第4話 平原の休憩所
ロアは、ようやく人が一人通れそうな細い道から外れる。
私は少し遅れてその背中を追う。道を一歩外れただけで、足の裏に返ってくる土の硬さが変わる。さっきまで踏んでいた踏み固められた平地がなくなり、湿った草が布を巻いた足首に当たる。草の間に隠れていた小石を踏んだ瞬間、鋭い痛みが足の裏に走った。
「こっちでいいんですか」
ロアは振り返らず、平原の右手を示した。
「あそこへ行く」
私はその先を見つめる。
低い草の向こうに、崩れかけた石壁と傾いた柱が立っている。何かの形だけが残っているが、建物なのか、それともただの石の塊なのか、ここからではまだ判別できない。
「……あれですか」
「ああ」
空はさっきより暗さを増している。石壁も柱も、少し目を離すと周りの草と同じ灰色に溶けてしまいそうに見える。
町はまだ見えない。
このまま日が落ちて暗くなれば、足元も道も見失う。足の裏の傷はずっと疼いたままだ。それでも、この広い平原で立ち止まるよりは、前を歩くロアの背中を追うほうがましだった。
近づくにつれて、それがかつて人の手で作られた石壁だとはっきりしてくる。ところどころ崩れ、灰色の草に埋もれながらも、壁の形をかろうじて保っている。
やはり、建物の跡だった。
屋根は半分ほど落ち、柱も一本、斜めに傾いている。壁は石と古い木を噛み合わせて作られていた。入口らしい隙間に扉はなく、割れた板が泥の上に倒れている。人が暮らす家というよりは、道を行く人が荒野の雨風を避けて一晩をしのぐための場所に見えた。
水辺の小屋とは意味が違う。
あの小屋は森の木立の中に隠れるように建っていたが、ここは見通しのいい平原にぽつんとあり、遠くからでも見つけられる。身を隠す場所というより、荒野を進む人が目印にする通過点なのだと思った。
ロアが入口の前で足を止める。
「ここですか」
「ああ」
「入っていいんですか」
ロアはすぐには答えなかった。
私は入口の奥をのぞき込む。中は真っ暗ではない。壊れた屋根の隙間から細い灰色の光が差している。それでも外よりは薄暗く、奥の様子まではよく見えない。
ロアは片手を軽く上げて私を制し、一人で中へ入っていった。
私は入口の外に立ち止まったまま、平原を見回す。さっきまで歩いてきた細い道筋は、もう草と土の灰色に紛れて見分けがつかない。遠くの草むらが一度だけ不自然に揺れた。風のせいなのか、それとも別の何かが通ったのか、目で見ているだけでは判断できない。
中で、木がきしむ鈍い音が響く。
「ロア?」
呼んだあとで、声を出すべきではなかったと後悔した。遮るもののない平原の中で、自分の声だけがやけに響いた。
やがて、入口の奥でロアの影が動く。
「入っても大丈夫だ」
私は地面に倒れた板をまたいで、中へ足を踏み入れた。
床は硬い土で、ところどころに平らな石が埋まっている。壁際には、壊れて引き出しの外れた棚が残されていた。屋根が残っている側なら雨は防げそうだが、反対側は梁が折れ、その向こうに低い灰色の空がそのまま覗いている。
「ここは何ですか」
「昔の見張り詰所だ。休憩所としても使われていた」
ロアは壁際へ歩き、床に落ちていた割れた板を足で脇へ寄せた。
「町へ行くやつや、荷を運ぶやつが、ここで夜を越した」
「今は、誰も使っていないんですか」
「俺みたいに使うやつはいる。住みついているわけじゃないが」
私は中を見回す。
壁には刃物で削り取ったような傷がいくつも刻まれていて、床の隅には、火を焚いたあとらしい灰が残っている。けれど今は、人の気配も荷物もない。壁の傷も床の黒ずみも、長い間そのまま放っておかれた冷たさがある。
人の手で作られた場所なのに、誰もいない。
森の小屋よりも広いのに、こちらのほうがひどく空っぽに見える。壁も床も残っているのに、誰かが戻ってくるような気配はまったく感じられない。
「座ってていい」
ロアに言われ、私は壁際の低い石に腰を下ろした。
腰を落ち着けた途端、足の裏の痛みがはっきりと戻ってくる。濡れた布が肌に張りつき、指の間には砂粒が残っている。痛む足を少し動かそうとしただけで、鋭い刺激が走った。
思わず顔がゆがむ。
ロアがこちらへ目を向けた。
「足を見せてみろ」
「大丈夫です」
すぐに答えてしまったが、大丈夫なはずはない。最後のほうはロアに遅れないようついていくだけで精一杯で、足を置く場所を選ぶ余裕もなかった。小石を踏むたび、奥歯を噛み締めていた。
ロアは腰のストラップから小さな革の水袋を外した。
「せめて洗っておいたほうがいい。汚れたままだと、明日もっと歩きにくくなる」
私は少しためらってから、その水袋を受け取る。
足に巻いていた布の結び目をほどく。布は泥と水分を吸って重くなり、結び目が固く締まっている。指先でなんとかほどいて広げると、足の裏には細かい擦り傷がいくつも増えていて、親指の横の皮が薄くめくれている。周囲がすべて灰色だからこそ、自分の足ににじむわずかな血の赤さが、奇妙なほど生々しく浮き上がって見える。
水袋を傾けると、灰色の水が足の裏に落ちる。その冷たさに、足先がびくりと動く。指先で泥をぬぐい落とそうとするが、擦りむいた箇所にしみて、思わず指が止まる。
ロアは少し離れた場所に立っているが、手を貸そうとはしない。
その視線が手元に向けられていると思うと、落ち着かない。
「町には、明日には着けそうですか」
言葉を口にしたあとで、答えを聞くのが少し怖くなる。
ロアは壊れた入口のほうへ視線を投げた。
「何もなければ、昼過ぎには着くと思う」
私は汚れた布を両手で絞る。きれいにはならないが、泥を落としただけでも少し違う。
「何もなければ、って」
「さっきみたいなやつと、また遭遇しなければだ」
そこで私の手が止まる。
壊れた屋根の隙間から、暗くなりかけた空が見える。星も月もない。まだ夜になりきっていないのか、それともこの世界では夜になってもずっとこのままなのか、考えても分からなかった。
ロアは入口のそばに腰を下ろした。こちらに背を向けているが、そこが外の様子をいちばん見通せる場所だ。
私はほどいた布を足の裏に回して巻き直そうとする。しかし、きつく巻くと傷に障って痛むし、ゆるすぎれば歩いているうちにすぐにずれてしまう。何度かやり直しているうちに指先が思うように動かなくなり、結び目がうまく作れない。
そのとき、ロアが別の細い乾いた布を差し出してくる。
私は少し遅れてそれを受け取る。
「ありがとうございます」
ロアは返事をしなかった。
布は古びているが、さっきの泥まみれの布よりは格段に乾いていて柔らかい。足に巻きつけると、地面の硬さから少し守られるような感覚がある。靴の代わりにはならない。町に着くまでの、その場しのぎにすぎない。それでも、明日また歩かなければならない私にとっては、何よりもありがたい。
私はガラスペンの入った袋を膝の上に置き直す。
「さっき、目の前に広がったものは」
そこまで口にして、私は次の言葉を失う。
それはロアのそばにいたから起きたのかもしれないこと。私だけの力ではなさそうだということ。その先の理屈は、ロアにも分からないままだということ。これらは平原で、ロアから聞いた。
私は膝の上の袋を見つめる。
今、胸の中で渦巻いているのは理屈ではない。
「……まだ、残ってるんですか」
ロアは外を見つめたまま言う。
「何がだ」
私は袋の紐をほどき、隙間からのぞき込む。
中のガラスペンは、暗い詰所の中でもかろうじてその輪郭が見える。透明だったはずの軸の奥に、薄い灰色がにじみ、残っている。昨日見えた、消え入りそうな淡い色とは違っている。濁ったものが、ガラスの底に重く沈んでいるように見える。
「これです。さっき虚と遭遇してから、消えていません」
ロアが一度だけ、こちらへ顔を戻す。
「俺にも、それが何かは分からない」
「町に着くまでに、元に戻ると思いますか」
「分からないな」
私は袋の口を閉じた。
「あなたの近くにいると、またこうなるんですか」
「さっきみたいなのは俺も初めてだ」
短い返事だ。
私は袋を握りしめる。
「でも、あなたの近くでは、虚が崩れて消えますよね」
ロアは答えなかった。
その沈黙が、私にまだ聞くべき問いが残されていることを告げている。
私は少しだけためらい、それから声を絞り出す。
「……人に対しても、同じことができるんですか」
ロアは、やはり何も答えなかった。
入口の外を見つめたまま、動かない。
その沈黙だけで、十分だった。
私は袋から目をそらす。ロアの近くにいると、人からも何かが失われ、崩れて消えてしまうのかもしれない。そして私の持つガラスペンは、その崩れ落ちた色を、強制的に引き寄せてしまうのかもしれない。
もし人のそばで同じことが起きたら、その人はどうなってしまうのか。考えたくもない。
「……怖いです」
声に出すと、自分の吐き出した言葉が思っていたよりも小さく震えている。
ロアは何も言わない。
壊れた屋根の隙間から見える空が、ますます暗く沈んでいく。
病室の白い天井を思い出そうとした。規則的な蛍光灯の並び。枕元の棚。描きかけのスケッチ。そこにあったはずのものを頭の中に並べようとしても、目の前にある灰色の石壁ばかりが先に割り込んでくる。
帰りたい。
口には決して出さなかったが、その言葉だけが、頭の中で鋭く浮かんでは消えた。
そのとき、建物の外で草の擦れる音がかすかに響く。
私は顔を上げる。ロアは、すでに外の闇を鋭く見据えている。
何も見えない。
入口から冷たい風が吹き抜け、どこかの板が小さくきしむ。遠くの草が揺れる。さっき襲ってきた虚が現れたときのような、地面を揺らす重い足音は聞こえない。
それでもロアは、しばらく身動き一つしない。
私は肩に力を入れたまま待つ。
やがて、ロアが静かに言う。
「風だ」
そこでようやく、私は浅く息を吐いた。
自分でもはっきりと自覚できるほど、肩の力が一気に抜ける。
「少し休んでおけ」
「あなたは寝ないんですか」
「先にお前が休め。あとで少し寝る」
それが本当なのか、ただの気遣いなのかは分からない。
私は壁際に体を寄せ、床の古い布の上に横になる。背中に地面の冷たさがじわりと伝わってくる。布を巻き直した足を引き寄せ、ガラスペンの袋を胸の前に強く抱え込む。
目を閉じかけたとき、壁に何かが刻まれているのに気づく。
最初はただの傷だと思った。けれど、短い線がいくつも規則的に並んでいる。文字のようにも見えるが、暗くて判別できない。そもそも、私にこの世界の文字が読めるのかも分からない。
「ロア」
呼びかけようとして、思いとどまる。
入口のそばで、ロアは黙って外を見張り続けている。今すぐ聞かなければならないことではない。明るくなってからでもいいはずだ。
そう自分に言い聞かせても、壁に刻まれた奇妙な線から目を離せない。
誰かが、かつてここに何かを残した。
ここに寝泊まりした旅人なのか、それとも、ここを守っていた誰かなのかは分からない。ただの傷ではない。灰色に沈んだ古い壁の上で、そこだけが、確かに人間がここに存在していた痕跡として残っている。
私は胸の前の袋を抱え直す。
外では、ロアが黙って平原を見つめている。遠くの町はまだ見えない。
私は壁の文字に似た傷跡を見つめながら、ゆっくりと重い目蓋を閉じた。




