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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第2章 奪った色
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第2話 人ではないもの

それは、最初、人の姿に見えた。

灰色の平原の向こうに、ただ一つだけ直立している。距離があるせいで顔も服の形も分からない。低い草と石ばかりの中で、その影だけがまっすぐ立っていた。

ロアは動かない。私も、その場から一歩も動けずにいる。

風は吹いていない。草も、土も、空も、さっきまでと同じ灰色のままだ。それまでただ広いだけだった平原が、今は急に逃げ場のない場所に思えてくる。近くに木や岩の影はない。私たちとそれの間には、低い草と、ところどころ踏まれて固くなった土だけが続いている。


「下がれ」


ロアの低い声が響く。私はすぐには動けない。それが本当に人なら下がる必要はない、そう思おうとしたが、ロアの声はただの人を見つけたときのものではなかった。

遠くの影が、少し動く。

こちらへ近づいてくる。

けれど、その歩き方は明らかに人間とは異なっている。上半身がほとんど揺れないまま、不自然に長い脚だけを前に出す。顔も手もまだぼやけていて見えない。それでも、あんな歩き方をする人間がこの世界にいるとは思えなかった。


私は首から下げた袋の上から、ガラスペンを強く握りしめる。そうでもしていなければ、膝の震えに負けてその場にへたり込んでしまいそうだった。

影がまた一歩、前に出た。

まだ距離はあるが、長い腕が膝の近くまで垂れ下がっているのが見える。首は短く、鼻先から口元にかけて前へ突き出している。遠目にも体つきはごわごわと毛深く、獣に近い姿をしていた。


(うろ)だ。


「ロア」


思わず名前を呼んだ。

ロアは答えず、代わりに私の前へ半歩踏み出した。その背中を見つめながら、私はやはり動けずにいる。

虚が近づいてくる。距離が縮まるにつれて、虚はロアよりずっと大きいことが分かってきた。頭一つどころの差ではない。ロアが完全に見上げるほどの背丈がある。二本の脚で直立し、立ち方だけは人間に近い。けれど、足先は獣のように平たく大きく、地面を踏むたびに乾いた重い音が響く。

虚の腕が、ゆっくりと持ち上がった。肘から先が不自然に長く、指の先には爪のようなものがついている。掴まれれば、私の細い腕など簡単に折れてしまう。そう直感した。


そのとき、ロアが動いた。

大きく踏み込んだわけではない。その相手との距離を、ほんの少し詰めた。

長い腕がロアへ振り下ろされる。私は声を上げそうになった。その瞬間、虚の腕は、ロアの肩に届く前に削り取られた。

壊れたのではない。斬り落とされたわけでも、血や肉が飛び散ったわけでもない。そこにあったはずの灰色の体が崩れ、腕の先だけが最初から存在していなかったかのように形を失っていった。

虚は一瞬、不自然に動きを止めた。ロアはその場に立ち尽くしている。手を伸ばしたようにも見えなかった。それなのに、目の前の存在から左腕の先が消えている。失われた箇所から、灰色の毛と皮膚がぽろぽろと崩れていく。崩れ落ちた灰色は風に流されず、川の流れのようにロアへと吸い込まれていく。


消え去ったのではない。

何かが、ロアの方へ移動している。

そう確信した。

虚が喉を鳴らす。獣が唸るような低い地鳴りのような声だ。残された腕を地面へ近づけ、体を深く沈める。二本脚で立っているにもかかわらず、まるで四足の獣が跳びかかる直前のような姿勢をとった。

ロアの体は、引き寄せた灰色を纏っているように見える。

色と呼んでいいのかは分からない。ただ、虚の体から剥ぎ取られた灰色が、ロアの服や彼自身に薄い膜のようにまとわりつき、ゆらゆらと揺れている。


「下がってろ」


ロアが低く促す。

私は慌てて下がろうとした。

そのとき、布を巻いた足が泥のくぼみに引っかかり、体のバランスが大きく崩れる。地面に尻餅をつきそうになりながら、上体が後ろへ傾く。

転ぶ、と思った瞬間、虚はこちらを向いた。

ロアではなく、私を見ている。

濁った目元が細く歪む。削られた腕をかばうように体をねじりながら、虚はロアの横をすり抜けるようにして、私のいる場所へ向かって一気に突進してきた。大きな体が乾いた平原の草を薙ぎ払い、こちらへ迫る。


「逃げろ!」


ロアの叫び声が響く。

もつれる足を動かそうとしたが間に合わず、私は乾いた土の上に尻もちをついた。灰色の体が視界を覆う。尻もちをついた拍子に、腰の袋からガラスペンが滑り出た。私はそれを落とすまいと、反射的に握りしめる。その瞬間、虚の長い腕が目の前に迫り、私はそれを払うように、夢中で手を振った。


挿絵(By みてみん)


その瞬間、ガラスペンの先端からくすんだ色が広がった。

昨日見た薄い色ではない。

ロアの体にまとわりついている、あの灰色が、目に見えない細い糸で手繰り寄せられるようにして、私のペン先へと一気に流れて込んでいく。それを引き出そうと意図したわけではなかった。ただ、私の腕の動きに合わせて、目の前の虚に向けて、灰色の線が広がった。


何が起きたのかは分からない。

ただ、私のペン先から広がった灰色が、目の前まで迫っていた虚の胸元を横切った。

虚の体がぐらりと揺らぐ。

倒れはしなかったが、動きがぴたりと止まる。大きな足元が乾いた土を踏み外し、上半身が崩れ、私へ伸びていた腕が空を切る。


私は、ガラスペンを見つめた。

何をしたのか、どうして今の色が出たのかも理解できない。思考が追いつかなかったが、私は眼前の虚から目を離すことができなかった。

虚が再び顔を上げる。

まだ、動いている。

しかし、いつの間にかロアが虚の背後に近づいていた。

今度は、背中の方が崩れ落ちた。肩から脇腹にかけて、虚の灰色の体が薄まっていき、輪郭が崩れていく。ロアが触れているようには見えない。ただ近くに立っているだけなのに、虚の体はそこから崩れていった。


虚は暴れ回る。

振り回される腕の隙間から、ロアの足元が見えた。

体が崩れ続ける中、崩れ落ちた灰色は、流れるようにロアの体へと吸い寄せられていく。一度は薄れかけていた彼の服が、灰色を纏って、また周囲の景色から浮き立つようになっていくのが見えた。


地を這うような唸り声が、唐突に途切れた。辛うじて立っていた体が、膝から折れる。地面に激突する大きな音はしなかった。あれほど大きな体が倒れたはずなのに、草がカサリと押し潰される音だけが周囲に響き、あとは灰色の体が崩れるように平原へ沈んでいった。

そこには、虚の体は残されていなかった。

ただ、周囲の草が乱暴に踏み荒らされ、地面には、その跡だけが残っている。けれど、あれほど大きな「存在」がそこにいたという痕跡は、それだけだった。


私はしばらく動けなかった。

ガラスペンを握りしめた手を、まだ下ろせずにいる。手に力が入りすぎて関節がこわばり、一本ずつ指を伸ばそうとしても、うまく動かせない。

ロアが静かにこちらを振り返る。

その表情に変化はなく、呼吸が乱れている様子もない。

彼の服や体にまとわりついていたあの灰色の膜は、さっきよりも薄れ、消えかけていた。


「怪我は」


ロアが淡々とした声で言った。

私は首を横に振ろうとしたが、身体がうまく追いつかない。


「大丈夫です」


どうにか絞り出した声は、自分でもはっきりと分かるほど小さく震えていた。

ロアは私の手元を見る。

私もまた、自分の握るガラスペンを見つめた。透明なペン先には、さっきの濁った灰色はもう残っていない。軸の奥深くに、昨日見た薄い色だけが頼りなく残っている。


「今の……」


問いかけようとして、言葉が続かない。

何が起きたのかが全く分からない。

ペンを振ったこと。そこから灰色のようなものが広がったこと。そして虚が怯んだこと。

それらの事実だけが頭の中に残っているが、ひとつの出来事としてまとまらなかった。


ロアは問いには答えず、ただ虚が崩れ去った平原の土を静かに見つめている。私はガラスペンを強く握りしめたまま、泥のついた手でどうにか立ち上がろうとした。

ロアがようやく、こちらに顔を戻す。


「歩けるか」


私は小さく頷いた。

本当は、すぐに歩き出せる状態ではない。足の裏は小石を踏んでひりひりと痛み、膝の震えも収まっていない。けれど、この平坦な平原の真ん中に座り込んでいるわけにはいかなかった。また虚が這い出てくるかもしれない。そいつが一体だけであるという保証はどこにもなかった。


ロアは私が立ち上がるのを確認すると、すぐに歩幅を戻した。

私はガラスペンを握ったまま、その後ろ姿を必死に追いかける。

平原は、何事もなかったかのように静まり返っている。空も、倒れた草も、前へ続く細い道も、変わらずに平坦な灰色のままだ。けれど、さっきペン先から描き出されたあの灰色の残像だけが、頭から離れない。

どうしてあれが出たのか。私は一体何をしたのか。

そして、なぜ虚が動きを止めたのか。

何も分からないまま、私はガラスペンを握りしめて歩いた。


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