第8話 途切れた記憶
王城の門が見えたところで、ルシエルはようやく足を緩めた。
走り続けたせいで、呼吸が乱れている。それでも立ち止まる気にはなれない。
早く報告しなくては……。
手にした弓には、もう加護はない。
弦も弓身も壊れておらず、矢を射ることはできる。
だが、今は自分の弓より気になることがある。
セラフィンだ。
槍の加護を失ったあとも、彼は戦い続けていた。ところが本人の加護が消えた途端、戦う理由も、受けた命令も分からなくなった。
あれは一体、何だったのか。
「……何なのよ」
門にいた兵が駆け寄ってくる。
「ルシエル将軍?」
「通して」
「レグルス将軍とセラフィン将軍は?」
「あとから戻るわ」
兵は弓を見て、何かに気づいたようだった。
「その弓……」
「今はいい」
それ以上話さず、城内へ入る。
誰かに説明するより先に、報告しなければならない。
レグルスから受けた命令でもある。
城へ戻り、状況を報告しろ。
その相手が誰なのかを、ルシエルは知っている。
城の奥へ進む。廊下に人影はない。
迷うことなく階段を上がる。
この先へ行くのは初めてではない。
角を二つ曲がり、一つの扉の前で止まった。
扉を二度叩く。
「入れ」
声を聞き、ルシエルは扉を開けた。
エルディンは机のそばに立っていた。
「戻りました」
エルディンは、ルシエルだけが戻ってきたことに訝しげな表情を浮かべた。
「レグルスは?」
「まだ戦場に残っています。セラフィンもです」
「なぜお前だけ戻った?」
「レグルスの命令です。状況を閣下に報告しろと」
エルディンは黙って報告の続きを待った。
「任務は失敗しました」
口にした瞬間、悔しさが込み上げてくる。
王に仕える七人の使徒のうち、三人が派遣された。
それでも、ユイナたちを討つことはできなかった。
「セラフィンが加護を失いました」
「槍か?」
「両方です」
エルディンの眉がわずかに動く。
「本人の加護も?」
「はい」
「それで?」
その言い方に、ルシエルはわずかに違和感を覚えた。セラフィンが加護を失ったと聞けば、普通なら本人の無事を気にするはずだ。
だがエルディンが尋ねたのは、そこではなかった。
「……戦うのをやめました」
「自分から?」
「違います」
あのときのセラフィンの顔が浮かぶ。
「自分が何をしているのか分からなくなったようでした。私たちに、誰の命令なのかと聞いてきました」
「そうか」
それだけだった。
驚きもしないし、聞き返しもしてこない。
ルシエルは思わずエルディンの顔を見た。
「驚かないんですね」
「何にだ?」
「セラフィンです。本人の加護が消えた途端、命令を忘れたんです」
「それは今聞いた」
「なら――」
ルシエルは言葉を止めた。
おかしい。
自分はセラフィンと何年も共に王に仕えてきた。
あんなセラフィンは初めてで、今も頭から離れない。
なのにエルディンは、まるで起こり得る結果を確認しただけのように見える。
「何かご存じなんでしょうか?」
エルディンは答えなかった。
「セラフィンに何が起きたのか、閣下は知っているんですか?」
「お前の加護は?」
「私には残っています。失ったのは弓の加護だけです」
「なるほど」
その言葉にも、ルシエルは引っかかった。
「弓の加護が消えても、お前は任務を覚えている」
「当然です」
答えたあと、ふと疑問が浮かんだ。
なぜそんなことを確認するんだ?
「レグルスはどうなっている?」
「私が離脱した時点ではまだ戦っていました」
「本人の加護は?」
「残っていました」
「そうか」
エルディンは少し黙った。
やがて、机の上に置かれていた書類へ手を伸ばしかけ、やめた。
「なら、もう長くはかからないかもしれないな」
「何がです?」
「いや」
「今、何て――」
「任務は中止だ」
ルシエルは言葉を失った。
「……何ですって?」
「三人を討つ必要がなくなった」
「待ってください」
一歩、エルディンへ近づく。
「レグルスはまだ戦っています。私も戻れます。弓の加護は失いましたが、射ることはできます」
「もう戻る必要はない」
「なぜですか?」
「状況が変わった」
「何が変わったんです?」
答えは返ってこない。
ルシエルの中にあった違和感が、警戒へと変わり始めた。
「そもそも――」
口にしかけて止まる。
自分たちは、なぜユイナたちを討とうとしていたんだ。
命令を受けた。
それは覚えている。
三人がルミナ王に害をなす可能性がある。
そう認識していたことも覚えている。
では、彼らがいったい何をした?
ユイナたちが王を襲ったところを見たのか。
王城へ侵入したのか。
誰かを殺したのか。
何一つ浮かんでこない。
「……あの三人は、何をしたんですか?」
エルディンは何も言わない。
「私たちは、あの三人が王に害をなすと聞きました。でも私は、それを示すものを一つも見ていません」
「そんなことは気にする必要はない」
「あります」
今度はすぐに返した。
「私は王の使徒です。王のために戦います。そのために授かった加護であって、理由もなく人を殺すためのものじゃありません」
エルディンの顔から、初めて表情が消えた。
「誰が、あの三人を危険だと判断したんですか?」
返事はない。
「王ですか?」
自分で口にしながら、それは違うと思った。
ルミナ王から直接命じられたなら、それを忘れるはずがない。
「私は王から、あの三人を討てと命じられていません」
言葉にすると、それは確信に変わった。
レグルスもセラフィンも、王から命令を受けたとは話していなかった。
「では誰が――」
ルシエルは目の前の男を見る。
答えは、最初からここにあったのだ。
「あなたが命じたんですね?」
エルディンは否定しなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「……どうして」
「ルシエル」
「どうして私たちに、あの三人を殺させようとしたんです?」
声が少し強くなる。
「王の命令でもないのに、私たちを――」
「もういい」
「よくありません」
ルシエルは引かなかった。
「セラフィンは加護を失って、命令を忘れた。あなたはそれを聞いても驚かなかった。レグルスの加護についても、まるで何が起こるか知っているような言い方をした」
エルディンは黙って聞いている。
「あなたは私たちに何をしたんですか?」
静かな声が返ってきた。
「全て終わったことだ」
「私には終わっていません」
ルシエルは弓を握る指に力を込めた。
「私はさっきまで、理由も分からず人を殺そうとしていたんですよ」
「理由なら与えた」
「与えた?」
その言葉で、ルシエルの警戒が一気に強まる。
「何を……言っているんですか」
エルディンがこちらへ一歩近づいた。
反射的にルシエルも身構える。
「そこで止まってください」
エルディンは止まらなかった。
「止まって!」
ルシエルは矢を一本取り出し、弦につがえた。
加護はなくても射ることはできる。
だが、エルディンはそんなことをまるで気にしていない。
「もう、お前が覚えている必要はない」
「何を――」
ふいに、夢から覚めたような感覚がした。
ここはどこだ?
それに、目の前にいるこの男は誰だ?
そこで、自分が目の前の男に弓を向けていることに気づいた。
私は何をしている?
そして、手にした弓から黄の加護が消えていることに気づいた。
なぜ加護が消えている?
自分の身体には、まだ黄の加護が残っている。
ここに来るまで何をしていたのか、まるで思い出せない。
「……あなたは、誰ですか?」
男は答えない。
思い出そうとしても、何も出てこない。
ルシエルは一歩退いた。
知らない男が、自分を見ている。
それなのに自分は、なぜかこの男と二人きりで部屋にいる。
弓を握る手に汗が滲んだ。




