閑話 彼氏(伊藤 太一)視点 少しの違和感
忘れないうちに書き続けます
その頃から、ほんの少しだけ、違和感があった。
はっきりした何かじゃない。
でも、確実に“いつもと違う何か”だ。
仕事終わりに駅前で待ち合わせた日だった。
夕方の改札は人であふれていて、スーツ姿の人たちが流れるように動いている。
電車が到着するたびに、風が抜けて、少しだけ埃っぽい匂いがした。
いつもの場所。柱の横でスマホを見ながら待っていると、向こうから彼女が歩いてきた。
すぐにわかった。
でも、なんとなくー足が止まった。
「……あれ?」
距離はまだあるのに、違和感だけが先に届く。
いつもより、歩くスピードが遅い。
背中が、ほんの少しだけ猫背になっている。
片手でバッグを持ったまま、もう片方の手で、さりげなく背中に触れている。
でも、こちらに気づいて顔を上げた瞬間、いつもの彼女の顔になった。
「おまたせー」
軽い声。いつもの調子。
その“切り替え”が、逆に引っかかった。
「いや、今来たとこ」
そう返しながら、少しだけ彼女の姿を目で追う。
さっきまでの動きと、今の動きが違いすぎる。
気のせいかと思った。
でも、違う気がした。
店に入ると、いつものカウンター席に通された。
照明は少し暗くて、テーブルの上だけがぼんやり明るい。
「とりあえずビールでいい?」
「うん」
注文をして、少しだけ沈黙が落ちる。
彼女はメニューを見ているふりをしていた。
でも、視線が止まっていて、顔色も少し悪い気がする。
「どうした?何かあった?」
声をかけると、少しだけ遅れて顔を上げた。
「ん?なんでもない」
即答だった。
その速さが、逆に引っかかる。
ビールが来て、グラスを軽く合わせる。
「おつかれ」
「おつかれ」
一口飲んで、彼女はふっと息を吐いた。
そのとき。
ほんの一瞬だけ、顔が歪んだ。
見間違いかと思うくらいの、ほんの一瞬。
「……大丈夫か?」
思わず聞いた。
「え?」
「今、ちょっと顔——」
言いかけたところで、彼女は笑った。
「あー、ちょっと疲れてるだけ」
軽く、流すように。
「仕事、詰まっててさ」
そう言って、枝豆に手を伸ばす。
でも、その手がほんの少しだけ止まった。
指先に、力が入っていないように見える。
それでも、何事もなかったみたいに枝豆を食べている。
「ほんとに大丈夫?」
もう一度聞いた。
彼女は、少しだけ首をかしげて、それから笑った。
「大丈夫だって。なに、心配性?」
その言い方が、いつも通りすぎた。
——ああ、これ。
嫌な予感がした。
高校の頃から、知っている。
こいつは、ほんとに大丈夫なときは、そんなこと言わない。
逆に、何かあるときほど、軽く流す。
「ほんとにやばいときは言うから」
昔、そう言っていた。
でも——
言わないときのほうが、やばい。
それも、知っている。
「そう。じゃあ、信じるよ。そういえば健康診断、そろそろじゃない?」
なんとなく、話題を変えるように言った。
「え?」
「ほらっ、会社のやつ」
「あー、あるある」
少しだけ考える顔をして、それから笑った。
「じゃあ、それでいいや」
その一言が、妙に軽かった。
「それでいいって何が?」
「だって、どうせ行くし」
病院に行くってことか?と少し考えてみたが答えは出ない…。
彼女は肩をすくめて、またビールを飲む。
そのときも、ほんの少しだけ、眉が動いた。
でも、すぐに戻る。
何もなかったみたいに。
店を出たあと、夜風が少し冷たかった。
駅までの道、街灯が一定の間隔で並んでいる。
並んで歩きながら、何度か横目で見た。
やっぱり、少しだけ歩き方が違う。
ほんの少しだけ、かばうような動き。
俺じゃなきゃ気づかない位の違和感。
でも、言わなかった。
聞けば、きっとまた「大丈夫」って言う。
それがわかっていたから。
改札の前で、彼女が振り返る。
「じゃあね」
いつもの笑顔。
その笑顔に、少しだけ違和感が混ざっていた。
——なんか、隠してる。
そう思った。
でも、その正体までは、わからなかった。
「無理すんなよ」
結局、それしか言えなかった。
彼女は少しだけ目を細めて、笑った。
「大丈夫!無理してないって!」
軽く手を振って、改札の中へ消えていく。
その背中を、しばらく見ていた。
人の流れに紛れて、小さくなっていく。
そのとき、胸の奥に、うまく言葉にできない感覚が残った。
引き止めればよかったのかもしれない。
ちゃんと聞けばよかったのかもしれない。
でも、そのときの俺は——
「まあ、大丈夫か」
そう思ってしまった。
それが、どれだけ間違っていたかを知るのは、もう少し先のことだった。




