第4話 明日を迎えるために
フェルド村に来てから、ひと月ほどが過ぎた。
食事は少しずつ取れるようになったが、家の外へ出ようという気にはまだなれない。
グレンが仕事に出ている間、私は寝台に横になったり、机に座ったりして過ごした。何かをしようと思っても、途中で手が止まる。時間だけが過ぎていき、気づけば夕方になっている。
何も考えていないわけではない。
ネレイ港へ戻らなければならないことも、グレンにいつまでも世話になるわけにはいかないことも分かっている。
でも、帰ったところで何をすればいいのだろう。
これまでは、グレンとフィンを探すことだけを考えていた。
今日は誰に話を聞こうか、次はどこを調べに行こうかと考えていた。何も見つからなくても、翌日には別の場所へ出かけた。
今はもう、二人を探す必要がない。
グレンは見つかった。
フィンは死んだ。
その先のことを、私は何も考えていなかった。
*
ある日の昼過ぎ、家の戸を叩く音がした。
グレンは朝から村の仕事に出ていて、まだ戻っていない。
しばらく待ってみたが、もう一度戸を叩く音が聞こえた。
「グレンさん、いるかい?」
女の人の声だった。
私は寝台から立ち上がり、戸口まで歩いた。
「グレンなら、今は出かけています」
戸を開けると、年配の女の人が野菜の入った籠を抱えていた。
「ああ、あんたがグレンさんのお姉さんかい」
「はい」
「よかった。具合が悪いって聞いてたから、ちょっと心配してたんだよ」
「……もう、大丈夫です」
そう答えると、女の人は安心したように笑った。
「これ、グレンさんに渡しておいてくれるかい? 昨日もうちの仕事を手伝ってもらったからね」
籠を差し出され、私は両手で受け取った。
「こんなに、いいんですか?」
「たいしたものじゃないよ。畑で採れたものばかりだから」
「ありがとうございます」
「こちらこそ助かってるんだよ。あんな大きな身体で力もあるし、頼んだ仕事はちゃんとやってくれるからね」
グレンは村の人たちに頼られている。
毎日仕事へ出かけているのだから、考えてみれば当然なのかもしれない。でも、私の知らないところで弟が人と関わり、生活していることが、何だか不思議に思えた。
「グレンさん、あんたのことをずいぶん心配してたよ」
「……そうですか」
「食べられるようになったならよかった。何か困ったことがあったら言っておくれ」
女の人はそれ以上、私の事情を尋ねなかった。
礼を言って戸を閉めたあと、受け取った籠を机に置いた。
グレンが何を話したのかは分からない。
ただ、私が家から出てこないことを、村の人たちも知っているらしい。
少し恥ずかしかった。
それ以上に、グレンが私のためにいろいろと気を遣っているのだと思うと、申し訳なくなった。
夕方、帰ってきたグレンに籠を渡した。
「ああ、届けてくれたのか」
「昨日も仕事を手伝ったんだって?」
「ああ。畑の囲いが壊れてたから、直すのを手伝った」
「いろんなことしてるのね」
「人手が足りないところが多いんだ。俺にできる仕事なら引き受けてるよ」
「そう」
グレンは野菜を取り出し、夕食の準備を始めた。
私はしばらく、その背中を見ていた。
「ねえ、グレン」
「何だ?」
「私、いつまでここにいていいのかな」
グレンが振り返る。
「何か言われたのか?」
「ううん。今日来た人も親切だった。でも、もうひと月くらい経つでしょう」
「そうだな」
「いつまでも何もしないで、あなたに世話になってるわけにはいかないと思って」
「俺は構わないけどな」
「私は気にするの」
グレンは少し考えてから、手にしていた野菜を机に置いた。
「姉さん、ネレイ港に戻りたいのか?」
「……分からない」
本当に分からなかった。
戻らなければと思うのに、今すぐ帰りたいわけでもない。
「ここにいたって、フィンは帰ってこないもの」
口にした途端、また涙が出そうになった。
私は顔を背けた。
「……ごめん。変なこと言った」
「謝らなくていいよ」
「分かってるけど……」
グレンはそれ以上尋ねず、夕食の準備に戻った。
私は机のそばに座ったまま、何か手伝おうかと言い出すこともできなかった。
*
それからも、外に出られない日が続いた。
村の人からもらった野菜を調理したり、食事の後片付けをしたりすることはあった。
グレンも私に家事を任せるようになったが、できない日があっても何も言わない。
ある日は、朝から気分がよくて、部屋を掃除することができた。
ところが、翌日は寝台からほとんど起き上がれなかった。
自分でも理由が分からない。
前の日は動けたのに、どうして今日は何もできないのだろう。
そんな自分が嫌で、ますます何もしたくなくなる。
グレンが帰ってきても、話す気になれない日もあった。
そういう日は食事を済ませると、早々に寝台へ戻った。
グレンも無理に話しかけてこない。
ただ、ある日の夕方、寝台にいる私に声をかけてきた。
「姉さん。何かしてほしいことはないか?」
「……別に」
「そうか」
「グレン」
「ん?」
「私のこと、面倒だと思わないの?」
ずっと気になっていたことを聞いた。
グレンは少し驚いた顔をした。
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、何もしないで寝てばかりいるし、食事だって作ってもらってる。あなたは毎日働いてるのに」
「俺が好きでやってることだよ」
「でも……」
「姉さんがいなくなったら、俺はまた一人になる」
私はグレンの顔を見た。
「……そうだね」
「せっかく会えたんだ。しばらくは一緒にいよう」
グレンはそれだけ言って部屋を出た。
私は寝台に横になったまま、さっきの言葉を考えた。
グレンは私の面倒を見ているだけじゃない。
私と一緒にいたいと思ってくれている。
そんな当たり前のことに、今まで気づいていなかった。
*
グレンと再会してから、二か月が過ぎた頃だった。
朝、起きてみると、久しぶりに洗濯をしようという気になった。
部屋に置いたままの服を集め、家の外へ持っていこうとしたところで、手が止まる。井戸へ行かなければならない。
水汲みはいつもグレンがやってくれていた。
でも、今日は自分でやってみようと思った。
集めた服をいったん置き、桶を持って戸を開けた。
家の前には、グレンが使っている薪割り台があった。脇には割り終わった薪が積んである。村の仕事に出かけたあとらしく、グレンの姿はない。
私は井戸へ向かった。
ここへ来た日、グレンを探して走った場所だ。
あのときは、こんなに遠くに感じなかった。
井戸までは家二軒分ほどの距離しかない。
久しぶりに外を歩くと、落ち着かなくて途中で何度も引き返そうかと思った。
村の人に会ったら、何を話せばいいのだろう。
ずっと家に閉じこもっていたことを聞かれるかもしれない。
そう考えているうちに井戸に着いた。
先に水を汲んでいる女の人がいた。
「あら、グレンさんのお姉さん」
以前、野菜を届けてくれた人だった。
「こんにちは」
「今日は洗濯かい?」
「はい。ずっと弟に任せっぱなしだったので」
「そうかい。じゃあ、私が終わったら使っておくれ」
女の人は桶に水を汲み終えると、少し場所を空けてくれた。
「グレンさん、今日も朝から働いてるよ。村の西で荷車の修理を手伝ってくれてる」
「いつもすみません」
「何を謝るんだい。ちゃんと仕事をしてもらってるんだから、こっちが礼を言う方だよ」
そう言って、女の人は笑った。
「それじゃ、無理しないでね」
私は礼を言って、女の人を見送った。
思っていたより、ずっと普通のやり取りだった。
誰も私に、どうして今まで外に出なかったのかなんて聞いてこない。
少し気が楽になった。
桶に水を汲み、家の近くまで戻ってから洗濯を始めた。
服を水に浸し、汚れたところをこする。
こんなことは、今まで何度もやってきた。
それが二か月もできなかった。
今はこうして、洗濯物を洗っている。
少し前まで、寝台から起き上がることさえ嫌だったのに。
そこまで考えたところで、フィンのことが浮かんだ。
私だけ、普通の生活に戻ろうとしている。
フィンはもう、何もできないのに。
手が止まった。
洗いかけの服を桶に入れたまま、私はしばらく動けなかった。
どうして、こんなことまで気にしてしまうのだろう。
洗濯をしたって、フィンを忘れるわけじゃない。
頭では分かっている。
それでも、私が少し元気になることを、どこかで許せない気持ちがある。
私は桶の中から服を取り出した。
途中でやめたところで、何が変わるわけでもない。
残りを洗い終え、家の脇に干した。
たったそれだけの仕事に、ずいぶん時間がかかった。
部屋へ戻ると、急に疲れを感じた。
寝台に座って、しばらく休むことにした。
*
夕方、グレンが帰ってきた。
「姉さん、洗濯したのか?」
「うん。自分の服くらい、自分で洗わないとね」
「水はどうした?」
「井戸まで汲みに行ったよ」
「一人で?」
「そうよ。そんなに驚くこと?」
「いや、久しぶりに外へ出たんだなと思って」
グレンは少し嬉しそうに見える。
私は何となく照れくさくなって、顔を背けた。
「洗濯くらいで大げさね」
「そうか?」
「そうよ」
グレンは笑いながら、仕事で汚れた手を洗い始めた。
「村の人にも会ったよ。前に野菜を持ってきてくれた女の人」
「ああ、あの人か」
「あなた、ずいぶん頼りにされてるみたいね」
「仕事をもらってるだけだよ」
「昔からそういうところあるよね。頼まれると断れないんだから」
「断る理由がなければ、引き受けるさ」
「無理はしないでよ」
「それを姉さんに言われるとはな」
「何よ、それ」
「いや、何でもない」
グレンが笑った。
私もつられて少し笑ってしまった。
そのあと、急に申し訳ない気持ちになった。
フィンが死んだと知ってから、グレンとこんなふうに笑ったのは初めてかもしれない。笑ってしまったことを、どう受け止めればいいのか分からなかった。
「……グレン」
「何だ?」
「私、今日、外に出られたんだけど」
「ああ」
「明日も出られるかは分からない」
グレンは手を拭きながら、私の話を聞いていた。
「洗濯してる途中で、またフィンのことを考えちゃってね。何もしたくなくなったの」
「そうか」
「でも、最後まで洗ったよ」
「ああ。ちゃんと干してあったな」
「……うん」
私は少し迷ってから続けた。
「明日、何か手伝おうかな」
「家の仕事か?」
「何でもいいよ。ずっとあなたに任せてばかりだったし」
「じゃあ、薪をまとめるのを手伝ってくれるか?」
「薪?」
「ああ。割った薪を束にしておきたいんだ。俺が割るから、姉さんはまとめる方を頼む」
「それならできると思う」
「助かるよ」
グレンはごく普通にそう言った。
私が仕事をすることを、特別な出来事のようには扱わなかった。
それがありがたかった。
明日の朝になったら、また何もしたくなくなるかもしれない。
薪をまとめている途中で、フィンのことを思い出して泣いてしまうかもしれない。
今はまだ、自分でも分からない。
けれど、明日やることが一つできた。
夕食の準備を始めたグレンの隣に立ち、私は野菜を切るのを手伝った。
フィンのことを考えなくなったわけではない。
きっと、これからも何度だって思い出す。
それでも今日は、グレンと一緒に夕食を作ることができた。
明日も、そうできるといいと思った。




