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会社の健康診断と精密検査

会社の健康診断を受けた。


 無機質な会議室。


 簡易的に仕切られたカーテンの向こうから、次々と人が出入りしている。


 床に貼られた矢印に沿って進んで、番号札を見せて、また次へ。


 「次、○番の方どうぞー」


 淡々とした声。


 体重計に乗って、血圧を測って、問診票に丸をつける。


 全部が流れ作業みたいで、少しだけ安心する。


 “特別なことじゃない”って、思えるから。


 「最近、体調で気になることはありますか?」


 白衣の医師が、カルテを見ながら聞いてきた。


 一瞬、迷った。


 背中の奥の、あの鈍い違和感。


 「……特にはないです」


 気づけば、そう答えていた。


 医師は「そうですか」とだけ言って、ペンを走らせた。


 それで終わり。


 ——数日後。


 「はい、健康診断の結果ね」


 総務の人に呼ばれて、封筒を渡された。


 デスクに戻って、椅子に座る。


 パソコンのファンの音と、キーボードの打鍵音が混ざっている。


 封を切る。


 紙の手触りが、妙に乾いている。


 目を走らせて——


 手が止まった。


 “要精密検査”


 その文字だけが、やけに浮いて見えた。


 「……あー、引っかかったかあ」


 思ったより軽い声が出た。


 現実感がない。なんだか、誰かの結果を見ているみたいだった。


 「どうしたの?」


 隣から、さゆりが顔をのぞき込んできた。


 「ん?あー、これ」


 紙をひらひらさせると、さゆりが目を細めた。


 「要精密検査?え、大丈夫?」


 「たぶん、引っかかっただけだよ」


 自分でも驚くくらい、軽く言えた。


 「でもさ、ちゃんと行きなよ?放置するタイプでしょ」


 図星だった。


 「するどいね」


 「だって、前も風邪ひいてるのに出勤してたじゃん」


 「それは仕事が……」


 「はいはい、言い訳」


 軽く笑われる。


 そのやり取りが、妙に安心する。


 “いつも通り”が続いている気がした。


 「まあ、行くよ。さすがに」


 そう言って、紙を折った。


 そのとき、背中の奥に、あの鈍い感覚。


 ほんの少しだけ、意識がそこに向く。


 ——でも、その違和感もすぐに消えた。

 

 家に帰り、母親に「会社の検診さ 要精密検査だって。仕事休んで行ってくるよ」

 

 いつもの口調で伝えると

 

 「そう。最近忙しかったもんね 隅々まで見てもらったらいいわ(笑)」


 母は気にしていないようだった。



 精密検査は、平日の午前中に予約を入れた。


 会社には「有給を使います」とだけ伝えた。


 「大丈夫?付き添いいる?」


 さゆりが心配そうに聞いてきた。


 「いや、大げさでしょ それにそういう時は家族同伴でしょ」


 と笑って答える。


 「ただの再検査だし」


 そう言いながら、心のどこかで“ただじゃないかも”という感覚が、ほんの少しだけあった。


 検査当日。


 朝の空気はまだ冷たくて、駅までの道で息が少し白くなった。


 通勤ラッシュの時間帯。改札を抜けると、人の流れに押されるようにホームへ向かう。


 スーツ姿の人たち、スマホを見ている人、眠そうな顔。


 いつもと同じ景色。


 電車に乗ると、つり革に掴まりながら、ぼんやりと窓の外を見た。


 流れていく建物。


 同じような住宅街。


 ——みんな普通に生活してる。


 その中に、自分もいる。なのに、今日は少しだけ違う場所に向かっている。


 それが、妙に現実味を持たなかった。


 病院の最寄り駅で降りる。


 人の数が少し減って、空気が静かになる。


 病院までは、歩いて十分くらい。


 白い大きな建物が見えてくる。


 ガラス張りの入口に、自動ドアがゆっくり開閉している。


 「……でかいな」


 思わず、小さく呟いた。


 中に入ると、空気がひんやりしていた。


 消毒液の匂いと、少し乾いた空気。


 受付で名前を伝えて、番号札をもらう。


 待合室。


 規則正しく並んだ椅子に、静かに座る人たち。


 雑誌をめくる音、遠くで呼ばれる名前。


 時間が、ゆっくり流れている気がした。


 「柊 友希恵さーん」


 呼ばれて立ち上がる。


 検査室へ。


 白い壁。無機質な機械。


 ベッドに横になると、背中に冷たさがじわっと広がる。


 「今から造影剤を入れますね。少し体が熱く感じることがあります」


 腕に針が刺さる。


 チクッとしたあと、体の奥にじんわりと広がる違和感。


 機械が動き出す。低く、規則的な音。


 「息を止めてください」


 指示に従う。


 その間、天井を見ていた。


 白い天井。


 それだけ。


 自分の体の中で何が起きているのか、想像もしなかった。


 ——考えないようにしていたのかもしれない。


 検査が終わると、少しだけ体がだるかった。


 「今日は安静にしてくださいね」


 そう言われて、軽くうなずく。


 会計を済ませて、外に出る。


 自動ドアが開いた瞬間、外の空気が一気に流れ込んできた。


 少し暖かくて、やわらかい風。


 眩しさに、思わず目を細める。


 「……終わった」ぽつりと呟いた。


 それだけなのに、どっと疲れが出る。


 帰り道。来たときと同じ道なのに、少しだけ違って見えた。


 通り過ぎる人の声。遠くで鳴るクラクション。横断歩道の電子音。


 全部が、ほんの少しだけ遠い。


 駅に着いて、ベンチに腰を下ろす。


 金属の冷たさが、じんわりと太ももに伝わる。


 電車の到着を知らせるアナウンスが、淡々と流れる。


 そのとき、スマホが震えた。


 ポケットから取り出して画面を見る。


 ——さゆり。


 《検査どうだったー?ちゃんと行った?笑》


 思わず、少しだけ口元が緩んだ。


 “笑”ってつけるところが、いかにもさゆりらしい。


 画面を見つめたまま、少し考える。


 なんて返そう。


 《行ったよー》


 そこまで打って、指が止まる。


 “どうだった?”に、まだ答えがない。


 検査は終わった。


 でも、何もわかっていない。


 なのに、なぜか——


 簡単に「大丈夫だった」とは打てなかった。


 画面の文字を一度消して、また打つ。


 《ちゃんと行ったよ。とりあえず終わった〜》


 送信ボタンを押す。数秒後、既読がつく。


 《えらいじゃん笑》


 《結果いつ出るの?》


 軽いテンポの返事。


 いつものやり取り。


 それを見て、少しだけ安心する。


 ——ああ、いつも通りだ。


 でも、その“いつも通り”の中に、自分だけ少しずれている気がした。


 《後日っぽい》


 《まあ大丈夫でしょ笑》


 そう打って、送る。


 “笑”をつけたのは、さゆりに合わせたつもりだった。


 でも、本当は——


 少しだけ、不安だった。


 自分でも気づかないくらい、小さな不安。


 《ならよかった!またご飯行こー》


 そのメッセージを見て、ふっと息を吐く。


 「うん、行こう」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。


 電車がホームに滑り込んでくる。


 風が強く吹いて、髪が少し揺れる。


 人の流れに乗って、車内に入る。


 つり革を掴みながら、スマホの画面をもう一度見た。


 さっきのやり取りが、そのまま残っている。


 なんでもない会話。


 でも、それが妙に愛おしかった。


 ——このときの私は、まだ知らなかった。


 このやり取りが、どれだけ大事な時間になるのかを。


 ただ、“いつも通り”が続くと思っていた。


 それが、どこまで続くのかも知らずに。

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