第2話 再会
男に教えられた方へ向かって走った。
村の奥へ進むにつれて家の数は減っていく。
途中で道が二つに分かれ、近くにいた女性に空き家の場所を尋ねた。
「ああ、あの人がいる家のことかな?」
「最近村に来た男の人です」
「それなら、この道をまっすぐ行って、井戸の手前を右。そこから二軒目の家だよ」
「ありがとう!」
礼を言い終えるより先に走り出していた。
グレン。
あの男は確かにそう言った。
聞き間違いじゃない。
同じ名前の別人かもしれない。
そんなことは分かっている。
それでも足を止めることなんてできなかった。
井戸が見えた。
右へ曲がる。
一軒目。
二軒目。
古い家の前に、一人の男がいた。
私はそこで立ち止まった。
大きな背中だった。
家の壁際に積んであった薪を、一本ずつ拾って束ねていた。
顔は見えない。
だけど、分かる。
肩の広さ。
腕の太さ。
少し背中を丸めて立つ癖。
何年離れていても、見間違えるはずがなかった。
「……グレン」
男の手が止まった。
ゆっくり振り返る。
顔が見えた瞬間、身体が動かなくなった。
グレンだ。
少し痩せている。
髪も髭も伸びている。
着ている服も見覚えのないものだ。
それでも、私の弟だ。
「……姉さん?」
その一言で、足が動いた。
「グレン!」
走った。
何か言おうとしたグレンの胸へ、そのまま飛び込んだ。
「うわっ」
大きな身体が少しよろける。
それでもグレンは倒れず、私を受け止めた。
「グレン……!」
腕を回した。
力いっぱい抱きしめた。
硬い。
あったかい。
ちゃんと人の身体だ。
触れる。
ここにいる。
「本当に……グレンだ」
「姉さん」
「生きてた」
「ああ」
「生きてた……!」
それ以上、言葉が出なかった。
涙が一気に溢れた。
止めようと思っても止まらない。
グレンの服を掴んだまま、顔を押しつけた。
「よかった……」
「姉さん」
「よかった……本当に……」
何度言っても足りない。
ずっと探していた。
死んでいるかもしれないと思った。
何度も諦めそうになった。
それでも、死んだと分かるまでは探すと決めた。
その弟が、今、私の腕の中にいる。
「生きててくれて……ありがとう」
グレンは何も言わなかった。
ただ、しばらくして大きな手が私の背中に触れた。
昔と同じ手だった。
子供の頃、私が転んだときも、重い荷物を持てないときも、黙って助けてくれた手。
それに気づいたら、また涙が出てきた。
「姉さん、泣きすぎだ」
「うるさい」
「服が濡れるよ」
「そんなの知らない」
「そうか」
「そうよ」
泣きながら答えると、グレンはそれ以上何も言わなかった。
私はしばらくグレンから離れられなかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。
ようやく腕の力を緩めたとき、グレンが私の顔を見た。
「変わってないな」
「何がよ」
「姉さんだ」
「意味分かんない」
涙を手の甲で拭った。
グレンが生きている。
目の前にいる。
それだけで、胸の中がいっぱいだった。
笑いたいのか、泣きたいのか、自分でも分からない。
そこでようやく、いるはずのフィンの姿がないことに気づいた。
「グレン」
「なんだ」
「フィンは?」
グレンの表情が固まった。
私はすぐそれに気づいた。
「フィン」
もう一度言った。
「一緒じゃないの?」
グレンは答えない。
嫌な予感がする。
「ねえ」
「……」
「グレン、フィンは?」
グレンが目を少し逸らす。
「フィンを探しに行ったんでしょう?」
「ああ」
「見つけたの?」
長い沈黙があった。
私はグレンの腕を掴んだ。
「見つけたの?」
「……見つけたさ」
胸が大きく鳴った。
「どこにいるの?」
グレンはすぐには答えない。
「今どこにいるのよ?」
「姉さん」
「フィンもいるんでしょう?」
自分でも、答えを急いでいるのが分かった。
グレンが生きていた。
だったらフィンだって。
そう思った。
そう思いたかった。
「グレン」
「フィンは……」
そこでグレンが止まった。
「何?」
「死んだ」
一瞬、言葉が理解できなかった。
「……え?」
「フィンは死んだんだ」
聞こえている。
言っている意味も分かる。
なのに、頭がそれを受け入れられない。
「何言ってるのよ」
「姉さん」
「さっき見つけたって言ったじゃない」
「ああ」
「だったら、どこにいるの?」
「もういないんだ」
「何で?」
自分でも何を言っているか分からないまま聞いていた。
「どこにいるの?」
「……いない」
「だから、何でよ」
グレンが黙った。
「連れて帰ってきたんでしょう?」
「できなかったんだ」
「何で?」
「姉さん」
「ちゃんと説明してよ!」
信じられないくらい大きな声が出た。
近くの家から誰かがこちらを見ている気配がする。
でも、そんなことはどうでもいい。
「グレンが探しに行ったんでしょう? 見つけたんでしょう? だったら何で一人なの?」
グレンはしばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で話し始めた。
「あいつはローデン丘にいた」
「ローデン丘?」
「ああ」
「フィンが?」
「そうだ」
「じゃあ――」
「見つけたときには、もう身体が消えかけてた」
その言葉に胸が苦しくなる。
「……消えかけてた?」
「身体の半分が、もう消えていたんだ」
「何それ」
「俺にも分からない」
「分からないって……」
「抱き上げたときには、まだ息はあった」
私は何も言えなかった。
「俺のことも分かっていた」
「フィンは何て言ったの?」
グレンが黙る。
「ねえ、何て言ったの?」
「姉さんのことを話していた」
「私の?」
「ああ」
「何て?」
「勝手に家を出てごめんなさいって」
また涙が出てきた。
「……馬鹿」
声が震えた。
「あの馬鹿……自分がそんな状態なのに……」
帰ってきたら殴るつもりだった。
勝手に王城へ行ったことを怒ってやるつもりだった。
グレンにまで迷惑をかけたことも。
父さんと母さんを心配させたことも。
全部まとめて怒るつもりだった。
「俺は、家に帰ろうって言った」
「フィンは?」
「帰りたいって言った」
「だったら……」
言いかけて止まった。
グレンが首を振った。
「もう無理だったんだ」
「何でよ」
「少しずつ消えていった」
「やめて」
「姉さん」
「やめてよ」
聞きたくなかった。
でも聞かなければならない。
どちらなのか、自分でも分からなかった。
「俺は、最後まであいつを抱いてた」
「……」
「でも何も残らなかった」
「やめてって言ってるでしょ!」
私はグレンの胸を押した。
グレンは動かなかった。
もう一度押した。
「何で助けてくれなかったの!」
言ってしまってから、それは違うと思った。
でも止められなかった。
「あなたがそこにいたんでしょう!」
「ああ」
「だったら助けてよ!」
「……すまない」
「謝らないでよ!」
今度は拳で胸を叩いた。
一度。
もう一度。
「謝ったってフィンは戻ってこないじゃない!」
「ああ」
「何で……」
力が入らなくなった。
その場にしゃがみ込んだ。
「何でよ……」
地面しか見えない。
涙がこぼれ落ちた。
「何でフィンなの……」
グレンは何も言わなかった。
父さんも母さんも、もういない。
その上、フィンまで失ってしまった。
家族が次々にいなくなっていく。
そのことを考えるだけで、胸が苦しくなった。
「やっとグレンが生きてるって分かったのに……」
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
数分前まで、生きていてくれてありがとうと思っていた。
なのに、そのすぐあとでフィンが死んだと聞かされた。
どうすればいいのか分からない。
「ずっと探してたのに」
「ああ」
「二人を探してた」
「ああ」
「絶対どこかで生きてるって……」
そこから先が言えなかった。
グレンが隣にしゃがんだ。
私は顔を上げなかった。
「フィンは、あの化け物にやられたんだと思う」
顔を上げた。
「え?……どんな?」
「でかい。それに人間じゃなかった」
胸の奥が冷たくなった。
まさか。
「……あいつ?」
ザロス。
父さんと母さんを殺した。
ガルダ村を壊した。
私たちが追いかけていた始原。
あいつが、フィンまで……?
「フィンが消えたあと、そいつが近くにいることに気づいた」
グレンが言った。
「俺はそいつに向かって行った」
「勝てるわけないでしょう!」
「その時の俺は何も考えてなかった」
グレンは淡々と答えた。
「フィンが死んだ。目の前に、あいつがいた。それだけだった。そこから先は覚えてない」
「……覚えてない?」
「ああ」
「向かっていったところまでは覚えてるが、そのあとの記憶がない」
「じゃあ、どうして今はここに?」
「それも分からない。気づいたら、この辺りにいた」
私はグレンの顔を見た。
嘘をついているようには見えなかった。
でも今は、他のことは何も考えられない。
フィンが死んだ。
そのことで頭がいっぱいだった。
「姉さん」
「……何」
「家の中に入ろう」
「ここでいい」
「もう暗くなる」
「どうでもいい」
「よくない」
「一人にして」
グレンは黙った。
「お願いだから……今は一人にしてほしい」
「分かった」
立ち上がる気配がした。
けれど、足音は離れていかなかった。
顔を上げると、グレンは少し離れたところに座っていた。
「一人にしてって言ったのに」
「……」
「一人にはしたくない」
「……」
「ここにいるだけだから」
昔からそうだった。
こういうところだけは頑固だ。
私は膝を抱えた。
涙は止まらなかった。
日が落ちていく。
村の家々から明かりが漏れ始める。
どこかの家で夕食を作っている匂いがする。
人の話し声も聞こえる。
みんな普通に暮らしている。
私だけが、そこから取り残されたみたいだった。
グレンは生きていた。
でもフィンは死んだ。
その二つが同時に頭の中を駆け巡る。
それをどう受け止めればいいのか分からない。
嬉しい気持ちと悲しい気持ちが同居して、頭がおかしくなりそうだった。
フィンの顔が何度も浮かぶ。
笑っている顔。
怒られてふてくされた顔。
勝手に出ていった日のこと。
帰ってきたら殴ってやろうと思ったこと。
でも、もうフィンのそんな顔を見ることも、叱ってやることもできない。
「フィン……」
もう名前を呼んでも返事はこない。
それは分かっている。
それでも、呼んだ。
隣にいるグレンは、何も言わなかった。
その夜、私はグレンが使っている家に泊まった。
何かを食べろと言われたけれど、口に入らなかった。
水だけ飲んで、借りた寝台に横になった。
眠れるはずもない。
暗い天井を見ながら、何度も同じことが浮かんでくる。
フィンが死んだ。
グレンの腕の中で。
最後まで帰りたがっていた。
私のことも話していた。
でも、そんなことを私は知らなかった。
ずっと探していたつもりだった。
どこかで生きていると信じようとしていた。
でも、フィンはもうずっと前にいなくなっていた。
隣の部屋にはグレンがいる。
確かめに行かなくても分かる。
あの大きな身体が、すぐ近くにいる。
弟の一人には、ようやく会えた。
もう一人には、二度と会えない。
私は布を頭までかぶった。
声を押し殺すこともできなかった。
その夜は、何度泣いたのか覚えていない。




