閑話 母の気持ち 〜お別れ会の日〜
友希恵のお別れ会の日。
朝、目が覚めた瞬間。
数秒だけ、いつもの朝だと思った。
「お母さん、おはよう」
そんな声が聞こえてきそうな気がした。
でも。
静かな家だった。
娘の部屋のドアは閉まっている。
開けることはできる。
けれど、もうそこに娘はいない。
私は台所へ向かった。
いつものようにお湯を沸かす。
いつものように朝食を作る。
手は動く。
でも心は動かない。
夢の中にいるみたいだった。
テーブルには、旅行の時に撮った写真が置いてある。
海を見ながら笑う友希恵。
車いすに座りながら、みんなに囲まれている友希恵。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥が苦しくなった。
「本当にいなくなったんだね」
誰もいない部屋で呟いた。
返事はない。
それでも少しだけ落ち着いた。
泣くのは昨夜で終わりにしようと思った。
今日はあの子の願いを叶える日だから。
会場に着く。
祭壇はない。
僧侶もいない。
焼香台もない。
代わりに写真が並んでいた。
小さい頃の写真。
運動会の写真。
高校時代の写真。
会社員になってからの写真。
そして旅行の写真。
どれも笑っている。
本当に笑ってばかりいる。
「あんたらしいね」
思わず笑ってしまった。
会場には同級生たちが集まっていた。
杏子ちゃん。
太一くん。
会社の人たち。
みんな笑顔の写真を見ながら話している。
泣いている人もいる。
でも誰も下を向いていない。
それが友希恵の望んだ形だった。
病気が進み始めた頃。
あの子は言った。
「お葬式じゃなくてさ」
「お別れ会にしてほしい」
私は反対した。
縁起でもないと言った。
まだ生きているのに。
そんな話をするなと言った。
でも。
あの子は笑った。
「だってさ」
「みんなに笑って帰ってほしいんだもん」
その時の笑顔を思い出す。
昔からそうだった。
自分のことより。
人のことばかり。
最後まで。
本当に最後まで。
そういう子だった。
太一くんが前に立った。
少し緊張している。
友希恵の前では強がっていたけれど。
本当は誰よりも苦しんでいたことを私は知っている。
「最後まで普通でした」
その言葉に会場から少し笑いが起きる。
私も笑った。
確かにそうだった。
抗がん剤で苦しい時も。
旅行の準備をしている時も。
最期の数日前まで。
あの子は普通だった。
いつもの友希恵だった。
太一くんが頭を下げる。
「ありがとうございました」
その姿を見た時。
胸の奥にあった何かが少しだけほどけた。
私は思う。
もっと生きてほしかった。
もっと話したかった。
もっと一緒にいたかった。
それは今でも変わらない。
でも。
もし人生の長さではなく。
人生の温かさで測るのなら。
この子は幸せだったのかもしれない。
たくさん泣いた。
たくさん苦しんだ。
たくさんサヨナラもした。
だけど。
それ以上に愛されていた。
母親だから分かる。
あの子は最後まで一人じゃなかった。
会が終わる。
みんなが帰っていく。
最後に写真の前へ立った。
高校の頃の笑顔。
旅行の時の笑顔。
どちらも同じ顔だった。
私はそっと写真を撫でた。
「頑張ったね」
声が震える。
「本当によく頑張った」
涙が落ちる。
でも不思議だった。
悲しいのに。
少しだけ誇らしかった。
娘は最後まで自分の人生を生き切った。
そしてたくさんの人に愛されて旅立った。
写真の中の友希恵は笑っている。
その笑顔を見ながら、私は静かに微笑んだ。
「母さん ありがと」
風が窓を揺らした。
まるで返事をするみたいに。
そんな気がした。




