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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第2章 奪った色
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第1話 小屋を出たあと

木立を進むあいだ、何度も足を止めて振り返ってしまう。

枝の隙間に、さっきまでいた小屋の屋根が小さく見える。傾いた壁、入口にかかった古い灰色の布、そして、土をかぶせて消した火の跡。

幹が幾重にも重なるにつれて、それらの輪郭はどんどん薄くなり、やがて木々の暗がりに完全に溶けて消える。

戻りたいわけではない。あそこに残れば安全だったわけでもない。ただ、あそこには昨日、自分の手で枝をくべた火があった。頼るべき目印をすべて失ったようで、急に足元の心細さが増す。


「前を見て歩いた方がいい」


ロアの声に、私は慌てて顔を戻す。


彼は一度もこちらを見ない。足元の折れた枝を淡々と避けながら、少しも迷わずに先へ進んでいく。


「すみません」


口をついて出た言葉が、この場に合っているのかは分からない。

けれど、本当に足元から目を離す余裕がないのだ。地面には枯れ枝が散らばり、湿った土がむき出しになっている。布を巻きつけただけの足裏は、小石の角を踏むたびに昨日の傷を容赦なく刺激する。

一歩進むごとに、ずきっと痛む。私は少しでも平らな地面を探しながら、必死についていく。

前を行くロアの足運びには、一切の淀みがない。私にはまったく同じに見える灰色の地面なのに、彼は最も歩きやすい場所を見極めているように見える。

歩調が乱れるたびに、腰に下げた袋が大きく揺れる。

私はワンピースの上から袋の底をそっと押さえる。ガラスペンの硬い感触を指先で確かめ、口が閉まっているのを見て胸をなでおろす。


「持ってるものも隠したほうがいい」村を出る前にロアが言った言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


「エルシアまでは、遠いんですか」


張り詰めた沈黙に耐えかねて、ようやくそれだけを口にする。


ロアの歩調は変わらない。


「ああ。今日中には着かない」


平然としたその答えに、次の言葉を失う。

足元に目を落とすと、足首に巻いた布は湿った泥を吸って黒ずみ、ずっしりと重い。今はまだ、痛みをごまかしながら歩けている。けれど、この足で夜まで歩き続けられるのだろうか。


「今日は、平原の途中までだ。日が暮れる前に、休める場所を探す」


ロアは木々の隙間から覗く平原に視線を向けた。

休める場所、と彼は言った。けれど、それが昨日のような小屋なのか、ただの風除けの岩陰なのかは分からない。これ以上尋ねる意味もない。どんな場所であれ、そこまでロアの背中を追うしか、私に生き残る道はないのだから。

木々の隙間が少しずつ広がり、前方の視界が急に明るさを帯びる。

最初は空が近づいてきたのかと思ったが、そうではない。木立が途切れ、その先に同じ灰色の景色がどこまでも広がっている。


平原だ。


挿絵(By みてみん)


遮るもののない草地を目の前にして、思わず足がすくむ。

木立の中は確かに暗く、歩きにくかった。けれど、そこには身を隠せる大きな幹があり、岩陰があった。小屋も、水場も、誰の目にも触れない場所に静かに佇んでいた。


だが、この平原には何もない。


見通しが良いのではない。牙を剥く何かが現れたとき、自分を隠してくれるものが何一つ存在しないのだ。

どこまでもなだらかな起伏が続き、遠くでは灰色の地面と空の境目が溶け合うようにぼやけている。どこまで歩けば町にたどり着くのか、見当さえつかない。


「ここを、行くんですか」

「ああ。道はある」


ロアが指さした先を見る。

言われてみれば、草がなぎ倒されて細い筋のようになっている。そこだけ草の向きが周囲と異なり、土がわずかに踏み固められているようにも見える。

けれど、一度まばたきをすれば、草の海に簡単に溶けて見失ってしまいそうなほど頼りない痕跡だ。


「私には、よく分かりません」

「俺の歩いたところを歩けばいい」


突き放すような、けれど余計な不安を与えない声音だった。

私は言い返そうとしてやめた。道を見失えば、ここで飢え死ぬ。あるいは、あの村の境界で見たような、異様な(うろ)に遭遇すれば逃げることもできない。ただそれだけの事実を、ロアの言葉が引き戻す。

私は小さく息を吸い、一歩だけロアの背中に距離を詰める。

彼に近づきすぎたくはない。

虚の体を削り取り、その存在を崩壊させた彼の力を、私はまだ忘れていない。村人たちが彼を恐れ、避けるように道を空けた理由も身に染みて分かる。ロアの近くにいるということは、いつその理不尽な力に巻き込まれるか分からないということだ。

それでも、この灰色の静寂の中に一人で取り残される恐怖に比べれば、彼の不気味な背中のほうがまだ耐えられた。


平原へ踏み出す直前、ロアの足がピタリと止まる。

つられるように、私もその場で身構える。

ざざ、と足首のあたりで草が小さく揺れる。

ロアは平原の遥か先を見据えたまま、体を微動だにさせない。


「どうしたんですか」

「音がした」


私は息を潜め、耳を澄ます。

風が枯れ草を撫でる乾いた音。背後の木立で葉が擦れ合う音。どれのことを言っているのか、私の耳には判別がつかない。

そのとき、平原の少し奥深くで、かさ、と草の擦れる鈍い音が聞こえる。

風が通り過ぎ、倒れた草が元に戻る動作の中で、一箇所だけ、まるで何かが通り抜けたように不自然に遅れて揺れる草むらがある。


私は目を凝らす。


けれど、再び強い風が吹くと、草の波にかき消されて位置が分からなくなる。


「動くな」


ロアの低い声が平原の空気に溶ける。

私はその場に釘付けにされたように立ち尽くし、きつく両手を握りしめる。

ロアは視線を一点から外さない。

数十秒が経過しても、それ以上の音は聞こえない。


「……行くぞ」


ロアが歩き出す。

私は一拍置いて、彼の靴音が刻むリズムに遅れないよう必死についていく。

木立の影を完全に抜け出た瞬間、頭上の空が急に広く、圧倒的な重さで迫ってくる。

空はどこまでも灰色に沈んでいる。これほど明るい光が満ちているのに、草にも土にも、失われた色彩が戻る兆しはない。

振り返っても、木立の輪郭すら霞んで、小屋のあった場所はもう分からない。ミオリ村はさらに遥か遠くだ。私の目の前にあるのは、ただ平原を貫く不確かな道だけだ。


町へ行けば、まともな靴が手に入るかもしれない。

せめて、この痛む足を守る履物が欲しい。替えの衣類も、下着も必要だ。水を持ち歩く袋も、食料を保管する袋も。

考え出せばきりがないほど、自分が何も持っていないことに気づく。

けれど、そんな望みを思い描くには、この平原はあまりにも広大で静まり返りすぎている。


ロアの背中は、すでに数歩先を進んでいる。

私は小石を避け、足の痛みをこらえながら彼の足跡をなぞる。

ロアを信じたわけではない。無事に町へたどり着ける保証もない。

それでも、この灰色の荒野に一人で立ち尽くすよりは、彼の背中についていく方が、はるかにましだった。


数歩進んだところで、ロアの体が急に制止する。

私も慌てて足を止める。

風は完全に止んでいる。平原の低い草も、転がる石も、湿った土も、すべてが均一な灰色の中に死んだように沈み込んでいる。

最初、ロアが何を見つめているのか分からなかった。

けれど、彼は一歩も動かず、ただ前方の空間を凝視している。

彼の視線の先を必死に追い、私はようやく、その異様な存在に気がつく。


遥か遠く、灰色の草地の真ん中に、何かがぽつりと立っている。

人の形をしているようにも見える。

けれど、そこに佇む影は、人間としては明らかに大きすぎた。

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