロアのこと。ガラスペンのこと。灰色の平原のこと。今聞こえた水の音のこと。

そして、私自身のこと。

どれも、そのままにはしておけない。


どうすればいいのかわからず、私は膝の上の手を握り締める。

ロアはしばらく入口に立っていたが、やがて壁際へ戻った。私から少し離れた場所に腰を下ろし、入口が見える向きのまま背を預ける。


「休もう」

「眠れる気がしません」

「目を閉じていろ。明日も歩く」


言い方は短かった。けれど、突き放された感じはしなかった。

私は壁際に体を寄せた。床は硬く、背中に石の冷たさが当たる。足を引き寄せると、巻き直した布が擦れてまた痛んだ。


目の前には、壁の傷がある。

水の音を追うな。

私には読めないその言葉を、頭の中で何度もなぞる。


しばらくして、また遠くで何かが鳴った気がした。

水だったのか、草だったのか、もう分からない。

私は目を開けなかった。


追ってはいけない。

そう思いながら、膝の上の袋に手を置く。

入口のほうでは、ロアが黙って外を見ている。

私はその背中がそこにあることだけを確かめて、今度こそ目を閉じた。

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