第3話 借り物の色
灰野平原は、ついさっきまで虚が暴れていたとは思えないほど静かだった。
草はあちこちで倒れ、土には大きな足跡があり、ところどころ深くえぐれている。なのに、あの大きな体はどこにも見えない。あれだけ大きかったのに、残っているのは踏み荒らされた跡だけだった。
私はガラスペンを握ったまま、少し前を歩くロアのあとを追った。
手のひらがじんじん痛む。指を開こうとしても、すぐには開かない。力を入れすぎていたらしい。ペン先を見ても、さっきそこから広がった灰色の何かは、もう見えない。透明な軸の奥に見えるのは、昨日かすかに見えた色だけだ。
それなのに、あのときのことだけは頭から離れない。
私はただ、迫ってきた腕を払おうとしてペンを振っただけだ。そのとき、ロアの体にまとわりついていた灰色が私の手元へ流れ、そのままペン先から灰色の何かが広がった。見間違いかもしれない。そう思おうとしても、さっき見たものをなかったことにはできなかった。
「しまっておいたほうがいい」
前を歩いたまま、ロアが言った。
「……はい」
返事はしたのに、私はすぐに動けなかった。袋の口へ手を伸ばしても、そこで指が止まる。まだ何が起きたのか頭の中でまとまらず、手だけがさっきまでの形のまま固まっていた。
ロアが振り返る。視線が私の手元に落ちた。
その視線に急かされるように、私はようやくペンを袋に入れた。口を閉じても指先の力が抜けず、布の上から二度三度押さえる。
それを見て、ロアはまた前を向いた。私は数歩遅れてついていく。
「今の、何だったんですか」
自分でも止める前に声が出た。ロアの足が止まる。
「あの時、あなたの周りから灰色の何かが私の手元へ流れてきたように見えました。それが、私がペンを振ったとき、ペン先から虚へ広がった。あれは、私がやったんですか」
ロアはすぐには答えなかった。平原の先を見て、それから私を見る。
「お前がペンを振ったからああなったんだろうな」
「でも、昨日は虚に向けて振っても何も起こりませんでした」
「ああ。」
「今まで、ああいうことはありましたか?」
少し間があった。
「ない。さっきのは俺のそばにいたせいかもしれない」
「あなたがそばにいたから?」
「たぶん。俺は、虚から色を奪えるらしい。さっきも虚から奪って俺の体にまとっていた灰色が、お前のペン先に流れたように見えた」
私は袋を握り直した。
「じゃあ、私の力じゃない……」
「どういう理屈でああなるのかは分からない。でも、たぶん俺だけの力では、ああはならないし、お前だけでも同じことにはならないと思う。」
そこで言葉は切れた。
もっと聞きたかった。けれど、ロアの顔を見ていると、今ここで立ち止まって話し込む気にはなれなかった。
私はさっき虚が消えた方を振り返った。もうかなり離れている。
折れた草も、深くえぐれた場所も、遠くから見ると灰色の中に埋もれてしまう。あれだけ大きなものがいた場所なのに、少し歩いただけで、何があったのか分かりにくくなっていた。
「歩けるか」
ロアの声で前を向く。
「はい」
少し遅れて答えると、ロアはそれ以上何も聞かずに歩き出した。
しばらくは、草を踏む足音しかなかった。草が倒れてできた細い道筋から外れると、地面はすぐにやわらかくなる。湿った土が布を巻いた足に染み、石を踏むたびに足裏の傷がこすれた。膝についた土もそのままだ。払いたかったが、かがむのも面倒で、そのまま歩いた。
「ロアは」
口に出すと、自分の声が思ったよりはっきり聞こえた。ロアが歩く速さを少しだけ落とす。
「いつも、ああやって虚を追い払っているんですか」
「近づいて、色を奪う……」
うまく言えず、そこで言葉が切れた。
村では、ロアが近付くと虚が崩れるとだけ聞いた。けれど、言葉で聞くのと、目の前で体が崩れて消えていくのを見るのとでは、まるで違う。
「必要な時はやる。村から頼まれたときとか。それ以外は近づかないようにしている」
ロアは前を向いたまま言った。
私はロアの背中を見る。さっきはたしかに、ロアが虚から奪った灰色を体や衣服に纏っていた。でも、今はもう薄れていた。
あれは何だったのだろう。
ロアの中に入ったのか、そのまま消えたのか、それとも見えてないだけなのか。村の人たちがロアを避けていた理由も、あれと関係があるのかもしれない。
私は口を閉じた。
ロアがふいに片手を上げた。私は反射で足を止める。
「またですか」
声は自然と小さくなった。ロアは返事をせず、平原の右手を見る。私もそちらへ目を向ける。低い草が続いているだけに見える。風が吹き、草が一斉に同じ向きに倒れる。その中で、一か所だけ揺れ方が遅れる場所があった。
私はその揺れた場所を見た。
さっきみたいに何かが立ち上がるのかと思ったが、そうはならなかった。草の向こうで、黒い影のようなものが地面すれすれに動き、そのまま見えなくなる。
ロアはしばらくその方向を見ていたが、近づかなかった。
「行くぞ」
「今のは」
「遠いし、こっちへ来ないなら放っておく」
放っておいていいものなら、その方がいい。
そう思うと、少しほっとした。
歩き出してからも、私は袋の上から何度も中の形を確かめた。入れたのは自分なのに、手を離すと落ち着かなかった。
「それ」
前を向いたまま、ロアが言う。
私は袋を押さえたまま手を止めた。
「目立つから、町では見せない方がいい」
ガラスペンのことだとすぐに分かった。
私は袋を握る指に力を入れた。村の男がこれを見たときの目を思い出す。周りのざわめきも。あのときは、珍しいから見ているだけだと思っていた。けれど、目立つだけでも十分厄介なのかもしれない。このペンは、持っているだけで人の目を引く。
「エルシアの町は、どんなところですか」
ロアはすぐには答えなかった。足音と草の擦れる音だけが続く。
「ミオリ村より物が揃ってるし、人も多い」
返ってきたのは、それだけだった。
町へ行けば、靴があるかもしれない。服も、水を入れる物も、食べ物もあるかもしれない。ついさっきまで考えていたのはそれだけだった。けれど、町には人がいる。ミオリ村より大きい町。どんなところかは、わからない。
それでも、そこに行くしかない。
小屋はもう遠い。村にも長くはいられなかった。平原には、さっきみたいな虚がいる。ロアから離れれば、それだけで危ない。
私は袋の紐を握り直した。
袋の底のガラスペンは、さっきまでと同じただの硬い感触に戻っている。さっきペン先から広がった灰色の何かも、もう見えない。なのに、昨日ペンの中に残っていたかすかな色とは違っていたことだけは、はっきり覚えている。あれは私のものではなく、ロアのそばにいたから一瞬だけ借りただけのように思えた。
ロアは少し先を歩いている。
私はその背中を追いながら、もう一度だけ、虚が消えた方を振り返った。草も土も空も、どこを見ても灰色だった。気づくと、あたりは少し暗くなっていた。太陽は見えない。それでも、遠くの地面と空の境目が昼間より鈍く見える。ロアは前を見たまま、歩く速さを少し変えた。
「どうしたんですか」
「暗くなる前に、休める場所を探す」
休める場所。ロアは前にもそう言っていた。けれど、それが小屋なのか、岩陰なのか、風を避けられるだけの窪みなのか、私には分からない。
私は袋を押さえた。
町はまだ遠い。
さっき私が使ったものが何なのかも、まだ分からない。




