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プロローグ

 白い天井が、ゆっくりとにじんで見えた。


 蛍光灯の光が、ぼやけて、輪郭を失っている。


 カチ、カチ、と規則的な音が、どこかで鳴っていた。


 消毒液の匂いがする。


 鼻の奥に残る、少し冷たい匂い。


 ——ここ、どこだろう。


 まぶたが重い。体も動かせない。


 右腕に、何かが刺さっているような違和感がある。


 息を吸うと、胸の奥がわずかに痛んだ。


 「……っ」


 声を出そうとして、かすれた音しか出なかった。


 視界の端に、人影が揺れる。


 くしゃくしゃの髪。


 泣いたあとのように赤い目。


 ——ああ。


 その顔を見た瞬間、記憶がゆっくりと戻ってきた。


 私は...





 最初に違和感を覚えたのは、春の終わりだった。


 窓を少し開けた朝、まだ少し冷たい風がカーテンを揺らしていた。


 キッチンでコーヒーを淹れて、いつも通り一口飲んだとき。


 「……あれ」


 舌に残る苦みが、妙に強かった。


 雑味みたいな、引っかかる味。


 豆はいつもと同じ。お湯の温度も同じ。


 「疲れてるのかな」


 独り言のように呟いて、もう一口飲んだ。


 やっぱり、少しおかしい。


 少し顔を顰めたが、その違和感はすぐに感じなくなった。


 出勤の時間が迫っていて、メイクも途中で、時計ばかり見ていたから。


 「ヤバいっ!遅刻する...」


 急いで支度を終えて部屋をでた。走って最寄りの駅へ。

 

 定期を鞄から出し改札を通り、いつもの電車に乗った。


 「ふぅ...間に合った。ようやく一息つける(笑)」

 

 会社までは、30分の距離で移動時間に今日のニュースなどの時事を電車の中で

 

 確認するのが日課になっていた。

 

 会社に着くと、いつものざわついた空気。


 キーボードの音。電話の着信音。誰かの笑い声。


 「おはよー」


 席に着くと、隣の同僚のさゆりが振り返った。


 「ちょっと聞いてよ、昨日さ——」


 そのまま他愛もない話が始まる。


 ドラマの話とか、上司の愚痴とか、どうでもいい話。


 「でさ、結局寝たの何時?」


 「うーん、二時くらいかな」


 「いやそれは遅すぎでしょ」


 笑いながら、パソコンを立ち上げる。


 そのとき、背中の奥に、じわっと重い感覚が走った。


 「……ん?」


 一瞬、動きが止まる。


 肩甲骨の内側あたり。


 指で触れない、奥のほう。


 じんわりと広がる鈍い痛み。

 

 「どうかした?」

 

 心配そうな顔でさゆりが顔を覗き込んでくる。

 

 「なんか背中痛いかも」


 私は、さゆりに心配をかけまいと笑顔で答えた。

 

 「えー大丈夫?ずっと座ってるからじゃない?」


 「うん。そうかも。多分、運動不足だよ」


 私は、軽く笑って話を流した。


 「そっかならいいんだ。なんかあったら言ってね…」


 「じゃあ、仕事しよっか」


 「そうだね。今日も頑張ろう!」


 その日は、それで終わった。


 でも、次の日も、その次の日も。


 同じ場所が、ふとした瞬間に重くなる。


 資料を読んでいるとき。


 会議で長く座っているとき。


 ふと気を抜いたとき。


「ズン」と、内側から押されるような感覚。


 痛い、というよりは——


 気になる。


 でも、それだけだった。


 仕事は忙しかった。


 締め切りが重なって、残業も増えて。


 気づけば、時間はどんどん過ぎていく。


 「今日さ、ご飯どうする?」


 昼休み、コンビニの袋を開けながら聞かれる。


 「んー、今日は彼と約束あるんだよね」


 「いいねー、相変わらず仲良しだね」


 「まあね」


 少しだけ照れながら答える。


 その日の夜。


 駅前で待ち合わせをして、いつもの店に入る。


 なんてことない普通の居酒屋でお金の無かった学生時代からお世話になっている


 思い出のたくさんある店だ。


 「なんか疲れてない?」


 彼が、ジョッキを置きながら言った。


 「そう?」


 自分では、あまり自覚がなかった。


 「顔、ちょっとだけ」


  そう言われて、グラスに映る自分を見る。


 確かに、少しだけ目の下にくまができている気がした。


 「仕事がねー」


 そう言って笑う。


 そのときも、背中の奥に、あの感覚。違和感が顔を出していた。


 でも、言わなかった。


 なんとなく。


 大したことじゃない気がしたし、


 言葉にしたら、大げさになる気がした。


 「健康診断、そろそろじゃない?」


 彼が何気なく言う。


 「あー、そういえば」


 思い出す。


 「そう、来週なんだ」


 軽く答えた。


 今思えば——


 そのとき、もう少しちゃんと向き合えばよかったのかもしれない。


 でも、そのときの私は、そうは思わなかった。


 まだ、大丈夫だと思っていたから。


 日常は、何も変わっていなかったから。


 だから私は、その違和感を、小さくたたんでしまった。


 「健康診断まで待てばいいか」


 そうやって、私は自分を後回しにした。


 

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