治療
最初の通院は、思ったよりもあっさり始まった。
「まずは抗がん剤治療を行いましょう」
医師の声は、淡々としていた。
「進行を遅らせることが目的になります」
“治す”ではなく、“遅らせる”。
その言葉が、静かに胸に落ちる。
「どれくらい、持ちますか」
気づいたら、そう聞いていた。
少しだけ、間があく。
「個人差がありますが……数ヶ月から一年ほどと考えてください」
その現実的な答えに、なぜか納得した。
——ああ、そんな感じなんだ。
どこか他人事みたいに、そう思った。
治療はすぐに始まった。
点滴室。
同じように椅子に座る人たち。
カーテンで仕切られた空間。
静かな機械音。
腕に針が刺さる。
透明な液体が、ゆっくりと体の中に入っていく。
「副作用として、吐き気やだるさが出ることがあります」
看護師が優しく説明する。
私は、軽くうなずいた。
——まあ、なんとかなるでしょ。
そのときは、まだそう思っていた。
(伊藤太一視点)
初めて付き添った日。
点滴を受けている彼女を見て、言葉が出なかった。
いつも通りに笑っている。
「暇だわこれ」
そう言って、スマホをいじっている。
でも、その腕には針が刺さっていて。
その違和感が、どうしても消えなかった。
「……大丈夫か」
それしか言えなかった。
「大丈夫だって」
軽く返ってくる。
その“いつも通り”が、逆に怖かった。
最初の数日は、思ったより平気だった。
少しだるいくらいで、普通に動けた。
「ほら、言ったじゃん」
太一にそう言って、笑う。
でも——
数日後。
朝、起き上がれなかった。
体が、鉛みたいに重い。
胃の奥が、ぐるぐると気持ち悪い。
「……無理」
トイレに駆け込む。
吐き気が、止まらない。
何も出ないのに、体だけが反応する。
息が上がる。
冷たい汗が、背中を伝う。
母が私の背中をさすりながら、何もできない自分が悔しがった。
「大丈夫、大丈夫」
そう言うしかない。
でも、そう思ってくれるだけでありがたかった。
私は、少し落ち着いたあと、床に座り込む。
「……これ、きついわ」
初めて、本音が出た。
太一が、何も言わずに隣に座る。
ただ、背中に手を置いてくれる。
それだけで、少し楽になる。
治療は、何度か繰り返された。
そのたびに、体は少しずつ弱っていく。
髪が抜け始める。
朝、枕に残る髪。
シャワーで、指に絡む毛。
「……あーあ」
鏡を見ながら、苦笑する。
思ったよりショックじゃなかった。
それよりも——
“ああ、ちゃんと進行してるんだな”という実感のほうが強かった。
医師からの説明は、徐々に変わっていった。
「腫瘍の縮小は見られません」
「現状維持、もしくはわずかに進行しています」
言葉は柔らかい。
でも、意味ははっきりしている。
効いていない。
医師に言われた。
「治療を続けるかどうか、一度考えてもいいかもしれません」
その言葉に、少しだけ笑ってしまった。
「選べるんですね、これ」
「はい」
静かな返事。病院の帰り道。
空がやけに広かった。
「……どうする?」
太一が聞く。
少し考える。
体のしんどさ。
残された時間。
全部、天秤にかける。
「……やめよっかな」
ぽつりと呟く。
太一は、何も言わなかった。
ただ、隣を歩いてくれる。
「残りの時間さ」
少しだけ笑う。
「もうちょっと、ちゃんと使いたい」
その言葉は、不思議なくらいすっと出てきた。
迷いは、なかった。
怖さは、あったけど。
それよりも、“やりたいこと”のほうがはっきりしていた。
「そっか」
太一が、短く答える。
それだけで、十分だった。
——この日から、私は“自分の終わり方”を考え始めた。




