サヨナラ 1
会社のビルを見上げたとき、少しだけ足が止まった。
「……久しぶりだなあ」
私は小さく呟いた。
自動ドアが開いて、いつもの空気が流れてくる。
少し乾いた、オフィス特有の匂い。
受付の横を通って、エレベーターに乗る。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、少しやつれていた。
でも、見なかったことにする。——いつも通り。
それを、最後まで突き通したかった。
フロアに着くと、キーボードの音が一斉に耳に入る。
「おはようございます」
いつも通りの声で言う。一瞬だけ、空気が止まった。
「え、久しぶりじゃん!」
さゆりが立ち上がって、こっちに来る。
「大丈夫?体調」
その言葉に、少しだけ間があく。周りのみんなも気になるのか、こちらを見ている。
でも、私はすぐに笑っとこう返した。
「まあまあ」
曖昧に返す。
「無理すんなよ?」
軽く肩を叩かれる。
その何気ない優しさが、胸に刺さる。
(さゆり視点)
やっぱり、変だ。
顔色もそうだけど。
それよりも、纏っている空気が違う。
いつもみたいに雑じゃない。
まるで何もなかったように“整ってる”。
それが、逆に違和感だった。
(主人公視点)
自分のデスクに座る。
見慣れたモニター。
積まれた書類。
全部、そのままなのに。
どこか“もう自分の場所じゃない”気がした。
パソコンを立ち上げる。
メールを開くと未読の通知が並ぶ。
ひとつずつ処理していく。
指は動く。でも、何かが違う。違和感にさいなまれながら時間が過ぎるのは早かった。
昼休み。
「一緒に行こ」
さゆりに声をかけられる。
いつもの店。いつもの席。いつものメニュー。
「やっぱこれだよね」
笑いながら、同じものを頼む。
(さゆり視点)
普通に話してる。
でも、どこかで線を引かれてる感じがする。
踏み込めない。
踏み込んじゃいけない気がする。
でも——
「ねえ」
思わず、口に出していた。
「なんかあった?」
その言葉に、少しだけ手が止まる。
——やっぱり、気づくよね。
少しだけ、迷う。
ここで言うか。でも……。
さゆりには、自分からちゃんと言いたかった。
「……ちょっとさ」
覚悟を決め、ゆっくり顔を上げる。
「病気でさ」
さゆりの表情が、固まる。
「がんなんだよね」
言葉にした瞬間さゆりの顔色が変わった。
さゆりは一瞬、何を言われたかわからなかったような表情でこちらを見て一言。
「……え?」
それしか出なかった。
それを見て私は少しだけ笑う。
「しかもさ、まあまあやばいやつ」
軽く言ったつもりだった。
でも——
さゆりの目に、涙が浮かぶ。
「ちょっと待ってよ」
声が震えている。
「何それ?」
ああ、やっぱりこうなるか。
そう思いながら、でも目を逸らさない。
「だからさ」
少しだけ、真面目な声になる。
「仕事、ちゃんと引き継ぎたいなって思って」
さゆりはその言葉で、全部つながった。
今日来た理由。この違和感。その行動の全て。
「……やだ」
小さく、声が漏れた。
「やだって言われてもなあ」
私は、苦笑する。
「まあ、決まってることだからさ」
そう言いながら、心の奥が少しだけ揺れる。
でも、それを表に出さない。
--午後。
上司にも話をした。
会議室。閉じられた空間。
静かな声で、事実だけを伝える。
自分の状況や今後の予定を。
上司は、しばらく何も言わなかった。
そして、深く息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。でも、その一言に思いの全部が詰まっていた。
私は、デスクに戻る。いつもの席。
でも、引き継ぎが済めばここにはいられない。
引き継ぎの資料を作り始める。
細かく、丁寧に。抜けがないように。
それは、仕事としてじゃなくて——
自分の一つの“区切り”としてやっている気がした。
帰り際。さゆりが、無言で隣に立つ。
一緒にエレベーターを待つ。
何も話さない。
でも、その沈黙が、やけに重い。
エレベーターの扉が開き、中に入る。
扉が閉まる直前。
さゆりが、小さく言った。
「……これで最後なの?」
一瞬だけ、答えに詰まる。
でも、すぐに笑う。
「いや、また来るよ」
軽く言う。
それが嘘だって、自分でもわかっていた。
エレベーターが下に降りていく。
静かな振動。数字がひとつずつ減っていく。
——ここに来るのも最後だな。そう思った。
でも、不思議と後悔はなかった。
私は、ちゃんと働いた。ちゃんと関わった。
ちゃんと、ここにいた。それで良かった。
外に出ると、夕方の空が広がっていた。
少しだけ風が冷たい。
「……よし」
小さく呟く。
まだ、やることはある。
ちゃんと、全部終わらせるために。
次に進もうと思った。




