第9話 王の記憶
答えを得られないまま、ルシエルは部屋を出た。
そこは、城内でも大臣たちの執務室が集まる一角だ。
今の男も大臣なのだろうか。あんな男、城にいたか?
廊下へ出てからも、自分がなぜ城のこんな奥まで来ていたのか分からない。自分の部屋へ戻る道は分かる。でも、ここへ何をしに来たのかを思い出そうとしても、その目的がどうしても思い出せない。
いったん足を止め、手にした弓を見る。
黄の加護がない。
弓身も弦も壊れてはいない。いつも使っている自分の弓だが、そこにあるはずの加護が消えている。
自分の身体には加護がある。
なぜ弓の加護だけが失われているのか。
誰かと戦ったのか。それで加護を失ったのか。
だが、何も思い出せない。
「ルシエル!」
廊下の先から、聞き慣れた声がした。
曲がり角からレグルスとセラフィンが現れた。
「レグルス……セラフィン……」
二人のことは、ちゃんと覚えている。
名前も、自分と同じ使徒であることも、これまで共に王に仕えてきたことも覚えている。
そのことに少し安心したが、二人の姿に違和感を覚えた。
レグルスの長剣には黄の加護が残っているが、本人の身体にはない。
セラフィンは、本人にも手にした槍にも黄の加護がない。
「やっと見つけた」
セラフィンが近づいてくる。
レグルスが尋ねた。
「誰に報告しに来たんだ?」
「……分からない」
二人の足が止まった。
「分からないって、何がだ?」
「気づいたら、この奥の部屋にいたの。知らない男と二人きりで……」
「男?」
「ええ。私は、その男に弓を向けていた。でも、どうしてその部屋へ行ったのか、なぜ弓を向けていたのか覚えていない」
レグルスの表情が険しくなった。
「俺がお前に、城へ戻って報告しろと指示したらしい」
「らしい?」
「ああ。俺自身は覚えていない。正気に戻ったあと、セレンたちから聞いた」
ルシエルはレグルスの身体を見る。
「正気に戻ったって……その加護がないことと関係があるの?」
「おそらくな。俺もセラフィンも、身体の加護を失ったところで、自分たちが何をしていたのか分からなくなった」
「何をしていたの?」
セラフィンが答えた。
「ユイナ、ロア、セレンっていう三人を襲ってた」
「……誰?」
「俺たちも覚えてない。加護を失ってから、本人たちに聞いたんだ」
ルシエルは三人の名前を頭の中で繰り返した。
ユイナ。ロア。セレン。
どの名前にも、まったく覚えがなかった。
「じゃあ、この弓の加護も……」
「あの三人との戦いで失った」
セラフィンが答える。
「お前は弓の加護を失ったあとも戦い続けていたが、レグルスがお前に城へ戻って報告するよう指示したそうだ」
「でも、誰に報告するつもりだったのか分からないわ」
ルシエルは、さっきまでいた部屋を振り返った。
「気づいたときには、あの部屋にいたから……」
レグルスも部屋の方を見る。
「なら、まずそこを確かめよう。お前が誰に報告しようとしていたのか」
三人で部屋へ向かう。
ルシエルが扉を開けた。
「……え?」
中には誰もいなかった。
机も椅子も、さっきまで見ていたものと何も変わっていない。
けれど、男の姿だけが消えている。
「いない……」
「ここにいたのか?」
レグルスが尋ねる。
「いた。私が部屋を出るときまでは、確かにここにいたわ」
セラフィンが室内を見回す。
「他に出入口は?」
「分からない。でも、私が部屋を出てからそんなに時間は経ってない」
ルシエルは部屋の奥を見る。
さっきまで確かにそこにいた。
自分はその男に弓を向けていた。
なのに、もういない。
「……何なの、これ」
レグルスはしばらく室内を確認していたが、やがて二人へ向き直った。
「部屋の前に銘板があるはずだ」
三人は部屋を出た。
だが、扉の横にあるはずの銘板が、どこにも見当たらなかった。
「……おかしい。さっきまであの男がいた部屋なのに、名前すらないのか」
「陛下に報告する」
二人はうなずいた。
三人はその足でルミナ王のもとへ向かった。
夜も遅い時間だったが、使徒三人からの緊急の報告ということで、すぐに謁見が許された。三人が王の前で膝をつくと、ルミナ王は三人の身体と武器に施された加護を確認した。
「何かあったのか」
レグルスが顔を上げる。
「恐れながら陛下。私たちは今夜、ユイナ、ロア、セレンという民間人三人を襲いました」
ルミナの表情が変わった。
「なんだと。どういうことだ?」
「申し訳ありません。分かりません」
「分からない?」
「はい。私たちはその三人をなぜ襲ったのか、そこへ至った経緯も覚えていません」
レグルスは自分の身体に手を当てる。
「気づいたときには身体の加護を失っており、武器を持って三人の前に立っていました。それまで自分が何をしていたのか、なぜ三人と戦っていたのか、まったく分からなくなっていました」
セラフィンも続ける。
「私も同じです。気づいたときには身体の加護がなくなっていて、それまで自分が何をしていたのか分かりませんでした」
ルミナは二人を見比べる。
「お前たちの話からすると、加護を失ったことで正気に戻ったということか」
「そう考えています。ただ、本当に加護が原因なのかは分かりません」
「ルシエルは?」
ルシエルは顔を上げた。
「私は身体の加護を失っていません。弓の加護だけを破壊されたと聞きました」
「破壊されたと聞いた、とはどういうことだ?」
「……今夜の戦いを覚えていないのです」
ルミナはルシエルを見る。
「気づいたときには城の執務室の一室にいて、見覚えのない男に弓を向けていました」
「見覚えのない男?」
「はい。なぜその部屋にいたのか、なぜその男に弓を向けていたのか思い出せません」
レグルスが続ける。
「その部屋は確認しましたが、男の姿はありませんでした。銘板もなく、誰の執務室なのか分かりませんでした」
ルミナの表情が一層険しくなる。
「どの執務室だ」
「大臣たちの執務室が集まる一角です。場所は分かります」
「あとで確認しよう」
レグルスは一度うなずいたあと、続けた。
「それと、もう一つ確認したいことがあります」
「何だ」
「エルディン・レイヴァという人物をご存じでしょうか」
その名前を聞いた瞬間、ルミナの表情が変わった。
「エルディン?」
「はい。その三人から、その名前に心当たりがないかと聞かれました。しかし、私にはまったく覚えがありません」
「私もです」
セラフィンが続ける。
ルシエルも首を横に振った。
「私も知らないわ」
ルミナは三人を見回した。
「お前たち、本当にエルディンを知らないというのか?」
「はい」
レグルスが答える。
ルミナはしばらく三人の顔を見ていた。
「……あり得ないな」
「陛下?」
「エルディン・レイヴァは、この国の宰相だぞ」
三人の表情が変わった。
「宰相……?」
セラフィンが聞き返す。
「そうだ。私の側近で、この国の政務を担っている男だ。お前たちが知らないはずがない」
レグルスは言葉を返せなかった。
ルミナは三人の反応を見て、さらに表情を険しくする。
「三人とも、宰相であるエルディンを覚えていないというのか」
「はい」
レグルスが答える。
「ですが陛下。私たちだけではありません。衛兵も以前、ユイナたちからエルディンについて尋ねられたそうですが、その名に心当たりはないと答えたそうです」
ルミナは眉を寄せた。
「城の者まで?」
「はい。この国には宰相という役職自体が存在しないと答えたそうです」
ルミナは黙り込んだ。
少なくとも、ここにいる三人と衛兵たちはエルディンを覚えていない。
王城の衛兵も、使徒である三人も、宰相であるエルディンを覚えていない。
だが、ルミナだけはエルディンのことをはっきり覚えているようだった。
しばらくして、ルミナが口を開いた。
「その執務室へ案内してくれ」
「はい」
レグルスが答える。
「その前に、お前たちに再び加護を与えよう。この状態のままにはしておけない」
まずセラフィンの身体に、失われていた黄の加護が戻る。
続いて槍にも黄が宿った。セラフィンは自分の身体と槍を確かめる。
「ありがとうございます」
次に、レグルスの身体にも黄の加護が戻された。
最後にルシエルの弓にも、加護が戻った。ルシエルは弓を見つめた。 再び弓は黄で覆われた。けれど、失った記憶は何一つ戻ってこなかった。
加護を再び付与したあと、三人はルミナを先ほどの執務室へ案内した。
「ここです」
レグルスが扉の前で足を止める。
ルミナは扉の横の銘板を確認した。
「……おかしいな」
「何か?」
「ここはエルディンの執務室だ」
三人の表情が変わった。
「この部屋が?」
「ああ。長くあいつに使わせている。銘板がないはずがない」
ルミナは扉を開け、中へ入った。
部屋の中には、やはり誰もいない。
「ここに、その男がいたのだな」
「はい」
ルシエルが答える。
「私が部屋を出るまでは、確かにここにいました」
「顔は覚えているか?」
「……いいえ。男がいたことは覚えています。でも、顔は思い出せません」
「そうか。あとでエルディン本人を呼んで、何があったのか直接確かめよう」
ルミナは室内を見回した。
そのとき、急に黙り込む。
「……陛下? いかがなさいましたか」
レグルスが声をかける。
ルミナは眉を寄せ、何かを思い出そうとするように三人を見た。
「今、私は誰を呼ぶと言った?」
「エルディンです」
レグルスが答える。
「先ほど陛下が、この国の宰相だと――」
「エルディン?」
ルミナが聞き返した。
「誰だ、それは」
三人は、すぐには言葉が出なかった。
ついさっきまで、ルミナはエルディンをこの国の宰相だと言っていた。それどころか、この部屋がエルディンの執務室だと断言したばかりだ。
「陛下。本当に覚えていないのですか?」
レグルスが尋ねる。
「何をだ」
「エルディン・レイヴァです。この国の宰相だと、先ほど陛下ご自身がおっしゃいました」
「宰相?」
ルミナは眉を寄せた。
「この国に、そのような役職はない」
レグルスとセラフィンが顔を見合わせる。
ルシエルは何も言えなかった。
自分たちだけではない。
今度は、目の前でルミナ王の記憶まで変わった。
「陛下、今おっしゃったばかりです」
レグルスの言葉に、ルミナは怪訝そうな顔をした。
「私が?」
「はい。この部屋はエルディンという宰相の執務室で、長く使わせていると」
「そんなことを言った覚えはないが」
レグルスは返す言葉を失った。
セラフィンが部屋の中を見回す。
「私たちと同じですね……」
「何がだ?」
「陛下もたった今、エルディンという人物のことをお忘れになったのです。私たちがそうなったのと同じように」
ルミナはすぐには答えなかった。
「では、お前たちは、私がつい先ほどまで存在しない宰相について話していたというのか?」
「はい」
レグルスが答える。
「三人とも聞いています」
ルシエルもうなずいた。
「私も聞きました。この部屋がエルディンの執務室だと、陛下は確かにおっしゃいました」
「私には、エルディンという人物の記憶はない。だが、お前たち三人がそろって同じことを聞いたというのなら、信じるしかないな」
「はい」
「この部屋については調べよう。誰が使っていたのか、記録が残っているか確認させる」
レグルスがうなずく。
「ユイナたちのことは、どういたしますか」
ルミナは少し考えた。
「まず、事情を聞かなければならない。こちらから三人を襲った以上、そのままにはできぬ」
「では、城へ?」
「ああ。使いを出して招こう」
ルシエルは黙ってその言葉を聞いていた。
自分が弓を向けた相手の顔さえ思い出せない。
でも、その三人に会えば、失った記憶について何か分かるかもしれないと思った。




