閑話 柊 早紀子視点 母の気持ち
あの子が、小さかった頃のことを、よく思い出すようになった。
どうして今になって、こんなに鮮明に浮かぶのだろう。
夕方の台所。
鍋の中で、味噌汁が小さく音を立てていた。
窓の外は、少しだけオレンジ色で。
「おかあさーん」
背後から、小さな声。
振り向くと、まだ背の低いあの子が、制服のまま立っている。
「今日ね、テストね、たぶんダメ」
そう言って、笑っていた。
「なんで笑ってるの」
思わず言うと、
「だって、もう終わったし」
ケロッとした顔で答える。
——そういう子だった。
終わったことを、引きずらない。
今を、どうするかを考える。
あのときは、ただの性格だと思っていた。
でも、今ならわかる。
あの子はずっと、そうやって生きてきたのだ。
——あの日。
病院からの電話を受けたとき。
受話器を持つ手が、震えていた。
「検査結果について——」
その言葉だけで、何かが崩れる音がした。
それでも、最後まで聞いた。
聞かなければいけないと思った。
母親だから。
あの子の、母親だから。
でも—— 全部聞き終わったあと、最初に浮かんだのは、
“どう伝えよう”だった。
悲しい、より先に。
怖い、より先に。
どうやって、あの子に言えばいいのか。
そればかりだった。
家に帰るまでの道。
何度も、言葉を考えた。
でも、どれも違う気がした。
優しく言っても、残酷で。
正直に言っても、残酷で。
結局、何をどう言っても——
残酷なのだと、途中で気づいた。
だから、もう考えるのをやめた。
せめて、ちゃんと顔を見て伝えようと。
それだけを決めた。
リビングで、あの子と向き合ったとき。
全部、見抜かれていた。
あの子のほうが、先にわかっていた。
それが、悔しかった。
守りたかったのに。
何も、守れていない気がして。
「癌、だって」
あの言葉を口にしたときの感触が、まだ残っている。
喉の奥が、裂けるみたいだった。
それなのに。
あの子は、静かに「そっか」と言った。
あんなふうに、受け止めてしまうなんて。
——どうして、この子は。
もっと、取り乱してくれたほうがよかった。
泣いて、怒って、「嫌だ」って言ってくれたほうが。
母親として、まだ何かできた気がするのに。
でも、あの子はそうしなかった。
あの子は、前を向いた。
その姿が——
誇らしくて。苦しくて。
どうしようもなかった。
夜、台所に立つ。
いつものように、味噌汁を作る。
包丁の音。
水の音。
全部、同じなのに。
同じじゃない。
あの子の時間は、限られている。
そう思うだけで、手が止まる。
「……やめて」
誰に言うでもなく、呟いた。
考えたくない。
でも、考えないわけにもいかない。
母親だから。
最後まで、見届けるしかない。
それが、どれだけつらくても。
ふと、背後から気配がした。
振り返ると、あの子が立っていた。
「なにしてんの」
いつもの声。いつもの顔。
「ご飯、もうすぐできるよ」
できるだけ普通に言う。
あの子は、少しだけ笑った。
「そっか」
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
——この“普通”が、どれだけ大切か。
今になって、やっとわかった。
あの子が笑っている時間を、ひとつでも多く残したい。
そのために、私は泣かない。
あの子の前では。
最後まで、母親でいるために。
そう、決めた。




